別に桜なんか見たくない。
ayaya
別に桜なんか見たくない。
味噌汁を作りながら、魚を焼き、作り置きの漬物を小鉢に詰める。炊飯器から茶碗三つ、弁当箱三つにご飯を詰めて、昨夜の余り物や冷凍食品を配し、トマトで申し訳程度に色をつけて弁当箱に蓋をした。
焼き上がった魚を皿に盛りつけ、用意しておいた大根おろしを添えて、味噌汁の味見をする。少ししょっぱいかもしれない。でもまあこんなものだろう。あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、いまだに効率性とは相反する動きだ。悠花はキッチンを出て居間に向かった。まだ照明はついていない。カウンターの向こう側から零れるキッチンの明かりが、ひっそりとした居間の全容をおぼろげながら浮かび上がらせていた。
母が仕事に行かなくなったのは一か月ほど前のことだ。同時に悠花がこの照明のついていない居間の寂しげな光景を目にしたのも一か月前ということになる。その朝、定刻に部屋から出て来た悠花は朝食の香りも、母が忙しく立ち働く気配もない居間を目撃した。うっかりして見知らぬ世界に目を覚ましたような気分だった。だが、間違っちゃった、もう一度寝て出直そう、というわけにもいかない。
母は地域の高齢者向けのグループホームでパート職員として働いていた。聞いたところ、母が欠勤したのはその日が初めてであったが、その前にも何度か早退をしていたのだという。悠花の記憶の中にある同時期の母には体調不良の様子もなく、普段と変わらずにニコニコとしていた。
悠花は居間の照明をつけずにカーテンに歩み寄った。窓を開けると、真っ暗な世界が広がっている。時刻は朝の六時を過ぎたところだが、十二月の太陽は腰が重い。アマテラスオオミカミ、ラー等々序列高位に位置する神に喩えられる太陽でさえこのざまなのに、人間の生活は夏も冬も一定のリズムを強いられる。七時十五分には家を出なければならない。
不意に教室のざわめきが脳裏に閃いて、刹那、胸にチクリと痛みが差す。息が詰まりそうになりながら、悠花は努めてその痛みから目を背け、室内を照り返す窓にぐいと顔を近づけた。
雪が、音もなく降っていた。もさもさ、しんしん、わさわさ、これらの擬音は音ではない。マンションの八階のベランダの手摺壁の上には、十五センチほどの白い帯が出来ている。なおも空のいずこからか無数の雪が振り続けていた。
「明かりをつけてもいいでしょうか?」
鏡と化した窓を見ると、居間の入口のところに父が立っていた。
「おはよう」
返事の代わりに悠花は言った。
「おはようさん、雪?」
パチという音を合図に天井の照明が点灯し、それまで居間の中にあった、ささやかだけれど何か大事なものが潜んでいそうな気配はサッと散った。
「雪、えらい大雪だよ。JR、運休するかも」
「あらあら、そいつはどえらいことだなあ」
と父は言ったが、その口調も表情もまるで困ったようには見えなかった。あの日、「お母さんはね、しばらくお休みする必要があるんだ」と告げた時も父はいささかも動揺を示さなかった。
父はキッチンに入って湯沸かしポットを手に取り、インスタントコーヒーを作った。熱いそれを手に居間に戻って、食卓に置く。その間、悠花は父と降る雪とをどちらともなく見つめていた。あてもなく降り続ける雪をじっと見ていると、その中に呑み込まれそうな感覚に陥る。その淡い境界に、父の現実的な居住まいが線を引いた。
母がいつかの誕生日にプレゼントしたダウンジャケットを着込んだ父は、「では」と言ってベランダに出て行った。冷たい空気が父と入れ違いに部屋の中に入ってくる。それは不思議と心地よく感じられた。ベランダから父はマンションの下方を見て振り返り、顔をしかめた。どうやらどえらい雪ということらしい。その後、父は煙草に火を点け、幸せそうに煙を吐き出した。
