第15話 前提

噂は、最初は音だった。


誰かのスマホの画面を覗き込む声。

スクロールする指の音。

「やばいって」という息の混じった笑い。


それが数時間経つと、空気になる。

廊下の角。教室の端。階段の踊り場。

どこにいても、薄い膜みたいにまとわりついて離れない。


「凪が窃盗犯で、その処分で水泳部を辞めさせられた」


掲示板の文章は短い。短いから、勝手に補完される。

誰が、いつ、何を、どれだけ盗んだか。

どんな処分で、どれだけ悪質だったか。

何も書いていないのに、皆がそれぞれの“もっともらしい”を付け足していく。


学校ってそういう場所だ。

空白は、埋められる。


翌朝。椎名が教室に入った瞬間、視線が一斉にほどけた。


見ていたことを誤魔化すみたいに、みんなそれぞれの机へ戻る。

笑い声が少し遅れて戻る。

いつもなら自然に混ざるはずの音が、何かを避けるみたいに回り込む。


椎名は、何も変えない顔で席に座った。


変えない、というより“変えられない”に見えた。

目線は黒板の方。背筋は伸びすぎていない。

机に置いたペンケースの位置を、ほんの数ミリだけ整える。


——いつも通りの動作。


その“いつも通り”が、今日だけ妙に浮く。


隣の女子が声を落とす。


「……ほんとに?」

「書いてあった。凪って」

「処分って、やばくない?」

「誰にも言わないでって言ってるらしいよ」


誰に。

何を。

何一つ確かなことはないのに、言葉の“らしい”だけが増えていく。


私は椎名の横顔を見た。


小さな顔。頬の線が薄い。

血色の薄さだけが目立って、肌は妙に整っている。

病的、というより、光を吸ってしまう白さ。

痩せているのに、不健康な荒れ方はしていない。

——ただ、重さがない。


この人は、見られることが得意じゃない。

得意じゃないのに、今日みたいに見られ続ける日を、何度もやり過ごしてきた顔をしている。


私は椎名の机の端に、プリントを置いた。


「これ、次、回収だって」

理由は何でもいい。近づくための理由なら。


椎名は視線だけを動かして、プリントを見た。


「……ありがと」


声は普通だった。

普通だから、余計に怖い。普通でいればいるほど、壊れる音が聞こえない。


「ん」

私は軽く頷いて、ついでみたいに椎名の机の上に自分のノートを開いた。


「今日の小テスト、範囲ここ。……椎名、昨日ノート取ってた?」

椎名が答えるより早く、教室の空気が少しだけ落ち着く。


“朝霧が隣にいる”

