『柚子の香りが、冬を連れてくる』
今日は冬至だ。
役所の建物を出た瞬間、空気がひとつ、重くなっているのが分かった。
昼間の名残はもうどこにもなく、街灯の白い光が、アスファルトの冷たさを強調している。
吐いた息が、ふわっと白くなる。
「……寒いな」
修司はマフラーをきゅっと引き寄せて、スーパーへ向かった。
自動ドアが開く。
ぬるい空気と、惣菜と魚の匂いが一気に鼻に入ってくる。
年末が近いせいか、カゴを押す人たちの動きが、どこかせわしない。
「えーっと……」
鶏肉。
ねぎ。
大根。
春菊。
しめじ。
エノキ。
手に取るたび、指先に冷たさが残る。
「柚子……あ、あった」
ころんと丸い柚子をひとつ、かごに入れる。
かぼちゃも忘れずに。
「うどんも……」
棚の前で少し迷って、結局いつもの乾麺を選ぶ。
冒険はしない。でも、外さない。
レジ袋を提げて家に着くころには、指先がじんと痺れていた。
「ただいま」
「おかえり。寒かったでしょう」
台所から母の声。
煮物の匂いが、すでに家の中に広がっている。
「今日は冬至だろ」
修司はコートを脱ぎながら言った。
「そうね」
「……今日は俺が作る」
母が一瞬、目を瞬かせる。
「あら。珍しい」
「水炊きにするから」
「じゃあ、お願いしようかな」
その一言で、肩の力がすっと抜ける。
「ちょっと、この南瓜、固すぎじゃない?」
母がまな板の前で騒いでいる。
「代わるよ」
土鍋を出し、鶏肉を切る。
包丁がまな板に当たる、こつ、こつ、という乾いた音。
大根をおろすと、鼻にツンとした匂いが上がってくる。
「……っ」
思わず目を細める。
「大丈夫?」
「うん」
春菊の緑が鮮やかだ。
しめじとエノキをほぐしながら、指先が少し冷える。
鍋に水を張り、鶏肉を入れる。
火をつけると、すぐに小さな泡が底から立ち上る。
「いい匂いしてきたな」
父が新聞を畳みながら言う。
「まだこれから」
修司はそう答えて、柚子を半分に切った。
皮を削ると、ふわっと、冬が広がる。
「……ああ」
これだ。
この匂いだ。
鍋がぐつぐつと音を立て始める。
白い湯気が、ゆっくりと天井へ上っていく。
「大根おろし、置いとくよ」
「ありがとう」
母が器を並べる。
父は黙って、鍋の前に座る。
「いただきます」
声を揃える。
鶏肉を口に入れると、ほろっとほどける。
「……うまい」
父が短く言う。
「でしょう」
修司は、ほんの少しだけ胸を張る。
ねぎの甘さ。
春菊のほろ苦さ。
大根おろしの辛味が、全体を引き締める。
「雑炊にする? それともうどん?」
「うどんもいいわね」
「じゃあ、半分ずつな」
鍋にうどんを入れると、また湯気が立ち上る。
柚子の皮を少し散らす。
「……いい香り」
母の口角が、ふっと上がる。
父も、無言のまま箸を進めている。
修司は、その様子を見ながら、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
――ああ。
子供部屋おじさん。
そう呼ばれて、笑われる存在。
でも今、この白い湯気の向こうで、両親が同じ鍋をつついている。
それだけで、十分じゃないか。
「今日は雑炊、明日に回してもいいな」
「そうね。楽しみが残るわ」
「じゃあ、そうしよう」
鍋の火を弱める。
柚子の香りが、まだ部屋に残っている。
冬が、確かにここに来ている。
――――
夕食のあと、少し時間を置いて風呂に入る。
「……っ、あつ」
湯に足を入れた瞬間、思わず声が漏れる。
でも、そのまま肩まで沈む。
「ああ……ああ……」
チリチリするほど熱い。
それが、たまらない。
ネットに入れた柚子の皮が、湯の中で揺れる。
湯気に乗って、さわやかな香りが鼻に抜ける。
修司は、湯の中で指を動かす。
ぱしゃ、ぱしゃ、と小さく水をはねさせる。
「……くだらないな」
ひとりで笑う。
子どもの頃と、同じだ。
何も変わっていない気もするし、
ずいぶん遠くまで来た気もする。
「俺さ……」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「結婚したら、いい父親になれるかな」
恋人もいないのに。
予定もないのに。
「……変な奴だな」
そう言って、また湯に沈む。
柚子の香りが、まだ、ここにある。
派手じゃない。
でも、冷えていない。
この夜もまた、
静かに、人生の一日が積み上がっていく。
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