『さて、これからだ』
スマホの画面を、もう一度だけスクロールした。
《一人暮らしの場合
あなたが受給できる生活保護費
130,010円/月》
「……はあ」
思わず、息が漏れる。
「そうか……」
三人分が二十一万七千。
一人なら、十三万。
「……目からウロコ、ってやつか」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
頭の中で、数字が並び替えられていく。
五万円。
十三万円。
二十一万七千。
「……俺さ」
ベンチに座ったまま、缶コーヒーを見下ろす。
「自立してるつもりで、全然だったな」
一人なら、十三万で暮らせる。
三人なら、二十一万。
それなのに、自分は五万しか出していない。
「……甘えてたな」
胸の奥が、じわっと重くなる。
同時に、母の顔が浮かんだ。
この前、倒れたとき。
病院のベッドで、申し訳なさそうに笑っていた顔。
《ちょっと、ふらっとしただけ》
その「ちょっと」の裏に、
どれだけ無理が積み重なっていたのか。
「……買い物」
修司は、ふっと気づく。
「母さん、最近……」
スーパーの袋。
少し重そうだった腕。
息を整えてから、玄関に入ってきた姿。
「……あれ、しんどかったのか」
気づかなかった。
いや、気づこうとしなかった。
「俺さ……」
修司は、スマホをポケットにしまい、立ち上がる。
「ちゃんと、話さないとな」
逃げる理由は、もうない。
家に帰る途中、夕方の風が頬を撫でる。
昼間より、少し冷たい。
「……どう切り出すかな」
頭の中で、何度も言葉を組み立てては、壊す。
《ごめん》
《今まで知らなかった》
《足りてなかった》
「……全部、言うしかないか」
家の玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
母の声は、いつもと同じ。
それが、逆に胸に刺さる。
夕飯の支度をしている音。
包丁がまな板に当たる音。
「……母さん」
「なあに?」
「今日さ……」
言葉が、喉で止まる。
「……あとで、話せる?」
一瞬、手が止まる気配。
「いいわよ」
父も、新聞から顔を上げる。
「何だ」
「……家族会議」
少し照れくさくて、笑ってしまう。
「大げさだな」
父が言う。
「でも、ちゃんと話したい」
夕飯を食べ終え、三人でちゃぶ台を囲む。
湯呑みから立つ湯気。
時計の秒針の音。
「……ごめん」
修司は、最初にそう言った。
「え?」
母が目を瞬かせる。
「何が?」
「俺……今まで、分かってなかった」
言葉を、一つずつ選ぶ。
「家に五万入れてるから、親孝行だって思ってた」
「……」
「でも、全然足りてなかった」
父が、黙って聞いている。
「今日さ……計算したんだ」
生活保護の話は、簡単にだけ伝えた。
数字は、口に出さない。
でも、意味は伝わる。
「……俺、甘えてた」
修司は、深く頭を下げる。
「ごめん」
沈黙。
やがて、母が小さく笑った。
「そんなに思い詰めなくても」
「いや……」
「でもね」
母は、少し考えてから言った。
「買い物、確かに最近は重かった」
修司の胸が、ぎゅっとなる。
「言えばよかったのに」
「あなた、仕事あるでしょ」
「……あるけど」
父が、咳払いをする。
「修司」
「うん」
「こういうのはな、話さないと分からん」
責める声じゃない。
「だから、今言ってくれていい」
修司は、顔を上げる。
「……何ができる?」
「何を、したらいい?」
素直に、聞いた。
母は少し考えてから、言う。
「買い物、手伝ってほしいかな」
「毎回じゃなくていいから」
「重いものとか」
「……任せて」
即答だった。
父も言う。
「金のこともな」
「少し、話し合おう」
「無理のない範囲で」
「……うん」
胸の奥が、少し軽くなる。
完璧な答えは、まだない。
でも、逃げずに話せた。
「……俺さ」
修司は、照れ笑いを浮かべる。
「今日、初めてちゃんと大人になった気がする」
母が、吹き出す。
「何それ」
「遅すぎでしょ」
笑い声が、ちゃぶ台の上に落ちる。
修司は、その音を聞きながら思う。
——さて、これからだ。
間違っていたなら、直せばいい。
知らなかったなら、学べばいい。
この家で、
この距離で、
できることは、まだたくさんある。
修司は、湯呑みを手に取り、小さく息を吐いた。
「……よし」
人生は、
まだ、続いている。
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