配信を終了すると、表示されていたモニターの青が、静かに消えた。中継用の回線が切り替わり、制御室には本来の暗さが戻る。

 彼女は、椅子に深く腰を下ろして息をついた。呼吸は不要だが、この動作は癖になっている。地球人の真似だ。

 小惑星は、予定通りの軌道を描いていた。重力計、外殻センサー、通信遅延、すべて正常。

 ――今日も、問題なし。

 彼女は視線を上げる。観測窓の向こうには、地球があった。思っていたよりも、ずっと明るい。

 どうして自分がここにいるのか。それを思い出すのに理由はいらない。

 すべては、軌道予測から始まった。


 母星の外縁を周回する観測網が、一つの小天体を捉えた。

 それは自然物だった。推進痕も、人工的な構造もない。ただ、運動量と角度が、あまりに都合が良すぎた。

 小惑星は、母星の重力圏をかすめたのち、太陽系の内側へ落ちていく。そして約一年後、地球近傍に到達する。さらに計算を進めると、その天体は――ごく短い期間、地球の重力に“捕獲”される。

 一時的な周回軌道。滞在期間は、標準時間で約一年。

 宇宙では珍しい現象ではない。だが、文明を持つ種族にとっては、意味が変わる。会議体は、即座に招集された。議題は一つだった。

 その小惑星を、活用できないか。

 地球人類は、すでに観測対象だった。人工衛星、通信網、仮想技術。彼らの文明はまだ未熟だが、進化の速度は速い。

 直接接触は、禁忌に近い。意図しない干渉は、文明の進路を歪める。

 だが――

 間接的な接触なら、どうか。

 小惑星は自然物だ。推進を使わず、ただ軌道に身を任せる。それは「訪問」ではなく、「通過」に近い。

 その上から、情報ネットワークにアクセスする。地球人自身が作った、仮想的な交流の場を利用する。

「観測と対話の中間」。それが、計画の骨子だった。


 派遣される個体は、一名。高度な判断能力と、柔軟な思考。そして、未知の感情変化に耐えられる安定性。

 彼女の名が候補に挙がったとき、彼女自身は驚かなかった。理由は理解できた。彼女は、他者の思考を「危険」よりも「差異」として扱える。それは、地球人類を観測するうえで重要な資質だった。

 決定は、合理的だった。異論も、想定の範囲内だった。

 ――それでも。

 小惑星に乗り込む前、母星を振り返ったとき、彼女は初めて、数値化できないものを感じた。

 ――戻れないかもしれない、という感覚。

 実際には、戻れる。任務は一時的で、安全な帰還船も準備されている。

 だが、「知ってしまったあと」も同じでいられるかどうかは、保証されていなかった。


 小惑星内部は、最低限の改修しか施されていない。居住区、観測区、通信制御区。すべては、痕跡を残さないためだ。

 数ヶ月の航行のあいだ、彼女は地球の情報を学習した。

 言語。

 文化。

 娯楽。

 その中に、「配信」という形式があった。自分を演出し、匿名の他者と、同じ時間を共有する行為。

 ――不思議な文化だ。

 だが同時に、それは、最も安全な接触方法でもあった。


 小惑星が地球の重力圏に捕獲されたとき、すべては計算通りだった。

 青い惑星が、視界に入る。

 大気の縁が、薄く光る。


 彼女は、通信装置を起動した。人工衛星を中継し、地球のネットワークに接続する。

 アバターは、あらかじめ用意されていた。親しみやすく、しかし特定の文化に寄りすぎない形。

 初めての配信。彼女は、ほんの少しだけ躊躇してから、言葉を発した。

『第二の月から、こんばんは』

 それが、アリウス・ルナと地球人との、最初の接点だった。


 そして今。

 配信を終え、静かな制御室で、彼女は地球を見つめている。

 軌道表示を確認する。小惑星は、安定した楕円を描いて地球を周回している。

 数値は、すべて把握している。――この軌道が、永続しないことも。

 地球の重力は、彼女を留め続けるほど強くはない。いずれ、わずかな摂動が積み重なり、小惑星は静かに軌道を外れる。

 その時期は、すでに計算されている。

 標準時間で、約一年後。


 それは、宇宙的には誤差に近い。

 観測装置の校正周期よりも短い。

 地球の時間感覚で言えば、季節が四度巡るだけの長さだ。


 彼女は通信ログを開く。先程の配信の記録が、そこに残っている。三十余名の視聴者。断片的なコメント。そして、いくつかの名前。

 その中に、静かに星の話をしていた個体がいる。

 ――キュー。

 彼女は、その名を声に出さなかった。出す必要は、ない。

 この軌道にあるかぎり、彼女は地球を周り続ける。そして、軌道を離れた瞬間、この場所も、この回線も、彼女の役割も、終わる。それは、最初から決まっていた。


 それでも、彼女は次の配信の準備を始めた。

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