その事実が、勝手な言葉の勢いをほんの少しだけ鈍らせる。


けれど、鈍らせるだけだ。止まらない。


椎名は小さく首を振った。


「……取ってない」


「そっか。じゃあ、今見る?」

私がそう言うと、椎名は一度だけ口を開けて、閉じた。


——言葉が出ない、というより、出すと余計に目立つと分かっている動き。


結局、椎名は何も言わずにノートを覗き込んだ。

覗き込み方が丁寧すぎる。距離が遠すぎる。

“私に寄りかかってるように見える”のが嫌で、無駄に離れている。


それでも、肩が触れないくらいの距離で、二人の影が机に並んだ。


昼休み。


椎名は弁当を出した。

箸を持った。口に入れた。

なのに、噛む回数が少ない。飲み込むのが早い。

食べているのに、食べている感じがしない。


「……椎名、味する?」

自分でも変な聞き方だと思った。

でも、もっと普通の言葉が出なかった。


椎名は一瞬だけこちらを見て、すぐ目を逸らした。


「……する」


「……そっか」

それ以上は言えない。言えないことが、腹の底で小さく疼く。


私が隣にいると、椎名は“助けられている”みたいに見える。

助けられているみたいに見えるのが、椎名はたぶん嫌だ。


嫌なのに、ひとりにもしたくない。


矛盾が、ずっと喉の奥に引っかかっていた。


三日目。


噂は“話題”から“前提”になった。


「凪ってさ、去年の大会のときもさ」

「最初から怪しかったっていうか」

「処分で辞めさせられたなら、そりゃそうだよね」


“そりゃそう”の中に、何もない。

何もないのに、その言い方だけで事実に見える。


椎名は、反論しない。

否定もしない。肯定もしない。

ただ、そこにいる。


そこにいることが、いちばん難しいのに。


廊下ですれ違うとき、誰かの声が聞こえた。


「あ、あの人じゃない?」

「見ないほうがいいって」

「こっち見てる」


椎名は顔を上げなかった。

上げないまま歩く。歩幅も、速度も、いつもと同じにしようとしている。


私は椎名の半歩前に出た。

わざとじゃない。気づいたらそうなっていた。


「……朝霧」

椎名が小さく呼ぶ。


「なに?」

私は振り返らない。振り返ったら、視線が刺さる場所に椎名を置くことになる。


「……いい」

椎名の声は、それで終わる。


“やめて”と言わない。

“ありがとう”も言わない。

言葉にした瞬間、自分が何かの中心になるのが確定するのが嫌なんだ。


それが分かるから、私は何も言えない。

言えない代わりに、歩く位置だけを変える。


四日目。


本人に聞こえる距離で言う人が増えた。


「処分で辞めさせられたって、マジなんだ」

声は笑いに混ざっていた。笑いが混ざっているから余計に悪い。


椎名はペンを持ったまま、動かない。

動かないことが肯定に見える。

肯定に見えることが、椎名の心を削る。


私は椎名の机の横に立った。


「それ、本人の前で言うの、私は嫌だな」

声は強くしない。強くすると場が燃える。燃えたら、椎名がもっと目立つ。


言った子は一瞬驚いた顔をして、すぐ笑った。


「え、朝霧さんってそういうタイプ?」

“正しさ”が格好悪いものみたいに扱われる。


私は笑わなかった。

笑う余裕がなかった。


「確かめてもない話、広げるのって、みっともないよ」

言い終えて、自分の心臓が速くなっているのに気づく。


椎名は私を見ない。

見ないまま、箸を持ち上げた。

食べる動作を続けることで、“何も起きていない”形に戻そうとする。


その必死さが、胸の奥をぎゅっと締め付けた。


五日目。


放課後、風紀室で待っていた。


いつもなら、椎名は遅れてでも来る。

来て、短く「……遅れた」と言って、席に座る。

それだけのことが、私には安心だった。


でも、その日は来なかった。


時計が、針の音を立てる。

誰かが書類をめくる。

机の上のペンが転がる。


椎名が来ないことより、来ない理由が分からないことが怖かった。


“来ない”は意思かもしれない。

“来ない”は限界かもしれない。

そのどちらも、私の手の届かないところで起きている。


次の日、廊下ですれ違ったとき、私は聞いた。


「昨日、来なかったね。大丈夫?」

大丈夫か、なんて、便利すぎる言葉だと思いながら。


椎名は少しだけ目を伏せて、短く答えた。


「……用があった」


「……そっか」

追及できない。追及したら、椎名の“普通”を壊す。


私は笑って誤魔化した。


「今日、終わったら一緒に帰ろ」

“守る”と言わない。

“心配”と言わない。

ただ、一緒に帰るという普通の形にする。


椎名は頷いた。

頷きが小さくて、見落としそうだった。


六日目、七日目。


噂はピークになった。


“凪が窃盗犯”

それが、もう説明のいらない前提として教室に漂う。


椎名は、耐えているように見えるだろう。

けれど私には、耐えているんじゃなくて、“耐えているように見せている”だけに見えた。


視線を落とす角度。

言葉の短さ。

息を吸うタイミング。

全部が、崩れないための工夫になっている。


私は隣に座る。

プリントを渡す。

ノートを開く。

一緒に帰る。


優しくしているつもりだった。

けれど、その優しさが椎名を目立たせているかもしれない。


私が“守る側”に立つほど、椎名は“守られる側”になる。

それが椎名にとって嫌なことだと、分かっているのに。


分かっているのに、やめられない。


——私は、何をしてるんだろう。


自分の気持ちがわからなくなる。

ただ、椎名が一人で折れていくのを見たくない。

見たくないから隣にいるのに、隣にいることで傷つけているかもしれない。


その矛盾が、私の中で固まっていく。


八日目の朝。


椎名の席が空いていた。


「体調不良で欠席です」

担任が何でもないように言う。


教室は、ほんの一瞬だけざわついて、すぐ戻る。

“やっぱりね”という空気が混ざる。


誰も責めない。

誰も気にしない。

噂が一人を潰しても、日常は続く。


私は机の下で指を握りしめた。

怒鳴るのは違う。泣くのも違う。

ただ、許せなかった。


椎名が欠席したことじゃない。

椎名が欠席したことに、みんなが“納得している”ことが。


放課後。


私は教室の扉を閉めて、廊下に出た。

足が勝手に職員室の方向へ向かう。


——誰に聞けばいい?

——何を聞けばいい?


頭の中は整理できていない。

整理できていないのに、止まりたくなかった。


職員室の前に立つ。


扉の向こうから、キーボードの音。

紙をめくる音。

先生たちの声。いつも通りの世界。


そこに入ったら何かが変わってしまう気がして、息を止める。


でも、変えなきゃいけない。


私は一度だけ息を吐いて、ノックする手を上げた。

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花咲く泡沫は眠れる白波の音を聞かない 水無瀬 @1RUKA

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