Chapter #0002 The New Buddy / Segment 2 善悪の彼岸で遊べ - Über "Jenseits von Gut und Böse"

ここはエド城の二の丸御殿。床の間には十牛図の入鄽垂手(にってんすいしゅ・十番目)の掛け軸が飾られている。部屋を彩るタチアオイは生け花にしては明らかに大きすぎるが、それが部屋の主の好みだ。窓は南向きで室内は明るい。ふすま絵は向かい合わせの龍虎だ。


「ジェノベーゼ丞相」


部屋の外の廊下からそう呼ばれた、畳に正座するキツネ人は和紙に文を記す筆を止めスズリに置いた。その脇には松が美しく彫刻された使いかけの和墨が置いてある。


ジェノベーゼは緑色の袈裟を着ている。緑色と言っても一色ではない。色がつく前の紫陽花のいろいろの色を様々な質感の布で巧みに配置して高貴な印象を見た者に与える。


「結果から話してくれるかな」


「ギルドから軍へ上がったデータを解析したところ、ギルドの者が交戦したドラゴンが『善なる者』で、攻撃しただけで異常な業の深化が観測されたようです。それと、そのとき魔王を『神』と表現する会話があったようです。再生します」


ジェノベーゼは笑んだ。

「不要。それを知る者、心当たりは二人。我が師アイスと、妹弟子のコンプレット。他の者か?」


「ご慧眼ッ! コンプレットどのの口より、賢者アイス様もそのように考えていると……」


「その二人には手出し無用。魔王が神で善であるという件はしばし隠蔽、軍とギルドには余の名を出して圧力かけよ。ただし圧力だけだ。処罰は禁ずる。この塩梅で起きる自然な情報拡散が余の真意と心得よ。我らケモノが悪であるという認識、急がずジワジワと愚民に根付かせる。あまり速く伝わるとパニックになるが、いつかはバレる性質たちのものと諦念してかかれ。念のために言うが、商隊は放っておくように。あれは民間企業だ。噂させよ」


「はッ」


ジェノベーゼの居室は静かになった。窓の外でツバメが鳴いているだけだ。この部屋の軒先に巣を作って駆除されそうだったのをジェノベーゼが取りなした。

(この鳴き声、そろそろ子の巣立ちかな、季節のめぐりは早い)


文を書き終えて、それを伽羅の匂い袋に閉じ込めてから、ジェノベーゼは伸びをして独りで愚痴りだした。


「やれやれ、偉くなると面倒だ。全体最適しすぎては倫理が死ぬ。倫理だけだと破滅する。自由意志尊重しつついかに導くか。デキる奴に如何に権限を与え、中間層に如何に真面目にやってもらい、ぶら下がりどもの不満を如何にいなすか」


独り言を終えると、ジェノベーゼはため息をついたあと自分のために煎茶を淹れるべく給湯室を目指して歩きだした。


茶を淹れる……それが数少ない娯楽であるほどにジェノベーゼの生活は単調だ。


ジェノベーゼはリソースを消費せずに存在できる。ゆえに、存在する楽しみは、それが自分に許す茶と塩と水と氷、そして香くらいである。形ばかりの肉体はあるが、男性器も女性器も排泄器もない。睡眠もしない。それは存在しているが生きているとは言えないかもしれない。


湯を沸かすのも茶葉を急須にふるのも、両者を混交し抽出を待つのも、全ての後の片付けも愉しきこと、ジェノベーゼは正座で畳に座って、急須から漂うお茶の香りをかいでほっこりした。顔がゆるむ。


「しかし、コンプレットの相棒のオオカミ、興味深い。コンプレットの才は誰も真似できぬが、あのオオカミの武人ぶりは他者のよい手本となる。現場の兵としても輝くが、将として師範としてコンプレット以上に輝く器。ギルドの者はそれを見抜いておらぬ。埋もれているのは惜しい……誰なら分かるだろう……」


上を向いてひととき目を閉じて、鼻からゆっくり息を吐きつつ下を向き柔らかく目を開ける。


「南の皇帝なら……ふむ、じゃぁ教えるか、彼に。北とか南とか些細なこと、才ある者がいかに輝くか。皇帝の具体策、オオカミの選択、それはお任せだが余はきっかけとなる」


高温でわざと苦く淹れた煎茶を湯呑みに注ぎ、ズズッとすすると心がほぐれていく。

「若いのには羽ばたいて欲しい。とくに鳳凰の雛が籠の中では悲しい。コンプレットさ……悟りに囚われたらお前も籠の鳥だ。悟りとは囚われるものでなく遊ぶもの。悟者は自分でそれに気づかねば。もっとも余がそれをできているかどうかは怪しいし、アイス様ですら難しい、それほどに難しきこと。自由というものは……」


ジェノベーゼは、湯呑みをちゃぶ台に丁寧に置いた。


ことり。お茶にわずかに波紋が走る。ほとんど無音。湯呑みとちゃぶ台を大切に思うからだ。

「足りなさ、バカな自分を必要とする……それが分かる程度には、余もバカでよかった。ああサヤマ茶の浅蒸しが美味しい。う~ん、幸せ、しゃーわせ」


飲み終わったので、いつもどおりにちょっと横になる。ごろん。

「バカといえば……あの『幼き神』は自由さにおいて天才的だ。20年以上矛を交えると色々分かる。あれは先任以上の大きな器だ、昔は読み違えたな。あれが天然なのだからかなわん。『プラトンのデミウルゴス』の系譜はやはり面白い。負け負け! 神に、いや誰かに負けるのは愉しい。余の人生が充実する。勝ちばかりの人生など退屈だ。コンプレットよ、それに気づけ。オオカミを手本に生きよ。悟ってなお俗世を生きよ。欲から逃げるのでなく、欲の海で軽やかに泳げ。さすれば、無間地獄さえ涅槃となる」


目を閉じたその顔は、如来のごとき安らかさに満ちていた。

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