第13話 距離
保健室は、さっきより少しだけ明るくなっていた。
夕方の光が窓の端に寄って、白いカーテンに薄い金色の筋を作っている。昼の「静けさ」とは違う。学校が帰り支度に向かっていく音が、廊下の遠いところでほどけていく。
椎名が寝てからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
5分にも1時間にも感じる。正確には15分ほどしかたっていないのだろう。
ベッドの脇に座ったまま、私は呼吸を整えていた。
椎名は眠っている。さっきまでの荒い息は落ち着いていて、胸が小さく上下するたびに、シーツのしわがほんの少し動く。
その動きが、やけに脆い。
見ているだけで、胸の奥がざわつく。
守りたい、という言葉より先に、「いま目を離したらだめだ」という感覚が出てきてしまう。その理由を自分で説明できないのが、悔しい。
引き戸が開く音がして、私は背筋を正した。
養護教諭が戻ってくる。手には書類の束と、紙コップのスポーツドリンク。
私と目が合うと、声を落として訊いた。
「その後、吐き気とか、出てなさそう?」
「呼吸は落ち着いた感じ?」
「……はい。いまは、眠ってます」
養護教諭は小さく頷く。
それからベッドに近づいて、椎名の顔を覗き込んだ。驚かせない距離で、でも現実に戻す距離で。
「椎名さん。起きられる?」
「……いま帰る準備しよう。ゆっくりでいいよ」
肩を軽く揺らす。
椎名はすぐには反応しなかった。まぶたが一度だけ震えて、それからようやく、薄く開く。焦点が合うまでに数拍かかる。
「……ん……」
喉の奥で転がしたみたいな声。
椎名は天井を見て、次に私を見た。そこに言葉はついてこない。ただ、状況を確認している目だけが動く。
養護教諭が、いつもの調子で淡々と確かめる。
「気持ち悪さは?」
「頭、痛くない?」
「どこかぶつけた?」
「手とか足、変なしびれ、今ある?」
質問は短くて、押しつけがましくない。
椎名は一つずつ、首を振ったり、小さく「ない」と言ったりして答えた。声はまだ乾いている。
「……ふらっとする」
椎名が最後に付け足す。
「うん。じゃあ、立つのはゆっくり。今日は無理しないで帰ろうね」
養護教諭は紙コップを差し出した。
「これ、少し飲める? 一気じゃなくていい」
椎名は受け取って、ほんの少しだけ口をつけた。
飲み込む動作がやけに慎重で、喉仏の動きが目に入って、私は目を逸らした。見ていること自体が、椎名を追い詰める気がしたから。
「……朝霧」
椎名が、低い声で私を呼ぶ。
「なに?」
私はいつも通りに返したつもりなのに、声が少し柔らかくなってしまった。
椎名は何か言いかけて、飲み込んだ。
「……ごめん」
それだけ。
「謝らなくていいよ」
私は椅子の足を少し引いて、立つ準備をした。
「今日は——帰ろう。話は、帰り道でいいよ」
養護教諭がこちらを見て、頷いた。
「そうだね。今日はもう刺激が多すぎたのかも。貧血っぽさもあるし、緊張も重なった感じ」
断定はしない。けれど、「身体だけの問題じゃないかもしれない」という温度を、ちゃんと置く言い方だった。
「家の人に連絡できる?」
養護教諭が椎名に訊く。
椎名は一瞬、間を置く。
それから、ぽつっと落とした。
「……お母さん、いま海外」
養護教諭の眉が上がった。
「え、海外?」
驚きはしたけど、詰め寄る驚きじゃない。
「じゃあ迎えは難しいね。……今日は誰かと帰れる?」
「……一人」
椎名の言葉が、妙に平らだった。
養護教諭が私に視線を移す。
「朝霧さん、送れる?」
「送ります」
返事は迷わなかった。
椎名がこちらを見る。
その目に「頼む」とも「やめて」とも書いていないのが、逆に胸に刺さる。どっちでもいい、みたいな顔をする癖。それは自分を守るための顔だ。
「途中で気分が悪くなったら、座らせて。無理そうなら、電話してね」
