第1話 「30歳、実家の六畳」
第1話
「30歳、実家の六畳」
目が覚めたとき、最初に見えたのは天井の木目だった。
節のある、少し歪んだ線。子どもの頃から、何千回も見てきた模様だ。
「……あ」
喉から、かすれた音が出る。
六畳間は、まだ朝の途中にあった。カーテンの隙間から、白っぽい光が細く差し込んでいる。冬の朝特有の、色の薄い光だ。
布団の中で、修司は一度だけ大きく息を吐いた。
吐いた息が、まだ部屋に溜まっている夜の冷えを押し出す。
「……寒」
声に出すと、少し現実に戻れる。
枕元の時計を見る。
五時半、少し前。
目覚ましは、鳴っていない。
でも、体はもう起きる準備をしている。
布団をめくると、畳の冷たさが足の裏にじわっと伝わる。
この感触も、覚えている。
「……よし」
誰に言うでもなく呟いて、立ち上がる。
二階の廊下は、まだ静かだ。階段を下りると、台所の方から、かすかに冷蔵庫の音が聞こえる。低く、一定の唸り。
やかんに水を入れて火にかける。
白湯を飲むためだ。
「……」
何か考えなければいけない気もする。
でも、考えなくていい気もする。
湯気が立ち上り始めた頃、母の足音がした。
「修司、起きてるの?」
「うん」
「早いわね」
「いつも通り」
コップに注いだ白湯を、両手で包む。
じんわりと、熱が伝わってくる。
「今日、同窓会でしょう?」
母は、何気ない声で言った。
味噌汁を温め直しながら、ついでのように。
「……あ、うん」
一瞬だけ、間が空いた。
「忘れてた?」
「いや」
忘れてはいない。
むしろ、忘れないようにしていた。
「無理しなくていいからね」
「うん」
その「無理」が、何を指しているのかは、二人とも言わなかった。
朝食を食べ終え、修司は封筒を一つ、テーブルの端に置く。
白い、いつもの封筒。
「今月の」
「はいはい」
母は中身を確かめもしないで、引き出しにしまう。
その動作が、毎月同じだ。
五万円。
少なくもないし、多くもない。
でも、ここで暮らすための、きちんとした重さ。
六畳の部屋に戻り、スーツに着替える。
鏡に映る自分は、三十歳に見えるだろうか。
「……まあ、三十か」
独り言が、畳に吸い込まれる。
出社前、玄関で靴を履きながら、父が新聞から顔を上げた。
「同窓会、行くのか」
「一応」
「そうか」
それだけだ。
それ以上も、それ以下もない。
区役所の建物は、朝の光を反射して、やけに無機質に見えた。
カウンターの向こうで、今日も誰かが、書類の書き方を聞いている。
「こちらにお名前を」
「……はい」
修司は、淡々と対応する。
派手な仕事じゃない。
でも、崩れた生活を、少しだけ持ち上げる仕事だ。
昼休み、スマホを見ると、同窓会のグループ通知が溜まっていた。
《久しぶり!》
《何年ぶりだ?》
《みんな来るよな?》
修司は、画面を閉じる。
――行くけどさ。
言葉にはしない。
仕事を終え、六畳の部屋に一度戻る。
私服に着替えながら、ふと、机の上の通帳が目に入った。
数字は、静かにそこにある。
二千万円。
「……」
誇るほどでもない。
でも、否定する理由もない。
それなのに。
母の「今日、同窓会でしょう?」という声が、もう一度、胸の奥で鳴る。
ざらり、とした感触が残る。
――何が引っかかってるんだ。
答えは、まだ出ない。
修司はコートを手に取り、六畳の部屋を見回した。
子どもの頃のままの棚。
少し古くなった机。
「……行ってくる」
誰もいない部屋に向かって言う。
六畳は、何も答えない。
でも、逃げ場でも、恥でもなかった。
修司はドアを閉め、階段を下りた。
今日、何かが変わるわけじゃない。
ただ、胸の奥に残る、このざらつきの正体を、確かめに行くだけだ。
――それだけで、十分だ。
そう思いながら、修司は夜の街へ出ていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます