プロローグ

プロローグ


『子供部屋おじさんは、静かに人生を積み上げている』


「……寒っ」


修司は布団の中で小さく呻いた。

冬の朝の空気は、肌の上を薄く撫でるようでいて、容赦なく体温を奪っていく。鼻の奥がつんと痛い。六畳の天井は相変わらず低く、白い蛍光灯のカバーに、昨夜ついた小さな虫の影が残っていた。


「起きてる? 修司」


階段の下から、母の声がする。

少しだけ高くて、少しだけ急いでいる声。


「起きてるー……」


声を出すと、喉がまだ眠っているのが分かる。

布団をめくると、畳の冷たさが足裏にじわっと広がった。昔から変わらない。冬の朝の、この感じ。


「今日、同窓会なんでしょ?」


「……うん」


洗面所に向かう途中、味噌汁の匂いが鼻をくすぐる。出汁の香り。少し煮詰まった豆腐の匂い。実家の朝の匂いだ。


「スーツで行くの?」


「いや、私服でいいって」


「そう。あ、今月の分、テーブルに置いといてくれればいいからね」


「分かった」


五万円。

毎月、同じ封筒。

同じ場所。


修司は自分の部屋に戻り、机の引き出しから白い封筒を取り出す。紙の感触が指に馴染む。軽くもなく、重すぎもしない。中身を確かめる必要はない。数えなくても、分かっている。


――これ、変なのかな。


ふと、そんな考えが頭をよぎる。


区役所勤め、七年目。

手取りは多くないが、少なくもない。

貯金は、二千万円を超えた。


「……まあ、いいか」


誰に言うでもなく呟く。

鏡に映る自分の顔は、三十歳にしては幼くも老けてもいない。髭を剃りながら、泡の匂いを嗅ぐ。ミントが少し強い。


――同窓会か。


夜、居酒屋の暖簾をくぐった瞬間、油と酒と人の熱が一気に押し寄せてきた。


「おー! 修司じゃん!」


「久しぶりー!」


グラスが当たる音。

誰かの笑い声。

座敷に通され、狭いテーブルを囲む。


「で、今なにしてんの?」


「区役所」


「あー、堅実ー」


その一言は、褒め言葉の形をしている。

でも、どこかで終わらせるための言葉でもあった。


「え、じゃあまだ実家?」


「……うん」


一瞬の沈黙。

そして、誰かが笑う。


「子供部屋おじさんじゃん!」


笑い声が広がる。

ビールの泡がはじける音が、やけに大きく聞こえた。


「いや、まあ……家に五万入れてるし」


「出た、言い訳!」


「てか、結婚は?」


「まだ」


「彼女は?」


「いない」


「うわー」


その「うわー」は、驚きじゃない。

判定だ。


修司は笑った。

ちゃんと口角を上げたつもりだった。

でも、胸の奥で何かが、きしっと音を立てた。


――俺、そんなに変か?


帰り道、冷たい夜風が頬を打つ。

アルコールで火照った体に、冬の空気が刺さる。


スマホを開くと、誰かが撮った集合写真が送られてきていた。

みんな笑っている。

修司も、ちゃんと写っている。


なのに、どこか、自分だけが写真の外にいる気がした。


家に帰ると、玄関の灯りがついていた。

母が起きている。


「おかえり。寒かったでしょう」


「うん……」


靴を脱ぐと、床の冷たさが伝わる。

でも、その冷たさは、さっきまでの居酒屋のざわめきより、ずっと現実的だった。


「同窓会、どうだった?」


修司は一瞬、言葉を探す。


「……普通」


それは嘘じゃない。

でも、本当でもない。


六畳の部屋に戻り、コートを脱ぐ。

畳の匂い。

机の上の通帳。

カーテン越しに、遠くを走る車の音。


修司はベッドに腰を下ろし、天井を見上げた。


――俺は、何を笑われたんだろう。


――俺は、何を間違えたんだろう。


答えは、まだ出ない。

ただ一つ分かるのは。


この部屋は、逃げ場じゃない。

そして、この人生は、まだ倒れていない。


修司は目を閉じ、静かに息を吐いた。

六畳の天井は、何も言わず、そこにあった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る