第3話

 両親と過ごした記憶を、僕ははっきりとは覚えていない。思い出の中の二人はいつもぼやけていて、夢の中で見る景色のように輪郭が曖昧だった。優しかったことは覚えている。父に抱き上げられた時の腕の温もりや、母の優しい声で名前を呼ばれた感覚も残っている。だけど当時五歳だった僕の世界は狭く、二人が居なくなったことを理解するには少し早すぎた。ある日、両親は仕事に行ったまま帰って来ることはなかった。医療区画の白い廊下、医師の説明を受ける中でミナの母であるクイナが僕の手を強く握ってくれていた。両親が亡くなった実感よりも、その感触だけが印象に残っている。

 それから僕はミナの家で育った。ミナとクイナと僕の三人暮らし。僕の母と仲の良かったクイナは、僕を預かっているという距離感で接することはなかった。最初からそこにいるのが当たり前のように、家族のように僕の居場所を用意してくれた。そのお陰か気を遣うことなく、ミナとは姉弟のように育った。大きくなってからクイナにあの時のことを聞けば、両親の死因は外部環境解析区画における事故死とされていると知った。地上の大気成分とシェルター内部の循環空気を比較・解析するための隔離区画で、作業中に気圧調整システムに異常が発生した。隔離区間から脱出しようとする前にシステムが作動し、内部の空気が急激に排出された。それによって低酸素症に陥り、病室に運ばれた時には息を引き取っていたらしい。どこか実感が伴わないまま、少しずつ両親の死を受け入れていった。

 両親が亡くなる前日、父は僕に一つのものを託していた。手のひらに収まる小さな端末機のようなもの。表面には何の表示もなく、ただの四角いプラスチックにも見える。

「これは、大事なお守りなんだ」

 父はそう言って、僕の手のひらごと包み込んだ。

「今は使えない。でもいつか必要になる時が来るかもしれない。だからそれまで肌身離さず持っておくんだ」

 意味は分からなかった。ただ、真剣な顔をしていたような気がする。巾着に入れたお守りを首にかけられたその翌日、両親は帰ってこなかった。そのお守りは、今も僕の胸元で揺れている。


 *


「僕は確かめたい」

 自分でも驚くほど、その声は落ち着いていた。胸の奥ではずっと前から同じ言葉が渦を巻いていたのに、いざ口にすると静かに形を成した。ミナは、真っ直ぐ僕を見た。視線を逸らさない。迷いも、躊躇もない瞳だった。

「嘘でも、真実じゃなくても。何かがあるなら、この目で見てみたい」

 言葉の後に、微かな息遣いだけが残った。

「……もし行って、戻れなくなったら?」

 ミナは躊躇うように一瞬視線を落として、手元の本を見つめてから再び顔を上げる。

「それでもここで何も知らないまま生きるより、僕はそっちを選ぶ」

 沈黙が流れる。その間を埋めるように、遠くで通路を移動するロボットの駆動音が響いた。金属が擦れる規則的な音が、まるで時間を刻んでいるみたいだった。

「……そう言うと思った」

 ミナの声は、少しだけ柔らかかった。覚悟を見透かされたような、諦めにも似た響き。

「私も着いていくよ」

 思わず、首を振る。

「いや、ミナはやめた方がいい」

 理由を考えるより前に否定する。危険を伴うし、僕の身勝手な行動に巻き込みたくないと思った。

「私がこの情報教えてあげたんだよ?」

 彼女は肩をすくめ、苦笑いする。

「こうなる覚悟はしてたから」

「でも、何かあればクイナが心配する」

 クイナの名前を出すと、胸が少し痛んだ。僕を引き取ってくれた人。迷惑をかけることを想像するだけで今考えていることが少し躊躇われる。

「それはルイも一緒でしょ」

 返答はあまりにも自然だった。否定の余地を残さない言葉に、何も言えなくなる。僕は視線を逸らし、床に落ちる影を見つめた。

「善は急げってやつ?」

 無言は肯定と受け取ったのか、ミナはそう続けて静かに立ち上がった。椅子が床を擦る音が小さく響く。こういう時のミナは絶対に意見を曲げない。僕は仕方なく頷いて、二人で図書区間を後にした。

 部屋に戻って準備してあった非常用のリュックを整理して背負うと、部屋を出て再びミナと合流する。まだ仕事から帰って来ていないクイナ宛に『心配しないで』と書き置きを残してきたらしい。絶対心配させることになるし、授業を欠席すれば教師達も気付いて上層部に連絡がいくだろう。だけど、それでもこの違和感の正体を確かめたかった。

 エレベーターに乗り込む。扉が閉まり、軽い振動とともに下降が始まる。表示ランプが下層へと順に点灯して、十八層で止まった。ここまで降りて来たのは初めてだった。ドアが開いた瞬間、空気の質が変わったのが分かった。ひんやりとしていて、人の生活の気配を感じさせない無機質な通路を進んでいく。

通路の突き当たりに、重厚な隔壁が立ちはだかっていた。中央には管理局の紋章が刻まれていて、その上に立入禁止区画と書かれた赤いランプが点滅している。

「……やっぱり、簡単には入れないよね」

 ミナが小さく呟いた。隔壁の横には認証端末があり、ロックがかけられている。試しに手首を翳してみたが、当然エラーで弾き返された。だけどここで諦めたくはない。ふと、胸元に手を伸ばして服の内側から巾着を取り出す。その中には、父があの日お守りとして僕に渡したものが入っている。

「……ルイ、それ」

 ミナはこれの存在を知っていたが、まさかという顔をして小さな端末機を見つめる。認証端末に近づけた瞬間、赤いランプが一度消えた。次の瞬間、機械音声が通路に響く。

『登録デバイスを検出――認証モードに移行』

 端末の表示が切り替わり、ローディングを始める。その瞬間、驚いてミナと顔を見合せた。端末機を持つ手が震える。

『暗号照合完了。セキュリティロック解除。第十八層・廃棄区画へのアクセスを許可します』

 重い隔壁が、鈍い音を立ててわずかに後退した。内部のロックが解除される音が、何重にも重なって響く。まさか本当にこれが鍵になっているなんてと、端末機を握りしめる。

「開いちゃった、ね」

 ミナは呆然としながら、扉を指さして僕の顔を見つめた。お守りを巾着にしまって、

「行こう」

 隙間から、薄暗い空間が覗いた。

 人の気配はない。ただ、奥の方でロボットが規則正しく稼働する音だけが聞こえる。あのロボット達は警備や巡回でも使われている。見つかれば通報されるだろう。

 僕は息を整え、深呼吸をしながら胸元に手を当てた。父は、最初から分かっていたのかもしれない。ここへ辿り着く日が来ることを。ミナと視線を交わす。言葉はいらなかった。僕達は静かに足を踏み出し、廃棄区画の闇の中へ入っていった。

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