養護教諭は私にだけ聞こえる声で言い、それから椎名に向き直った。
「椎名さん、今日は寄り道しない。帰って温かいもの飲んで、できるだけ早く横になる。明日、しんどかったら無理に来なくていいから」
椎名は小さく頷いた。
ベッドから降りる動作は、慎重だった。
立ち上がる瞬間、膝がほんの少しだけ迷う。迷ったことを隠すように、すぐ足を揃える。
私は言わない。
言ったら、椎名の「平気」が崩れる。崩れたら、今日みたいになる。今日みたいになったら、椎名はもっと自分を責める。
保健室を出ると、廊下の空気がひんやりしていた。
放課後の校舎は、広い。広いのに、視線が刺さりやすい。すれ違う生徒の数は減っているのに、一人ひとりの気配が濃い。
私は椎名の半歩前に出たり、横に戻ったりしながら、歩幅を合わせた。
合わせているつもりで、実は自分が無意識に遅くなっているのに気づく。
——こういうことを、私はいつからするようになったんだろう。
昇降口で靴を履き替える。
椎名がしゃがむとき、動作がまた一拍だけ慎重になる。靴ひもを結ぶ指先が、速くもなく、遅くもなく、ただ「失敗しない」ことだけを優先しているみたいだった。
外に出ると、夕方の風が頬を撫でた。
空は薄い群青に向かっていて、雲の端がまだ明るい。
「歩ける?」
私は、できるだけ普通に訊いた。
「……歩ける」
椎名も、できるだけ普通に返した。
「うん。じゃあ、ゆっくり」
それ以上は言わない。言葉を足すと、余計な圧になる。
校門を出て少し歩くと、街の音に混ざって学校が遠ざかる。
車の走行音、店の自動ドアの開閉、誰かの笑い声。全部が生活の音で、学校の中ほど鋭くない。
椎名がふっと息を吐いた。
さっきまで肺に溜めていたものを、少しだけ逃がしたみたいに。
「……朝霧」
「なに?」
「……さっき、迷惑かけた」
「迷惑、って言い方すると、私が怒ってるみたいじゃん」
私は苦笑して、でもすぐ真面目に戻した。
「困ったのは困った。でも、自分で助けたくてしたことだし、困ったことも不快に思ってないよ」
椎名は「……そう」とだけ言う。
そこで会話が途切れる。途切れても、変に焦らない。焦ると、椎名がまた“返さなきゃ”に追い込まれる。
歩いていると、椎名のジャージの裾が風で揺れた。
学校指定で、シンプルな形。余計な飾りがない。
街灯の光が当たった瞬間、布がふっと身体に沿う。
——そのときだけ、輪郭が見える。
見えたのに、すぐ消える。
布はすとんと落ちて、身体の形をはっきりとさせていた。前はまっすぐで、余計な凹凸もなく影がなかった。
私は視線を逸らした。見たくて見たわけじゃない。たまたま目に入っただけだ。そう自分に言い聞かせる。
「……お母さん」
私が口にしたのは、さっきの保健室の言葉が頭から抜けなかったからだ。
「海外なんだ」
椎名は頷く。
「……いつから?」
「……少し前」
ぽつぽつ。
会話の正解を探しながら、拾える言葉だけを落としている感じ。
「連絡は、取れる?」
私が訊くと、椎名は少し間を置いた。
「……取れる」
「……でも、あんまり」
「……心配するから」
“心配するから”の言い方が、少し硬い。
心配されるのが嫌、というより、心配させたくない、に近い。
私は一歩だけ言葉を選ぶ。
「……椎名は心配されるの、嫌?」
椎名は首を振るでも頷くでもなく、目だけを前に置いたまま答えた。
「……嫌っていうか」
「……言うと、増える」
「……いろいろ」
うまく言えない、という顔も声もしていた。
私はそれ以上踏み込まなかった。
踏み込めば、椎名はちゃんと答えようとして、また自分を追い詰める。
代わりに、別の話題を一つだけ置く。
「……連絡先、交換してもいい?」
言いながら、自分の心臓が一拍だけ強く打ったのが分かった。
必要だから、と言い訳はできる。
でも“必要”だけじゃないのも、分かってしまっている。