悠花はキッチンに戻った。お盆に朝食を並べて、シンクの下の扉を開けた。そこには人ひとりやっと入れるくらいの穴が空いていた。この穴は母が少しずつこしらえたものだった。いったいいつから建設を始めたのか分からないが、今では独房から刑務所の外の川へ逃れるくらいはわけないというくらい長く立派なトンネルとなっていた。もっとも悠花はトンネルに入ったことはなかった。だからそれが実際どれくらいの長さであるのかも、その先にいったい何があるのかも分からない。分かっていることは、この穴の中に母がいるということだけだった。
お盆を持ったまま、穴の中を二メートルほど這い進んでそこにお盆を置く。それから少し大きな声で言った。
「お母さん、朝ご飯置いておくね」
返事がある日とない日がある。今日はどちらだろうかと、悠花は耳を澄ませた。
昼休みになると、悠花は弁当箱を抱えて速やかに屋上に上がった。もっとも屋上は生徒に開放されていないから実際に外に出るわけではない。屋上への入口がある特別棟の四階は格技室があるだけで、ひっそりとしていた。使われていない机や椅子などが壁に沿って整列しているので、そのうちの一つを移動させ、そこで弁当箱を開けるのが習慣になっていた。
廊下の壁に沿って窓が並んでいる。窓の向こうには札幌の中心街のビル群が見える。ここ数年で背の高いビルが幾つも増えた。一方では手稲山や藻岩山が見える。山並みは白いが、よく見れば葉を落とした樹々の枝の黒色がある。
「ひどい雪でしたなあ」
と言いながら階段から姿を見せたのは麻里だ。彼女と悠花はクラスは違うが同学年だった。
麻里は購買で買ってきたパンとミルクティーを小脇に、自分の分の机を椅子を引きずってきた。通常通り、それを悠花の机から少し離れたところに配置する。海に点々と島が浮かんでいるようだと悠花はいつも思った。
「除雪した?」と悠花は訊ねた。
「もちのロン、タンヤオ。しかも重いのなんの。そのうち私の腕はゴリラも恐れをなすほどになるよ。でもって腰も痛くなるし、バッキバキですよ」
麻里はボディビルダーのようにポージングをして見せた。
「除雪ってどうやってやるの? 私ずっとマンション暮らしだからさ、経験ないんだよね」
「どうやってやるかー。まあ、人それぞれ場所によりけりだとは思うけど」と麻里は思案げに視線を彷徨わせながら言い継いだ。「うちの場合はね、それなりの面積を除雪しないといけないからさ、まずは片方の隅に雪を集めるの。今日の場合はそれだけで三十分くらいかかったし、集めたら腰くらいの高さになったのよ。それが十五メートルばかり。今度はそれを家の裏手に運んでいくわけ、ダンプでね。ご近所総出ですよ。おまけに若者は少ないからね、雪と間違えてうっかり自分の命の除いてしまいそうなご老人ばかり」
「イメージ湧かないなあ」
悠花はぼんやりと除雪の光景を頭に描いたけれど、質感というか具体性を欠いていた。
「子どもの頃はそれなりに楽しくやっていたけどね、今となっちゃ釈然としない気持ちになるのよ」
麻里はカレーパンの袋を開けた。
「釈然としない気持ち」
「そうそう、だってさ、必死こいて雪を除けて、ああすっきりしたって何か変じゃない? 別に新たに生活が豊かになったわけじゃないんだよ。元に戻しただけ。そうだなあ、犬が勝手に荒らした部屋を掃除した気分。いやもちろん、道が使えないと車が出せないわけだから除雪するのは当然なんだよ、必要、ただ、あれあれ、なんかおかしくない? って騙されているような気持ちになるわけ。お分かりか?」
「さっぱり分からない」
悠花は簡潔に言った。
「ふむ。騙されているというか、解せない? こっちは真剣なのに、リングの外にいる奴の手のひらの上で、いいように踊らされている感覚とでも言うんでしょうか。お分かりか」
「さっぱり分からない」
「なるほどね。ところで悠花、今日も今日とて美味しそうなお弁当ですな」
