第12話 白波のあとで
白い天井が、近い。
目を開けた瞬間、世界が白に寄ってきて、逃げ道がなくなる。
蛍光灯の光はやわらかいはずなのに、輪郭だけが妙に鋭い。
鼻の奥に残るのは塩素の匂い。薄くて、乾いていて、喉が少し痛い。
髪がまだ湿っている。首筋に冷たい。
——見られたくない。
それだけが先に来た。怖いとか恥ずかしいとか、名前がつく前に、ただ、見られたくない。
視線の気配がある。
ベッドの脇。椅子。そこに誰かがいる気配。
身体を起こそうとして、肩が動かない。動かないというより、動かす順番が分からない。
息を吸うと、胸に入る量が少ない。浅い。
「……起きた?」
柔らかい声。
白の端に、銀色が滲んだ。
カーテンの隙間から差す夕方の光を拾って、短い髪の一筋が淡い金に見える。
その人——朝霧が、椅子から立ち上がって、ベッドのすぐ横まで来た。
近い。
近いのに、圧がない。距離を詰めているのに、押しつけてこない。
「ここ、保健室。先生、少しだけ席外してる」
言いながら、朝霧は凪の手の近くに自分の手を置いた。置いただけ。握ろうとはしない。
でも、その置き方が、“寄り添おう”という意思に見えた。
「……水、飲めそう?」
凪は返事を作ろうとして、喉が先に鳴った。
小さく頷く。
朝霧がストローの付いた紙コップを口元に運ぶ。
凪は少しだけ吸って、咳き込みそうになるのを堪えた。水が喉の奥に落ちる感覚が、やけに大きい。
「無理しないで。ゆっくりでいいよ」
朝霧の声は、いつもより少し低い。落ち着かせるための音になっている。
凪は視線を逸らした。天井を見続けるのも嫌で、カーテンの影を追う。
——倒れた。
——プールサイド。
——破片。濡れた床。
——「部外者」。
そこまで思い出したところで、頭の中が勝手に止まった。続きを再生したら、また身体が崩れる気がした。
朝霧がそっと、凪の指先に触れた。
握られる、ではない。包まれる、でもない。触れるだけ。
その温度が、妙に現実だった。
「……朝霧」
凪の声が、かすれる。言葉が自分のものじゃないみたいに出てくる。
朝霧はすぐに顔を近づけない。視線だけを合わせる。
淡い灰青の瞳が、光を受けても冷たくならない。透明で、柔らかい。
「うん」
それだけ言った。
凪は、何か言わなきゃと思う。謝らなきゃ。説明しなきゃ。
でも、その順番が作れない。頭の中に並べたはずの言葉が、全部同時に落ちてくる。
朝霧が先に言った。
「今日は、もう大丈夫。……一緒にいるから」
そのあと、少しだけ息を吸う間を置いて、続けた。
「話せそう?」
凪は頷いた。頷いたつもりだった。
首が少し熱くなる。熱くなると、反射みたいに力が抜けそうになる。
朝霧の手が、凪の手をそっと握った。
強くない。逃げ道を潰す握り方じゃない。
でも、離さない握り方だった。
「言えるところだけでいいよ」
「途中で止まってもいいし、戻ってもいい」
「私、聞く」
凪は口を開いて、閉じた。
開いて閉じた、その動きだけで胸が疲れる。
「……水泳」
ぽつりと出た単語が、自分の耳に刺さる。
朝霧が頷く。促さない。待つ。
凪は息を吸った。
吸っても、胸が満たされない。満たされないまま、声を落とす。
「……ずっと、あれだけだった」
言い終えた瞬間、頭の裏側に水の匂いが広がった。
――――――――――――――――――
朝のプール。
まだ暗い時間。
更衣室の床は冷たくて、タイルの継ぎ目にかすかに水が残っている。裸足で踏むと、気持ちが引き締まる。
プールの水面は、白い。
照明の光が揺れて、薄い膜みたいに見える。空より静かだ。
スタート台に手を置くと、金属が冷たくて、指先が一瞬だけ痺れる。
その痺れが好きだった。ここから始まる、って身体が覚えてる。
号砲の直前、音が消える。
人の声も、水の音も、全部遠くなる。
残るのは呼吸だけ。
吸って、吐いて、その間の時間が細くなる。
