どこかへ行きたい、どこへも行けない
鱒田亜米薯
第1話/プロローグ
運が悪かったのかもしれない。
私があの日、真夜中に目を醒ましてしまったのは。
ふだん寝付きのいい方なのに、あの夜だけはなぜだか眠れなくて……
それから、なんとなくお手洗いに立ちたくなって、厚い布団を抜け出したのは。
部屋を滑り出て廊下を歩く。
古びた公営住宅の、ひび割れた廊下。
青黒い帳を下ろしたような暗色に染まって……
起き抜けのふらつく足取りで、水の中を歩くようにして前へ進んだ。
姉の部屋の前を通り過ぎる。
……めずらしく何の音もしない。
いつもならギターの音がするのに。
アンプを刺さないギター……
私の姉は……
高校生だった姉は、あのころからギターが上手かった。
たしか軽音部に所属していたんだ。
彼女の技量は父も認めた折り紙つき。
華麗な手捌きで、難しい曲だって難なくこなしてしまう。
いつも遅くまで起きて、飽きもせずに練習ばかり……
その姉でさえ睡っているってことは…
今って相当の真夜中なんだろうな、と、眠気に覆われた脳でぼんやり考えたのを記憶している。
トイレは廊下の一番奥。
父の部屋を通り過ぎて、角を曲がった先。
……歩を進めるうち、だんだん。
次第に、どこか奇妙な臭いが立ち込めてきた。
生臭いような、酸っぱいような臭い。
トイレに近づくにつれ、次第に強くなって……
思わず鼻をつまみたくなるような激臭へと変わってゆく。
私は顔を歪めつつも…歩みを止めることはなかった。
尿意がすでに我慢の限界へ達していたから。
さっきまでは大したこともなかったのに、いつの間にか、膀胱は。
はち切れそうなほどに膨張している。
そうやって歩いて。
そうして、父の部屋を通り過ぎたとき……
そのときドアを隔てて、音楽が聞こえた。
水の下から鳴るような、古いレコードの音。
父の好きな、昔の洋楽……
たしか、これは……
デヴィッドボウイの「ジギースターダスト」だっただろうか。
父はこのアルバムを酷く愛聴している。
学生のころから現在に至るまでずっと聴き続けてきたらしい……
私や姉も、幾度となく聴かされた、70年代のグラムロック。
「どうしてこれが好きなの?」
幼い頃、父にそう訊いてみたことがある。
まだ子供だった私は……
この手のロックミュージックの良さ、というものをあまり理解できなきていなかった。
ただよくわからない言語で歌っている、変な曲、という印象しか持てなかったから。
どうして父がこれを好きなのか理解できなかったから……
父はそんな私に優しく言った。
「これはな、特別な人の曲なんだ。特別な人が歌っている、特別な人について歌った曲なんだよ。だから好きなんだ」
「…特別だから好きなの?」
「それだけの理由じゃないけど、それもあるな。俺はな、特別になりたかったんだ。昔からずっと…バンドをやってた頃から。今だって、諦めてない。俺はいつか特別になる」
特別になる。
それが父の口癖。
バンドを脱退して、仕事がなくなって、母に見放されて……
母が置いていった二人の子供を養うため日雇いで働きつつ、休日はギターの練習。
そんな生活のなかにあってもなお、父は、いつか特別になる、と公言して憚らなかった。
姉はそんな父を軽蔑しているようだったけど……
私は、父のそういうところが好きだった。
本気でかっこいいと思っていた。
だから、運が悪かったのかもしれない。
その日、私が夜尿に立ってしまったのは……
ジギーを聴いてしまったのは。
私がトイレのドアを開けた瞬間……
ちょうど父の部屋から、ジギースターダストのいちばん最後の曲
「ロックンロール・スーサイド」
が聴こえてきたのも。
全部、運が悪かったんだ。
やっとトイレの前に辿りついた私が……
少し体を震わせたあと、ゆっくりとノブに手をかけて……
そうして、ドアを開けたら…
真っ赤だった。
一面が真っ赤だった。
トイレのドアを開けた瞬間……
いままで体験したこともないくらい強烈な腐臭が鼻腔を刺した。
ハエが二匹、音を立てながら飛んで……
そして、強烈に赤い。
腐ったような赤色……
トイレの真ん中。
便器に顔を突っ込むみたいにして…
赤黒くこびりついた血を首から迸らせて。
父は自殺していた。
カミソリ。
力無く開いた、父の右手の下……
父のお気に入りだった革のジャケットも、履き古したジーンズも、年に似合わず整えたドレッドヘアーも。
全部、血によごれていた。
血で汚れて、何もかも汚くなっていた。
……体の空気が全部抜けて、自分がそこにいないみたいで。
目の前にあるものが、ぜんぶ嘘に思えて……
でもそこにあるのは、揺るぎもしない現実。
……足元が熱い。
私の太ももが、脚が、床が、だんだん湿っていく。
少し黄色がかった透明な液体。
流れ出して、床を這うように溢れていく……
……私、失禁したんだ、と気づくのにそう時間はかからなかった。
忘れもしない10歳の夏。
特別になれなかった父は、特別になれなかったから死んだ。
特別に憧れてしまったから、特別になれなかったせいでこの世界を追い出された。
特別になるという呪縛……
特別になれなければ、生きる価値もない。
ただ延々と死んだように生きて……しまいには、本当に命を絶ってしまう。
あの日私は……
まだ子供だった私は、あの瞬間……
そんな世界の仕組みを知ってしまった。
この世界は、特別になれた人を重宝してくれる。
だけど、なれなかった人の存在価値を認めてくれない。
選ばれなかった人には居場所を与えてくれない。
20年前、バンドのメンバーとして……
大勢の観客に眼差されつつ、ギターを演奏した父。
今、すべての人に見放されて……
誰にも看取られることなく、一人で死んだ父。
便所の中で。
薄汚い便所の中で。
だから……今でも覚えている。
父の死体を見た瞬間、体の底から激しく奔流した感情。
それは恐怖だけじゃなくて……
一緒に、萌芽した別のものがあった。
あのとき、私は父を可哀想だと思うよりも……
憐れむよりも。
それよりもっと強い観念に、頭を支配されてしまった。
私は、こうなりたくない。
父みたいにはなりたくない。
こんなふうに人生を終えなきゃいけない人になんか、絶対なりたくない。
私は、特別になりたい……
特別になれなければ殺されてしまう。
この世界から抹消されて、いてもいなくてもいい存在になってしまう。
そんなの絶対に嫌だ。
父が残した沢山のギター。
大半を姉が売り払ってしまったけど……
そのうち数本だけをもらって。
そうして、弾き始めた……特別になるために。
特別になるということは、生きていてもいい、という証書を握りしめることだ。
お前は価値のある人間だ、という保証を世間からもらって、自らの分け前を確保すること。
そうなれなければ死ぬしかないんだ。
私は死にたくない。
便所の中では死にたくない。
安い葬儀屋に受け渡されて、雑な焼かれかたをして。
葬式もなく、ただ埋められるだけなんて。
そんな人になんか。
絶対、なりたくない。
この世界の誰より価値のある人になりたい。
みんなに認められたい。
人間になりたい。
多分あのときから……
私は、ある病気に取り憑かれてしまった。
父が罹っていたのと同じ……
特別という呪縛に。
どこかへ行きたい、どこへも行けない 鱒田亜米薯 @Hanthats
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