『五万円では、足りなかった』

昼休みの終わりが近づく頃、修司は食後の缶コーヒーを開けた。


ぷしゅ、という音。

少し遅れて、甘くて苦い匂いが立ち上る。


「……ふう」


窓際のベンチに腰を下ろし、スマホを取り出す。

特に理由はなかった。

ただ、なんとなく。


ニュースアプリを閉じて、計算アプリを開く。

いや、正確には――生活保護費のシミュレーション。


「……別に、深い意味はないけどな」


誰に言うでもなく、呟く。


両親と、自分。

三人暮らし。


父の年齢を入れる。

母の年齢を入れる。

自分の年齢も。


地域を選択して、確認。


「……え」


一瞬、目を疑った。


《あなたが受給できる生活保護費

217,689円/月》


「……は?」


缶コーヒーを持つ手が止まる。

甘さが、急に口の中で浮いた。


「ちょ、待て待て」


画面をスクロールし、条件を確認する。

入力ミスはない。


「……俺、家に五万入れてるよな」


声に出す。


三万じゃない。

五万だ。


しかも、たまに食品も買ってくる。

米、十キロ。

肉。

野菜。


トイレ掃除もする。

風呂場掃除もする。


「俺、結構やってるだろ」


自分でも思っていた。

いや、思い込んでいた。


「孝行息子だろ、これ」


近所の人にも言われる。


「いい息子さんねえ」

「親御さん、大事にしてるわね」


そのたび、少しだけ胸を張っていた。


「……もう一回」


修司は、数字を消して、最初から入力し直す。


父。

母。

自分。


年齢。

地域。


確認。


《217,689円/月》


「……同じ、か」


喉の奥が、きゅっと縮む。


「……俺」


五万。

五万だ。


三人分の生活費の、三分の一にも届いていない。


「……あ」


数字が、音を立てて崩れる。


「……俺、何やってたんだ」


頭の中で、何かがひっくり返る。


親孝行だと思っていた。

ちゃんとやっているつもりだった。


でも。


「……足りてねえじゃん」


思わず、声が漏れる。


しかも――


「……父、もう定年だよな」


画面の数字を見ながら、改めて思い出す。


退職金はあった。

年金もある。


でも、現役じゃない。


「……俺」


自分は働いている。

フルタイムで。

区役所で。


なのに。


「……やっぱ、子供だな」


胸の奥が、じわじわと痛む。


「ああ……」


修司は、ベンチの背にもたれ、空を見上げた。


青空。

昼休みの、いつもの風景。


なのに、急に、世界の解像度が変わった。


「俺は、子供部屋おじさんだ」


はっきり、そう思った。


笑われている意味を、

初めて、ちゃんと理解した気がした。


「……何も、分かってなかった」


自分が出している金額。

自分がしていること。


それが、

“助け”ではなく、

“参加”にすらなっていなかった可能性。


「……きつ」


缶コーヒーを飲む。

甘さが、今度は苦い。


昼休み終了のチャイムが鳴る。


修司は立ち上がり、スマホをポケットにしまった。


「……だからって」


小さく呟く。


「今さら、知らなかったフリはできねえな」


逃げ道は、ない。

でも、崩れてもいない。


ただ、

立っている場所を、

初めて正確に知っただけだ。


修司は深く息を吸い、庁舎の中へ戻る。


——まだ、できることはある。


そう思えたのは、

愕然としたあと、ほんの数秒だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る