麻里は首を伸ばした。長く誰もが感心するような首だった。ショートカットが良く似合う。十八世紀のフランスにでも生まれればよかったんだね、さぞかしギロチンが様になったと思うんだ。絞首刑じゃあただでさえ長い首がいっそう長くなるだけだものというのは麻里の言葉だった。
「美味しそうかね」悠花は自分の弁当箱をしげしげと見つめた。もしかしたら自分では見えていないものが麻里には見えるのかもしれない、その可能性を考慮したのだが新事実の発見は果たせなかった。「あり合わせだよ」
「それはセンスと技術というものだ。俺の妻にならんか」
と麻里が言った。
「手に職をつけてからね」
悠花は答えた。
「除雪の話で思い出した」と麻里がパンを頬張りながら言った。「昔、ばあ様がさ、除雪していた時にこれくらいの真っ白な石を拾ったんだって」麻里は両手でピンポン玉くらいの大きさを形どる。「ばあ様がまだ子どもの頃」
「石ね。それがどうかしたの?」
「うん、その石がさ、とんでもなく綺麗だったから、家に持って帰ったんだと。それから肌身離さず石をポケットにしまって生活していたんだ」
「そんなに綺麗だったんだ。少し見てみたいかも」
「ばあ様は昔ずいぶん虚弱な身体だったみたいで、その冬も高熱を出して動けなくなったんだ。最初はいつものことかと思っていた家族も、熱が引くどころか更に悪化して長引いたものだから大騒ぎ。医者が呼ばれて今年の桜を見ることは叶わないかもしれませんねってところまでいったらしい」
「別に桜なんか見たくない」
と悠花はなんとなく言った。桜が綺麗、お祭りが楽しみ、そういった物事に彼女はここ数年ですっかり嫌気が差してしまっていた。
「満開の桜を燃やしてみたいよなあ。分かるよ」
と麻里はうっとりした顔で言った。
「それはない」と悠花は言った。「それでばあ様はどうなったの?」
「食べたんだ、例の石を」
「食べた」
「そう。身体が熱くてたまらなくて、意識も朦朧として、そんな中握りしめていた石の冷たさが気持ち良かったんだって。だから口に入れてみた。そしたら口の中で溶けて、得も言われぬほど甘美なとろりとした液体になったらしい。それを飲み込んだらあら不思議、すっかり熱が下がった。以来、ばあ様はありとあらゆる病気とは無縁の生活を送っている。齢百三歳、いまだ現役。もはや妖怪の域に足を踏み入れているよ」
「妖怪なんじゃない?」
「実は私も最近そう思ってね。目下調査中」
麻里は思いの外真剣な表情で言った。
部活動に参加していない生徒は下校時間となり、悠花は生徒玄関へ赴いて、自分の靴箱の前で腕を組んだ。この時間はいつも一人だった。いや彼女が一人でない時間と言えば、麻里と過ごす昼休みだけなのだが、どうも下校時間にはいっそう一人であるということが強調して感じられた。
彼女が腕を組んで呻吟している理由は明らかだった。靴が家出していた。こういうことはよくある。平素、主人に踏みつけられ、行く先の自由の利かない靴であるから、たまには自分の好き勝手に散策したいという気持ちは分からないでもない。だが必要な時にいないのでは困る。困ったからといって向こうから戻って来てくれるわけでもない。探しに行かなければならないのだ。
そういうわけで彼女は腕を組んでどこへ探しに行くべきかと頭を悩ませていた。唸り声をあげていれば、何かの拍子にいい考えが出てくるかもしれないと期待するけれどもそううまくはいかなかった。順当に行けばその辺のゴミ箱とか、掃除用具を入れてあるロッカーとか、そんなところだろう。だが一つひとつ探していくのは骨が折れるので、なかなか動き出すことが出来なかった。
悠花の持ち物はこうしてよく主人に謀反を起す。たまには画鋲などを胸中に隠し持っていることもある。彼女はこれまで彼らとの友好関係を取り結ぼうと様々に画策をしてきたのだが最近ではすっかり諦めていた。期待していなければ、失望というものは存在しない。期待しないためにはどうすればいいか、事実以外に目を向けないことだ。硬く揺るぎない純然たる事実のみを見つめ、そこから何も感応しないことだ。
