第7話 「実家というセーフティネット」
第7話
「実家というセーフティネット」
電話が鳴ったのは、午前十時を少し回った頃だった。
「修司?」
母の声じゃない。
近所の人の、少し慌てた声。
「お母さん、ちょっと倒れちゃって……今、救急車呼んでるの」
「え?」
椅子がきしっと音を立てた。
修司は立ち上がりながら、もう一度聞き返す。
「今、どこですか」
「家の前。意識はあるけど、念のためって」
「すぐ行きます」
電話を切って、上司の席に向かう。
「すみません。家のことで……」
「ああ、行ってきなさい」
それだけだった。
理由を詳しく説明する必要もない。
玄関を飛び出し、走る。
息が白い。
心臓の音が、耳の奥で大きく鳴る。
——近い。
この距離が、こんなふうに意味を持つとは思わなかった。
救急車の赤いランプが、家の前で回っていた。
「修司……」
担架の上で、母が目を開けている。
「大丈夫?」
「うん……ちょっと、ふらっとしただけ」
声は、思ったよりしっかりしている。
でも、顔色は白い。
病院までは、あっという間だった。
「軽い脱水ですね」
医師の声。
「数日、点滴で様子見ましょう」
「……入院、ですか」
「念のためです」
母は申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね」
「何言ってんの」
修司は椅子に腰を下ろす。
病室の消毒の匂いが、鼻に残る。
支払いの窓口で、金額を聞いても、心臓は跳ねなかった。
「……これでお願いします」
カードを差し出す手が、震えない。
——余裕がある。
その事実が、今はありがたかった。
仕事は、午後から戻った。
同僚が言う。
「大丈夫?」
「軽かったみたいです」
「それはよかった」
それ以上、何も聞かれない。
夜、病院から帰ってきた六畳の部屋で、修司はベッドに腰を下ろす。
「……実家にいて、よかったな」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
翌日から、母は入院。
父は家と病院を行き来する。
修司は、普段どおり出社し、帰りに病院に寄る。
「お水、飲んだ?」
「飲んでるわよ」
「無理しないで」
「あなたもね」
そんな会話を、毎日、繰り返す。
ある夜、修司はスマホを開き、アマゾンを見た。
「……米、高いな」
ため息が出る。
でも、そのまま検索する。
《米 10kg》
「これでいいか」
定期購入。
毎月。
「よし」
注文完了の画面を見て、ひとりで笑う。
「俺、親孝行~♪」
誰も聞いていないのに、小さく口ずさむ。
「自画自賛だけど」
母が退院した日、台所で言われた。
「最近、お米おいしいと思わない?」
「そう?」
「なんか、粒が違う気がする」
「気のせいじゃない?」
修司は、知らん顔をする。
でも、胸の奥が、少しだけ温かい。
物価は上がっている。
ニュースでも、毎日のように言っている。
それでも。
近くにいて。
すぐに動けて。
支払いで立ち止まらず。
仕事も、生活も、崩さずに済んだ。
「……実家というセーフティネット、強すぎだろ」
布団に入りながら、修司は小さく笑う。
子供部屋おじさん。
そう呼ばれるかもしれない。
でも、この距離、この余裕、この日常。
「俺、間違ってないよな」
天井に向かって言う。
答えはない。
でも、母の寝息が、隣の部屋から聞こえる。
それだけで、今夜は十分だった。
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