第1話 雛の独白
目を開けた瞬間、白い光に殴られた。
天井が、遠ざかっていく。
蛍光灯の光が眩しくて、目を細める。
「雛……!」
「よかった……」
「先生!」
誰かの声が飛び交っている。
母が泣いていた。
大人たちは一様に「助かった」と言った。
私は、ただひとつのことだけを覚えていた。
――あの人は、誰だったの?
「だれが、たすけてくれたの?」
そう尋ねると、部屋の空気が、一瞬だけ止まった。
「消防の人、じゃないかしら」
「混乱してたし、覚えてないだろう?」
だれも、はっきりと答えなかった。
そのうち、聞いても、聞いても、同じ言葉が返ってくるようになった。
「覚えていてはいけないことも、ある」
――まるで、その人が“いなかった“かのように。
※
それから十三年が過ぎた。
山間を抜けるバスは一日三本しかない。
窓の外には、山の稜線が波のように重なっている。
車内にはエンジン音だけが一定のリズムで残る。
私は窓に額を寄せ、揺れる風景をぼんやりと見つめていた。エンジンで揺れるたび、長い髪が腕をくすぐった。
バッグの中には、街の匂いがまだ残っている。
それが、窓の外の湿った山の匂いと混ざり合って、胸の奥に小さな違和感を落とした。
バックの縫い目を、無意識になぞっていた。
縫い目の数だけ、聞きそびれた問いがある気がしたからだ。
田んぼに跳ねる光。
道端の名も知らない花。
それら全てが、私の記憶の奥に沈んでいたものを、静かに掬い上げてくる。
——駅のある街、
舗装の甘い道路。
小川に架かる細い橋。
雑木林の影。
街の音は、ひとつ、またひとつと剥がされていった。
終点――
陽射しは強いのに、空気はひどく冷たい。
見慣れたはずの道を歩き、やがて家が見えた。
白く塗り直された外壁。
大きすぎる屋根。
十三年前の火事で焼けた家を、ほとんどそのままになぞって建て直した“新しいのに、古いままの家“。
風が吹くたびに、瓦と瓦がかすかに鳴る。
まるで、まだ、燃えているみたいに。
玄関の引き戸を開けると、油の匂いと畳の香りが混ざって押し寄せた。
「ただいまー!」
「はーい」
母の声がして、ぱたぱたと足音が近づく。
「おかえり、
笑顔で、そう言う。
でも、その笑顔は、どこかひび割れているように見えた。
――この家では、まだ、何かが燃え続けている。
私は、そう思った。
※
昼食までの時間、私は一階にある祖母の部屋を片付けることにした。
扉を開けると、埃と甘い匂いが混ざって、静かに体にまとわりついてくる。
机の上の古いブラシ。
香水の瓶。
刺繍の額。
どれも、もう使われることはない。
私は少しだけ罪悪感を覚えた。
——この部屋を空っぽにしてしまったら、祖母が本当にいなくなる気がしたからだ。
古ぼけた桐箪笥の一番下を開けたとき、そこには溢れんばかりの書類の束が詰め込まれていた。
村役場の健康診断の紙、友人からの手紙、そしてもう誰も読まない共済の案内。
どれも折り目が擦り切れていて、指先で触れると粉のように小さく崩れた。
「うわぁ、捨てられない精神〜」
そのときだった。紙束の奥で、何かがわずかに光を反射した。
引き抜いてみると、それは古いアルバムだった。
布張りの表紙は黄ばんでいて、角が黒く焦げている。
私は、そっとページをめくった。
家族写真。
祖父と祖母。
父と母。
姉の花奈。
そして七歳くらいの私。
――笑っている。
なのに、それが自分ではないように見えた。
指が、あるページで止まった。
写真が、貼り付いている。
私は息を詰め、そっと剥がした。
ひらりと、一枚の写真が私の膝に落ちる。
そこに写っていたのは、一人の少年だった。
色素の薄い髪。
儚げな眼差し。
胸の奥に、ざわめきが広がる。
知らないはずなのに、懐かしい。
――あの夜に、見えなかった“誰か“の気配と、どこか、似ている気がした。
「……
思わず声が漏れた。
兄の律は、私より七歳年上だ。私が火事に遭った七歳のとき、兄は十四歳だった。
けれど、この写真の少年は、それよりずっと幼く、私が知る律兄の面影とはどこか違っていた。
そのとき、背後で畳が鳴った。
「雛、どうしたの? お昼できたって言ってるでしょ」
振り返ると、母が戸口に立っていた。
「この写真、誰が撮ったの?」
母の顔が、一瞬だけこわばった。
「そんな写真、知らないわ」
「え……でも、これ、律兄だよね?」
母は何も答えず、私の手からアルバムを取って閉じた。
その指が、焦げ跡の上で、ありえないほど丁寧に止まった。
震えている。
その小さな動きが、胸の奥に、重く落ちた。
――知っているのに、言わない。
――覚えているのに、消そうとしている。
母は言った。
「古いものは、捨てていいの」
でも、私は知っていた。
この家で、捨てられていないものが、まだ燃えていることを。
私は閉じられたアルバムを見つめたまま、動けずにいた。
焼け跡の匂いが、遠い記憶と、今の空気を繋いでいた。
――あの夜、私を抱き上げた人物は、だれだったのか。
その答えが、この村に埋まっていることだけは、なぜか確信めいていた。
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身代わりの名を呼ぶまで adotra22 @adotra
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