「あのさ」
と声をかけられたのは、唸りの調子を一オクターブくらい調整していたところだったので、悠花は驚き飛び跳ねた。彼女の驚きに度肝を抜かれたようで、声の主は悲鳴を上げた。
クラスメイトの男子だった。話したことは特になかった。運動部に所属しているはずだ。基本的にニコニコしている。高橋とかいう名前だった。悠花が知っているのはそれくらいの情報だった。
「これ君の?」
と高橋は靴を差し出した。
「あ、そう。どこにあった?」
「ええと」高橋は困ったような顔をした。「その辺?」
「なるほど」悠花は頷いた。「とにかくありがとう」
悠花は靴を受け取って礼を言ったが、高橋はその場から動こうとしなかった。悠花は沈黙の意味を解し得なくて首を傾げた。
「もうすぐクリスマスだね」と高橋は言った。「俺の家にはさ、クリスマスにサンタクロースはやってこないんだ。代わりにヤマンバがやってくることになっている。代打ヤマンバ。と言うのも昔、母さんがクリスマスイブに父さんと喧嘩して家出したんだ。で、どこかで飲んだくれて明け方帰ってきたんだけど、その姿がまさしくヤマンバと評するのが相応しかったんだよ」
悠花は傾げていた首をさらに傾げるという、前人未到の挑戦に着手する必要に迫られていた。高橋は顔を真っ赤にしていた。
「つまりクリスマスの日、空いている?」
と彼は言った。
「それはつまり、私にヤマンバになれということ?」
と悠花は言った。
「いや、違うんだ。あれえ、どうしてこうなるのかな。そうじゃなくてさ、あ、君はこれが告白だっていうことには気づいている?」
「告白?」
「俺が君を好きだということ。それから、クリスマスを一緒に過ごしたいと思っているということ」
「ヤマンバは?」
「それは忘れて」
と高橋は言った。悠花は少し考えてからようやく合点がいった。すっきり晴々とした気分だった。
「なるほど。そういう古典的な遊びなんでしょ?」
少し離れたところ、廊下の角に隠れるようにして、何人かの生徒が集まっていた。彼ら彼女らはこっちに注意を向けているようだった。
高橋は言葉を見つけ損ねて、陸にあげられた魚のような顔をしていた。悠花は今朝食べた魚を思い出した。少し塩味が強かった。父はこれくらいがいいと言っていたけれど、母はどうだっただろう。
「高橋くん、だったよね?」
彼は頷いた。
「雪って綺麗だと思う?」
「ごめん」
と高橋は呟いた。
父から預けられた家計用の財布を、最寄り駅のロッカーから回収してスーパーに向かった。雪は昼の間にやんでいて、路肩に積み立ての真っ白な雪の壁が出来ていた。スーパーの駐車場は溶けた雪と溜まった水とがアスファルトの上で混合され、茶色いシャーベットになっている。
今朝、家を出る前に頭の中に刻んで来たリストを参照しながら、実際の値段と相談し臨機応変に買い物カートに商品を積んでいく。と言っても、今回はそれほど多くを買う予定はなかった。
スーパーで食品を買うことはこれまでにもあった。だがそれは母から「帰りにこれこれを買ってきて」と頼まれたものに限っていたので、自分で建設的に考えながら買うのはここ最近の話だ。いい加減に買っていくと、予算として渡されていた金額をすぐに超過してしまう。父と母は実に堅実に家計をやりくりしていたのだなあと感心する思いだった。
自宅マンションへの帰り道、公園で小さなかまくらを見つけた。高さは悠花の腰より少し高いくらいだった。すっかり薄暗い公園には人の姿はなかったので、彼女は「お邪魔します」と挨拶をして、かまくらの中に入った。
かまくらは思ったよりもしっかりとした造りだった。雪を固めて椅子のようなものもあるし、内壁も補強されている。それでも明日か明後日にはひしゃげて潰れてしまうのだろうけれど、今のところは誰かの居場所になり得た。
狭い入口の向こうに見える世界は、自分とは無関係なものに感じられた。かまくらの内部には音が届かず、まるで水の中にいるかのように静かだった。