飛び込む瞬間、世界が重さを消す。
水に入った瞬間、身体が軽くなって、肩の重さも、足の重さも、全部消える。
“眠れる白波”——
誰かがそう呼んだ。最初は笑った。けど、呼ばれるたび、胸が熱くなった。
眠っているみたいに静かに泳いで、気づいたら前にいる。
その言葉が好きだった。
自分がそこにいていい理由みたいに思えた。
――――――――――――――――――
凪は息を吐いた。
吐き終えたところで、自分が泣いていないことに気づく。泣き方を忘れたみたいだ。
朝霧が、凪の髪をそっと撫でた。濡れの残る毛先が指に絡む。
その手つきが丁寧で、安心する。
「……怪我したのは、一年前?」
朝霧が言う。確認するみたいに。
凪は小さく頷いた。
「……飛び込みで」
朝霧の指が、ほんの少しだけ凪の手を握り直す。
ぎゅっとではなく、落ちないようにする動き。
凪は目を閉じた。閉じたほうが話せる気がした。
――――――――――――――――――
飛び込みの一瞬。
いつもと同じ。
踏切板の感触も、空気の匂いも、音も、同じだった。
違ったのは、角度。
ほんの少しだけ、鋭い。
踏み切った瞬間に、身体が「いつもとは違う」って分かった。
分かったのに、止められない。
次に来たのは痛みじゃなかった。
首の奥が熱を持って、世界が一度だけ傾く。
水に入る。
水が身体を受け止めるはずなのに、受け止め方が違う。
軽いはずの水が重い。重いのに、嫌いにはならない。ただ、身体が動かない。
音が遅れて来る。
周りの声が、遠いところで叫んでる。
自分はその中心にいるのに、中心から外れていく感じがする。
プールサイドに上がった瞬間、脳が足を認識しない。
あるのか、ないのかが曖昧で、足がなくなったかのように錯覚する。
その時は、怖いじゃなくて、分からない、と思った。
どうしてこうなったのか。
どうすれば元に戻るのか。
答えがどこにもない。
――――――――――――――――――
保健室の白が戻ってくる。
凪の喉は乾いて、言葉が詰まる。
朝霧が、もう一度水を飲ませてくれる。
凪は少しだけ吸って、息を整える。
「……後遺症、残ってるの?」
朝霧の声が揺れていない。落ち着いている。
でも、胸の奥で焦っているのがわかる。わかるのに、その焦りをぶつけてこない。
凪は頷く。
頷きながら、説明の言葉を探す。
「……手が」
ぽつり。
「……手に、力が入らない時がある」
朝霧の眉がわずかに動く。驚きじゃない。理解しようとする動き。
凪は続ける。言葉が短い。切れる。繋がらない。
「掴もうとしても……指が、閉じない」
「閉じようとして……力を入れると」
「首の奥が……痛くなって」
「そのあと、抜ける」
“抜ける”って言って、凪は自分の言葉が曖昧だと気づく。
でも、言い直せない。
朝霧が言い直してくれた。勝手に決めつける言い直しじゃない。
「……力が、急に抜ける?」
凪は頷く。救われる。自分の言葉が形になるだけで救われる。
「足も」
凪は息を吸う。
「踏ん張ったつもりでも……膝がほどける時がある」
「……長く立ってると、途中で一気に不安定になる」
朝霧はすぐに「病院は」とか「報告は」とか言わない。
その代わり、凪の手を握ったまま言う。
「……それ、ずっと一人でやってたの?」
凪は答えられなくて、瞬きをした。
瞬きをしたら、視界の端が滲んだ。泣きたくないのに、目だけが勝手に熱くなる。
「……学校には出してない」
凪はやっと言う。
「診断書。……出してない」
朝霧の息が、一瞬だけ詰まる音がした。
でも、声は優しいままだ。
「……なんで?」
凪は肩をすくめようとして、動かない。
動かない代わりに、言葉だけ落とす。
「……触られたくない」
「知られたら……なくなる気がした」
朝霧は「なくならない」って言わない。
その代わり、頷いてくれる。
「……そっか」
「そう思うくらい、怖かったんだね」