椎名が私を見る。
「……なんで」
「今日みたいなの、もう一回あったら困るでしょ」
私は肩をすくめるふりをして、でも声は正直だった。
「……私が嫌なの。そういうの」
椎名の目が、ほんの少しだけ揺れる。
揺れて、すぐ戻る。戻す癖。
それがまた胸をつつく。
「……わかった」
短い返事。
コンビニの前で立ち止まって、スマホを出す。
交換はあっさり済んだ。けれど、画面の中に「椎名」の名前が残った瞬間、現実の重みが増した気がした。
「……送った」
椎名が言う。
「うん。届いた」
口角が少しだけ上がった。
笑いすぎたら、椎名が引っ込む。そう分かっている。
歩き出してしばらくしてから、椎名が突然言った。
「……お母さん」
「……良い治療、うけさせるのにお金いるって」
「……すごい迷ってけど」
「……行った」
言葉は短いのに、胸の奥が冷える。
置いていくのも、置いていかれるのも、痛い。
でも“お金がいる”の一言で、その痛みを飲み込む理由が出来てしまうのが、いちばん残酷だ。
「……本当は、嫌だった?」
私は小さく訊いた。
椎名は、すぐには答えない。
答えない時間が長い。長いけど、逃げてる感じじゃない。ただ、言葉を選んでいる。
「……わからない」
私は息を吐いた。
言葉が出なかった。
代わりに、歩く速さだけを少し落とした。
椎名がそれに気づいていないふりをするのも、分かった。
街の雰囲気が変わっていく。
道が広くなり、植え込みが整って、建物の外壁が均一な色になっていく。
古いアパートの並びじゃない。生活の匂いが薄くて、静かで、綺麗な区画。ここに住む人たちは、きっと“普通”を保つのが上手だ。
椎名がその中で、いまにも折れそうに見えるのが、妙に浮いている。
「……ここ」
椎名が足を止める。
低層の、けれどセキュリティの整った、良さそうなマンションの前。オートロック。エントランスのガラスが街灯を反射している。
私は立ち止まって、目の前の建物を見上げた。
そして、すぐ隣を見た。
——見覚えがある。
ひとつ、ふたつ。
建物の配置。植え込みの形。駐輪場の位置。
「……え」
声が漏れた。
椎名が不思議そうに私を見る。
「椎名、ここ?」
「……うん」
私は、隣の建物を指した。
「私、あれ」
言ったあと、もう一つ指をずらす。
「……隣の隣」
椎名の目が、少しだけ大きくなる。
驚いているのに、驚き方が小さい。感情を大きく動かす余裕がない。
「……びっくりした」
私は、笑ってしまった。今度は隠さずに。
「だからって、別に見張ったりしないから」
「……わかってる」
椎名が言って、視線を逸らした。
逸らし方が、少しだけ照れに似ている気がして、私は自分の勘違いを疑う。
オートロックの前で、私たちは立ったまま少し黙った。
ここから先は、椎名の生活の場所だ。私は線の外側になる。
「入ったら、一言だけ送って」
私は言った。お願い、というより確認に近い声で。
椎名は頷く。
「……うん」
カードキーをかざして、扉が開く。
椎名が中に入る瞬間、ふっと振り返った。
「……朝霧」
名前だけ。
「なに?」
椎名は何か言いそうで、言わない。
言わないまま、視線だけが揺れて、それから小さく息を吐いた。
「……ありがと」
それだけ言って、今度こそ中へ入った。
扉が閉まる。
ガラス越しに、椎名の背中が少しだけ小さくなる。
私はその場に、数秒だけ残った。
残った理由は説明できない。できないけれど、足は動かなかった。
スマホが震える。
「入った」——短いメッセージ。
それだけで、胸の奥の固いものが少しだけ緩んだ。
私は画面を閉じて、隣の隣の建物へ向かって歩き出す。
夕方の空気は冷えているのに、指先だけが妙に熱かった。
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