第14話 匿名

送信ボタンは、思っていたより軽かった。


画面の向こうで、カーソルが一度だけ瞬く。

白い投稿欄に並んだ文字は、整っている。丁寧語でも乱暴でもない。だから余計に悪意だけが純度を保って、そこに置かれる。


——凪が大会で窃盗をして、その処分で水泳部を辞めさせられた。


エンターキー。

更新。

投稿が並ぶ列の中に、いま打った文章が混ざる。


しばらく見つめてから、ウィンドウを閉じた。

閉じるだけでは足りない気がして、履歴を開いて、消す。入力履歴も、できるだけ消す。

机の上には何も残さない。指先に付くべきものも付けない。


椅子を引く音だけが、部屋の空気に落ちた。


それで十分だ。

あとは学校が勝手にやってくれる。


――――――――――――――――――――――――


朝の廊下は、いつも通りのはずだった。


同じ床。

同じ掲示物。

同じ窓から入る秋の光。


なのに、空気だけが違う。視線の方向が一点を向いている。

背中に当たる視線の密度が、ほんの少しだけ増えている。


椎名は何も見ないふりをして歩いた。

見ないふりは得意だ。去年から、ずっとそうしてきた。見たくないものは、見ない。


教室のドアを引く。


いつもの喧騒。椅子の脚の音。カバンのファスナー。

それらに混じって、言葉だけが刺さってくる。


「掲示板、見た?」

「やばいって」

「処分ってさ……」


椎名は足を止めなかった。止めたら、会話の中心に自分が入る。

視界の端に笑ってる顔がある。笑ってるのに、何を笑っているのかは分からない。分からないほうが安全だとなんとく感じ取る。


席に荷物を置く。

机に触れる手が冷たい。指先の感覚が薄い。握る力が弱いわけじゃない。冷えているだけ、と自分に言い聞かせる。


後ろの席の女子が声が耳に届く。


「……ほんとに? 窃盗犯って」

「書いてあった。凪って名前まで」

「え、でも凪ってさ、あの……」

「退部の理由、とくにないって言ってなかった?」

「いや、本人が言ってただけだし?」

「てか、処分で辞めさせられたって——」


椎名は、ペンケースの位置を直した。

直さなくていい。直す必要がない。なのに直す。そういう無駄なことをしていないと、心が散る。


“凪”という音が耳に入った瞬間、喉が乾いた。

声は出ない。出さない。



「……あ、椎名」

同じクラスの男子が、わざとらしくない声で呼んだ。

「今日、風紀ある?」


「……ある」

短く返す。


「そっか」

それだけで終わる。けど、口角が一瞬だけあがったのを椎名は見逃さない。


「今日も風紀あるらしいよ、てか罰ゲーム重すぎな、きまずすぎるわ」

「おもろいから、負けたほうが悪いんですー。」

「風紀もその処分で入ったんでしょー」


“変なやつ”

“関わると面倒”

そういう分類が、机の間を静かに移動していく。


椎名は、授業の準備をした。

教科書を出す。ノートを開く。

いつものテンポで。泳いでいた頃と同じように、一定のリズムで。リズムが崩れなければ、世界も崩れないと信じたかった。


チャイム。


担任が入ってくる。

朝のホームルームが始まる。

連絡事項はいつもと同じで、まるで何も起きていないみたいに淡々と流れる。


だから余計に、教室の“裏側”が濃くなる。

先生が黒板に向かうたび、言葉が小さくなって、でも確実に増える。


「ほんとだったら、やばくない?」

「てか、処分で辞めさせられるってよっぽどだよね」

「何盗んだんだろ」

「いや、でも、朝霧さんが違うって言ってたって」

「そこ最近一緒にいるし、守ってるだけでしょ、嘘ついてておかしくない」

「朝霧使ってんの、こざかしいよね」


朝霧。


その名前が出たとき、椎名は背中を固くした。

守ってる。そんなふうに言われるのが嫌だった。


けれど、朝霧はそんなことはお構いなく近づいてきた。

休み時間、何の前触れもなく隣の席に座る。


「……椎名、ノート見せて」

声はいつも通り、柔らかい。

少し親しくなってからは柔らかい声で話してくれるようになった。

理由を作るのが上手い。必要な距離まで、自然に近づくのが上手い。


「取ってない」

椎名が言うと、朝霧は笑わない。笑ってごまかさない。


「だと思った。試したんですー。見せてあげる」

それだけ言って、椎名の机の上に自分のノートを広げた。

教室の中で、二人のスペースだけが昨日までと同じみたいに見える。


斜め前でひそひそとしていた声が止まる。

止まることすら痛い。

止まると、代わりに視線が集まる。


椎名はノートに目を落とした。

文字が並んでいる。並んでいるのに、意味が頭に入ってこない。


「……朝霧」

椎名が小さく呼ぶ。


「ん?」

朝霧は顔を上げる。目がまっすぐで、やさしい。



「……気使わなくていい」

言葉は短い。理由を言う余裕はない。


朝霧は一瞬だけ周りを見た。

それから、声のトーンを変えずに言った。


「やめないよ」

「だって、一緒にいるよって言ったでしょ。」


そう言い返す元気が、椎名にはなかった。


「……見られてる」

椎名が言うと、朝霧は小さく頷いた。


「うん、見られてるね」

否定しない。慰めない。

でも、次の言葉がちゃんとある。


「だから、一緒にいる」

「見られるのは止められなくても、椎名が一人に見えないようにする。一人にさせないことはできる」


“見えないようにする”

