その日は、配信がなかった。

 開始時間を十分過ぎても、通知は来ない。珍しいことではないはずなのに、俺は何度もチャンネルのページを更新していた。

 理由は特にない。たまたまスマホを見ていただけだ。

 そう自分に言い訳しながら、机の上に広げた教科書を眺める。文字は読めているのに、内容が頭に入ってこない。

 配信がある日は、時間が区切られる。

「このあと始まる」

「もうすぐ終わる」

 その区切りが、今日はない。

 部屋の外では、風の音がしていた。カーテンが、わずかに揺れる。

 ――今ごろ、ルナは何をしているんだろう。

 そんなことを考えて、俺は少し驚いた。配信者の私生活を想像するなんて、今までしたことがなかったからだ。画面の向こうは、スイッチを切れば存在しなくなる場所だと思っていた。

 でも、今日は違う。配信が「ない」だけで、その向こう側を、強く意識してしまう。

 俺はスマホを伏せて、窓の外を見た。時間は、同じように流れているはずなのに、どこか噛み合っていない感じがした。まるで、こちらが待っていることだけが、先に進んでしまったみたいに。


――――――――――――――――――――


 その日は、配信を行わなかった。

 理由は合理的だった。通信遅延が、わずかに増大していた。地球の人工衛星との位置関係によるものだ。

 任務に支障はない。配信を休むことも、計画の範囲内。――それでも、彼女は制御室に長く留まっていた。

 地球は、いつも通りそこにある。大気の縁が、薄く光る。

 彼女は、過去の配信ログを開いた。分析用ではない、再生モード。

 音声。コメント。応答。

 その中に、静かな声がある。

 ――キュー。

 彼の発言は、記録としては目立たない。頻度も、量も、平均的だ。

 だが、彼女は、その発言を予測できるようになっていた。次に何を聞くか。どこで黙るか。

 それは、観測としては異常だった。

 予測モデルは、本来、集団に対して機能する。特定の個体に適用されることは、想定されていない。

 彼女は、ログを閉じた。

 この傾向は、記録しなかった。報告にも、含めない。理由は説明できる。通信量が少ないため、偏りが出ただけだ。

 ――そういうことにしておく。


――――――――――――――――――――


 今日も配信を見ながら、ふと気づく。「キューくん」と呼ばれることに、慣れてきている自分がいた。最初は違和感の方が強かったのに。

 配信で名前を呼ばれること自体は、珍しくない。それでも、ルナの呼び方は、少しだけ違う。他のコメントを読んでから、ほんの一拍、間を置く。まるで、相手が返事をする場所を、最初から知っているみたいに。

 俺は、画面の向こうを見つめる。

 そこに何があるのかは分からない。場所も、距離も、想像するしかない。

 それなのに。

 名前を呼ばれた瞬間だけ、自分の部屋が、少しだけ静かになる。ヘッドホンの中の声が、「配信」じゃなくなる。

 ただのVtuberとのやりとりじゃないか。意識する方が馬鹿げている。……でも、分からない場所にいる誰かと、同じタイミングで笑っていることは、否定できない事実でもあった。


――――――――――――――――――――


 小惑星の軌道は、わずかに変化している。

 予測の範囲内。問題はない。それでも、彼女は定期的にその数値を確認する。

 地球時間で言えば、まだ夏だ。だが、彼女には分かっている。この「周回」が、いつ終わるのか。

 彼女は、配信の告知文を入力する。

 いつも通りの文面。

 その末尾に、削除してから、もう一度書き直す。

〈今日も、少しの時間ですが〉

 少し。

 地球人にとっては、意味を持たない言葉。

 だが、彼女にとっては、正確だった。

 彼女はまだ、何も伝えていない。

 ただ、終わりを知っている側として、同じ時間を回っているだけだった。

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2025年12月30日 18:00
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第二の月がいた季節 ナトリウム @natoriumu

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