凪は、怖かったわけじゃない、と言いかけて、やめた。
言い訳みたいになるから。
「……お医者さんは?」
朝霧が小さく聞く。
問い詰めじゃない。必要なところだけ、確かめる声。
凪は一度だけ唇を噛んだ。
その痛みで、思い出せる。
――――――――――――――――――
診断と「分かりました」
病院の待合室は白い。白が多い。
白い壁、白い床、白い蛍光灯。
その白さが、プールの白と違って見える。
医師の声は丁寧で、平たい。
感情が乗っていないわけじゃない。乗せないようにしている声。
「競技復帰は、現実的ではありません」
「日常生活は支障が出にくいですが、負荷のかかる動作は慎重に」
「痛みや脱力が出る可能性は残ります」
脱力。
その単語だけが、紙の上に落ちたみたいに残る。
質問が頭に浮かぶ。
いつ治るのか。治らないなら、私は何になるのか。
でも、それを言葉にすると、世界が崩れる気がした。
だから、口から出たのは一つだけ。
「……分かりました」
医師が少しだけ眉を動かす。
母親が何か言いかけて、言葉を飲む。
私は泣かなかった。
泣いたら現実を受け入れることになると思った。現実を認めたくなかった。
それからはずっと夢のようで見ないといけない現実を、怪我を取り繕うのに忙しくて見えないふりをした。
帰り道、窓の外の景色が流れていく。
その速度だけが、泳いでいる時と同じだった。
――――――――――――――――――
手の中の温度が戻ってくる。
朝霧の手が、凪の手を包んでいる。
凪はそこで、やっと思う。
——話してる。
自分のことを、誰かに。
「……それでも」
凪は声を出す。ぽつぽつ。
「水泳、なくなったって……思いたくなくて」
朝霧が静かに頷く。
凪は続ける。言葉が短い。途切れる。
「泳げてた頃と……同じ感じで」
「毎日を……動かしてた」
「同じ時間に……起きて」
「同じ顔して」
「同じ歩き方して」
朝霧が笑わない。
痛々しいとか、かわいそうとか、そういう顔をしない。
ただ、聞いている。
「そうしてたら……考えなくて済むから」
凪が言う。
「……ないってこと」
言い終えたところで、胸の奥が空になる。
空になったところへ、今日の音が落ちてくる。
「……今日」
凪は小さく言う。
「今日、言われた」
朝霧が身じろぎする。
でも、先を急かさない。
凪の息が乱れた。
胸が浅く上下する。喉が乾いて、言葉が出ない。
朝霧の手が、少しだけ強く凪の手を握った。
強く、と言っても痛くない。ここにいる、と教えてくれる強さ。
「……大丈夫」
朝霧が言う。
「……いまは、大丈夫」
凪は、返事ができない。
できないまま、唇だけが動く。
「……朝霧」
声になった。
朝霧は、答える代わりに、凪の頭を撫でた。
濡れが残る髪が指に絡む。絡んでほどけない毛先が、やけに柔らかい。
撫でられるたび、呼吸の角が落ちていく。
落ちていく中で、凪は目を閉じる。
その瞬間、朝霧の視線が凪の顔に落ちたのがわかった。
見られるのは嫌なのに、朝霧なら、と思ってしまうのが悔しい。
「……今日は、もう休も」
朝霧の声が、近い。
「続きは、起きてからでいい」
凪は喉を鳴らした。
何か言いたいのに、言葉がまとまらない。
朝霧は凪の手を握ったまま、離さない。
頭を撫でるだけで、枠を作る。
凪は、その枠の中で、少しずつ力を手放していく。
呼吸がゆっくりになる。喉の渇きが遠のく。
最後に、凪が小さく息を吐いた。
降参みたいな息だった。
朝霧の指先が、もう一度だけ髪を撫でる。
その優しさが、今度は痛くない。
凪はそのまま、静かなところへ落ちていった。
眠りの手前で、朝霧の声が聞こえた気がした。
「……ここにいるから」
凪は返事を作れなかった。
でも、握った手だけは離さなかった。
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