その言い方が、妙に現実的で、胸に刺さった。


朝霧は声を少しだけ落とした。


「……さっきから、聞こえてるよね」

聞こえてる。そう言われるだけで、身体が熱くなる。


椎名は頷いた。

頷く動作をためらった。ためらったことに気づいて、さらに恥ずかしくなる。


「……冷めるまで待つしかない」

噂が広がるのはとてもはやい。とくに高校生はそういうたぐいの話に飢えている。

「椎名が勝手に決めつけられるの、私は嫌だよ」


椎名は、返事ができなかった。

“ありがとう”も、“やめて”も、どっちも違う気がした。


午前の授業は、穴が開いたみたいに抜けていった。

黒板の文字が線になって、線がただ増える。

誰かが笑うと、こっちを見ていないのに「自分のことだ」と思ってしまう。


昼休み。

食堂の匂いが廊下に流れてくる。

椎名は弁当を出す。箸を持つ。口に入れる。


味がしない。

正確には、味を感じる余裕がない。

噛む回数だけが減っていく。飲み込むのが早くなる。早くなるほど、空腹は消えないのに食べた気もしない。


誰かが、また言う。


「去年の大会で窃盗があったんだって」

「そのときの犯人が——」

「処分で辞めさせられたって、書いてあるし」

「え、じゃあ隠してたんだ」


怪我のことを言えば、噂は止まるのかもしれない。

でも止まる代わりに、別の視線が刺さる。


“可哀想”

“痛々しい”

“弱い”


そういう視線は、今よりもっと逃げ場がない。

椎名は、ただ普通でいたいだけなのに。


昼休みが終わる頃には、体の中の水分が全部抜けたみたいに感じた。

喉が乾くのに、水を飲むと胃が重い。

重いのに、吐き気はない。

どこにも分類できない不快さが、ずっとそこにいる。


午後。

廊下ですれ違うとき、声が直接耳に刺さる距離になる。


「あ、あの人じゃない?」

「見ないほうがいいって」

「こっち見てる」

「やば」


椎名は顔を上げなかった。

上げたら、視線が合う。視線が合ったら、確定する。


呼吸が浅くなる。

浅くなるのを、下を向いて隠す。隠せているか分からない。分からないことが、さらに恥ずかしさを増させる。


放課後。

空が暗くなり始めている。校舎の中の蛍光灯が昼より白く見える。


椎名は風紀室に向かった。

行かないという選択はできた。

でも行かなかったら、「噂は本当だ」と言われる気がした。


——くだらない。

そう思いたいが、現実は違う。そう思えたらどれだけよかっただろう。


風紀室の引き戸の前に立つ。

ノックをする手が少しだけ震えた。

震えを見られたくなくて、拳を握り直す。

いつも通りの動作。いつも通りの声。

それができれば、まだ普通だ。


引き戸が開く。


中は、いつもと同じように見える。

机。書類。掲示物。椅子の並び。

でも、空気の温度が違う。


誰かが一瞬こちらを見て、すぐ視線を外す。

外し方が、優しさのふりをしている。


「……お疲れ」

上級生が言う。

声は普通。けれど、後に続く言葉がない。


「……お疲れさまです」

椎名も返す。

返した瞬間、部屋の中の“間”が増えた気がした。


朝霧が奥から出てくる。

いつもより少し早い足取りで、椎名の近くに来る。


「椎名、こっち」

声は小さく、でも迷いがない。


椎名は、ついていくしかない。

恥ずかしいのに、朝霧の近くにいると少しだけ息ができる。


「……大丈夫?」

朝霧が訊く。


椎名は頷けなかった。頷いたら嘘になる。

首を振れなかった。振ったあとの頼り方を知らない。


だから、言葉を削って落とす。


「……いつも通り」


朝霧は、その言葉を受け止める。

否定せず、でも信じ切らず、困った顔もしない。


「わかった」

それだけ言って、立ち位置を変える。

自然に、外からの視線が椎名に刺さりにくい角度になる。


——そういうことを、さらっとやる。


部屋の中で、誰かが気まずそうに咳払いをした。

書類をめくる音が不自然に大きい。

それが全部、「椎名のせいで静かになっている」みたいに感じてしまう。


立っているだけで疲れた。

立っているだけで、肩の力が抜けそうになる。


朝霧が小さく息を吸った。


「……今日は、早めに切り上げよう」

「巡回、無し。報告だけして帰ろ」


椎名は「わかった」と言えなかった。

「だめ」とも言えなかった。


その沈黙を、朝霧は勝手に“同意”にしてくれた。

それがありがたいのに、悔しい。悔しいのに、助かる。


上級生に向かって、朝霧が普通の声で言う。


「椎名、体調よくないみたいなので。今日はこれで帰します。一ノ瀬さんに伝えてもらえますか?」

“体調”という言葉だけが、やけに目立つ。

でもそれ以上の説明がないのが、今は救いだった。


「……あ、うん」

上級生は曖昧に頷いた。

誰も責めない。誰も肯定しない。

それがいちばん冷たい。


風紀室を出る。

引き戸が閉まると、空気が変わる。廊下の方がまだましだと思えるくらいに。


二人で歩く。

夕方の校舎は広い。広いのに逃げ場がない。

今日という一日の点が、いくつも刺さっていて、どこに立っても踏む。


椎名は言葉が出なかった。

出せば崩れる。崩れたら、朝霧の手を煩わせる。


朝霧が隣を歩きながら、急に立ち止まった。

椎名も反射で止まる。


「……椎名」

声がやわらかい。怒っていない。

でも、逃がす声でもない。


椎名は顔を上げられない。

上げたら、表情が見られる。今日の一日が顔に出ている。


「今日、ずっと頑張ってた」

朝霧が言った。

「でも、これ以上は頑張らなくていいよ。——帰ろ」


その“帰ろ”が、命令じゃなくて、約束みたいに聞こえた。

椎名は返事ができなかった。

代わりに、ただ一度だけ、息を吐いた。


それが、頷きの代わりになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る