悠花はしばらくの間、かまくらの中にしゃがんでぼんやりと無関係な世界を見ていた。道路があり、そこに車や人がまばらに行き交っている。ヘッドライトが彼女とは無関係な方角を照らしている。街灯がオレンジ色の光を落としている。高校生のカップルが手を繋いで歩いていく。公園がほとんど闇に沈んでいるせいか、誰もかまくらや、その中にいる彼女を気に留めなかった。彼女はそれが心地よかった。
家の中は暗かった。「ただいまー」と声をかけるが返事はない。ふとして込み上げた動悸がする予感を、丁寧に胸の底にしまい込んでキッチンへ行くと、洗った食器と洗いかけの弁当箱があった。買い物カゴから冷蔵庫に品物を移してから、米を研いで炊飯器のスイッチを押した。
一度自室に戻って荷物を置き、シャワーを浴びる。熱いお湯を顔にしばらく当て続けた。耳の中が水の音でいっぱいになった。何か音楽が聴きたいなと思った。キッチンには小さなCDプレイヤーが置いてあって、ラックに母のささやかなコレクションが並んでいる。だいたいが昭和の歌謡曲だった。目を瞑って指に触れたCDを再生する。陽気な曲で少しほっとした。
まな板の上で野菜を刻んでいると、音に惹かれたのかシンクの扉が開いて母が顔を出した。
「おかえり」
と母は言った。
「ただいまー。今日、チンジャオロース。どう?」
「非常に楽しみ」
と母は言った。穴から上半身だけを出し、床の上にべたっと貼りついて、母は耳を澄ませているようだった。
「今日すごい雪だったね」
と母が言った。
「こんなもんじゃまだ足りないよ」と悠花は言った。「お出かけでもしたの?」
「ちょっとねー」
と母はゆったりと言った。
フライパンの上で油が跳ね、肉が焼ける音が弾けた。
「なんか久々にお酒飲みたい気分」
と母が言った。
「何か出す?」
「お父さんが帰ってくるまで待つかなー。今朝会えなかったし」
「そいつは殊勝なことですな」
「ねえ、悠花」
その声に悠花は母の顔を見た。母は目を瞑っている。
「なに?」
「だいじょうぶ?」
悠花は視線をフライパンへ戻した。
「良い焼き加減、おそらくは良い味、問題ないよ。そうそう、今日はクラスの男子から告白されたんだよね。クリスマス一緒に過ごさないかって」
「あら。なんて答えたの?」
「私には麻里がいるからな」
夕食をこしらえて、父が帰ってくるまでの間、悠花は居間のテーブルで宿題をこなした。そろそろ進路も決めなきゃなーと考える。特にこれと言って展望があるわけではなかった。麻里なんかは具体的にやりたいことがはっきりと決まっているようだが、悠花は目の前の現実に対して右へ行くか左へ行くかの対処をするのでやっとで、とても先のことなど考える余裕はなかったし、気力もなかった。とりあえず成績と家計の許容する大学へ行くのだろうなと思う。本当は離れた土地で過ごしたいという気持ちがあった。だがどこまで離れたら離れた土地と言えるのだろう。例えば離れたい対象が、土地ではなくて、自分自身なのだとしたら。
「ただいまー」
と父が帰ってきた。悠花は宿題をしまった。キッチンから母が「おかえりー」と言った。
「さっきね」と父が楽しそうに言った。「ほら、すぐそこの公園にさ、かまくらがあってね、いやー、久々にかまくらに入ったなあ」
「あ、それ私も入ったよ」
と悠花は言った。
「おお、入りたくなるよな」
父はネクタイを緩めた。
「なりますねえ。致し方ありません」
「そのかまくらね」と母の声がキッチンからふわふわと飛んでくる。「製作者、私」
悠花と父は目を見合わせて、それから笑った。
「素晴らしいかまくらだったよ」
と父がキッチンへ向かって言った。
「でしょう」
と母の自慢げな声が聞こえる。
「今日は、チンジャオロースです」
と悠花は言った。
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