『判で押したような朝を、生きている』

夜十時。

壁の時計の秒針が、かちり、と小さく音を立てた。


「じゃあ、おやすみ」


修司は布団に入る前、廊下に向かって声を出す。

テレビの音が一瞬だけ小さくなる。


「はいはい。おやすみ」


父の声。

母はもう洗面所にいるらしく、水の流れる音が遠くでしている。


布団に入ると、畳の匂いがほのかに上がってくる。新品じゃない、でも嫌じゃない匂い。体を横にすると、今日一日分の疲れが、ようやく自分の番だと言わんばかりに肩にのしかかる。


「……早いな」


誰に向けたわけでもなく、修司は小さく呟く。

同級生たちは、きっと今ごろ、スマホを眺めながら夜更かしをしている。バーだとか、動画だとか、誰かの人生だとか。


修司は目を閉じる。

眠りはすぐに来る。

考えすぎないからだ。


***


朝五時半。

目覚ましが鳴る前に、目が覚める。


「……よし」


声に出すほどの気合もいらない。

体が、もう知っている。


台所で白湯を沸かす。ケトルの小さな唸り。湯気が立ち上がる音。コップを両手で包むと、じんわりと熱が伝わってくる。


「……ふう」


一口飲む。

胃の奥に、ゆっくりと朝が落ちていく感じがする。


トイレに入り、ブラシを手に取る。

しゃっ、しゃっ、という規則的な音。

風呂場では、タイルに水をかける音が反響する。


「別に、誰に見せるわけでもないのにな」


そう言いながらも、手は止まらない。

綺麗になると、気持ちがいい。それだけだ。


着替えて外に出ると、朝の空気が肺の奥まで入ってくる。ひんやりとして、少し湿っている。公園には、もう何人か集まっていた。


「おはようございます」


「おはよう」


名前は知らない。

でも、顔は知っている。


ラジオ体操の音楽が流れる。

腕を上げる。

体をひねる。


「……っ」


関節が、かすかに鳴る。

終わる頃には、背中にうっすら汗がにじんでいる。


「じゃあね」


誰かが言う。

修司は軽く会釈をして、公園を早足で一周する。靴底が土を踏む感触。呼吸が少しだけ荒くなる。


帰宅してシャワーを浴びる。

水音が、頭の中の余計なものを洗い流していく。


朝食の匂いが台所から漂ってくる。


「おはよう」


「おはよう。今日は魚ね」


「うん」


味噌汁をすする。

熱い。

でも、いい。


「仕事、忙しい?」


「まあ、いつも通り」


「そう」


それ以上、深くは聞かれない。

それが、ありがたい。


***


日曜日の朝は、少しだけ違う。


「じゃあ、始まるよ」


母が言う。

パソコンの画面に、小さな四角が並ぶ。


「おはようございます」


「おはようございます」


画面越しの声。

祈りの言葉。

賛美の歌。


修司は背筋を伸ばして座る。

信仰がどうこう、というよりも、この時間があることで、一週間が区切られる気がする。


「感謝できることを、一つ考えてみましょう」


そう言われると、修司は自然に思い浮かべる。


――今日も、同じ朝を迎えられたこと。


***


夜。

机に向かい、日記を開く。


「……今日、感謝できること」


ペン先が紙を擦る音。


『白湯がおいしかった』

『公園の空気がきれいだった』

『両親と普通に話せた』


「……普通だな」


修司は苦笑する。

でも、ペンは止めない。


「普通で、何が悪いんだ」


声に出すと、少しだけ胸が軽くなる。


判で押したような生活。

確かにそうだ。


でも、誰かに押された判じゃない。

自分で、毎日、押している。


修司は日記を閉じ、明かりを消す。


「……おやすみ」


部屋は暗くなる。

それでも、生活は消えない。


明日も、同じ時間に、同じ朝が来る。

そして、修司はまた、静かに一日を積み上げる。


それでいい。

いや――


それがいい。


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