第8話 余白

放課後が近づくと、教室の空気は勝手に軽くなる。

椅子が引かれる音が増えて、鞄のファスナーが一斉に鳴って、誰かの笑い声が半音だけ高くなる。


――世界が「終わる準備」を始める時間だ。


椎名凪は、ノートを閉じた。

黒板の字を写す作業は終わっているはずなのに、指先だけがまだ微かに動いている。ペンの感触が掌に残っていて、抜けない。紙の上の仕事が終わっても、身体のどこかが「まだ終わってない」と勘違いしている。


制服の袖口を整える。

皺を伸ばす、というより「余計なところが目に留まらない形」を作る。

壊れていないふりをするのは簡単だ。

壊れている現実を抱えるより、ずっと軽い。


「椎名、今日も風紀?」


隣の席の生徒が、雑談のつもりで聞いてくる。

声に悪意はない。だからこそ返し方が難しい。悪意がない会話ほど、こちらに“素顔”を要求する。


「うん」


短く頷く。

それ以上は言わない。説明は、余計な視線を呼ぶ。


「大変そうだね」


「まあ、慣れた」


嘘じゃない。慣れてしまった。

慣れてしまうことが一番怖い、と気づくのは、いつも少し遅い。


チャイムが鳴る。

教室が一斉にほどける。

凪はほどけないまま立ち上がり、鞄を肩にかけて廊下に出た。


廊下には部活の熱が漂っている。

大会が近いのだろう。運動部の声が切羽詰まり、足音が速い。息が荒く、焦りがそのまま空気を震わせている。

その熱が眩しい。

眩しさが、目に刺さる。


――かつては、そこにいた。

そこにいることが、世界の全部だった。


いまは、そこにいない。

いない場所の熱ほど、残酷に明るい。


風紀委員室へ向かう廊下の角で、銀色がかった髪が視界に入った。

朝霧澪が、掲示板の前に立っている。掲示物を読んでいるようで、読んでいない。文字を追う目ではなく、空間全体の微細な変化を測る目だ。


椎名が近づくと、朝霧は視線を掲示板に置いたまま言った。


「……少し遅い。もう始めるよ」


「いつも通りだと思うけど」


「“いつも通り”すこし遅いです」


朝霧の声は淡々としている。

怒っているわけじゃない。叱っているわけでもない。

ただ、事実を置く。


椎名は言い返す言葉を探して、やめた。

探している時点で、自分が言い訳の入口に立っているのが分かる。


歩幅が揃う。

揃えようとしていないのに、勝手に揃ってしまう。

並ぶのが自然になっていくのが、怖い。


「今日は増えるよ」


朝霧が言う。予言じゃない。観察の結論だ。


「分かってる」


「分かってて来るのは、偉いって褒めてるわけじゃないよ」


「……褒められたいわけじゃない」


「そのつもりは最初からない」


短い。

短い会話は、余白が残る。

余白が勝手に意味を作る。


椎名はその余白が苦手で、同時に、朝霧に対してはどこかでそれを求めている。


風紀委員室の扉の前で、澪がノックを二回。

中から「どうぞ」と返事が返る。

朝霧が開けた。


部屋の空気は相変わらず整然としていた。机の上の紙束、ペン立て、記録ファイル、ホワイトボードに書かれた巡回予定。整然としている場所は安心する。乱雑な場所は、人が感情で動く匂いがする。


そして、整然としている場所ほど、壊れるときは派手に壊れる。


「来たね」


一ノ瀬透が振り向いた。

皺のない制服。整った声。教師に愛される笑顔。

“優秀”の匂いがする。


「昨日の記録、先生が褒めてたよ。丁寧で助かる、って」


褒め言葉の形をした鎖。

“助かる”は、軽い命令だ。


「ありがとうございます」


椎名は反射で言う。礼儀は盾だ。

盾はときどき、こちらの腕も縛る。


「今日はね」


一ノ瀬が机の上の紙束を指で揃える。乾いた音がする。

「巡回もやるけど、倉庫が忙しい。大会前で部活の出入りが増えるだろ? 紛失とか事故とか起きると面倒だから」


朝霧が目だけで一ノ瀬を見た。

言葉は挟まない。その代わり、言葉の形を先回りで解体している。


「だから、鍵の受け渡しと記録、昨日より増やす。あと、備品の移動も少し手伝ってほしい」


朝霧が淡々と言った。


「備品の移動は、部活側で回した方が速いです」


一ノ瀬は笑ったまま澪を見る。


「部活側は手が足りない。先生からも“風紀で回せるなら回して”って言われてる」


“先生から”。

その一言で、この場の正しさが確定する。

正しさが確定した瞬間、反論は“わがまま”になる。


朝霧は一拍置いてから、声の温度を変えずに続けた。


「巡回なら順番を変えます。巡回は私が責任をもって回しますので。そのあと運搬は二人でします」


一ノ瀬が一瞬だけ眉を上げた。

すぐに、教師に見せるような柔らかい笑顔を作る。


「巡回の後じゃ間に合わない。部活側はすぐにでも備品を欲しがってるんだから。椎名は記録も丁寧だし、運搬も慣れてる。朝霧がいなくても大丈夫だよ」


慣れてる。

また鎖。


椎名は喉の奥で息を飲み込んだ。

“慣れてる”は、限界の手前まで連れていく言葉だ。


朝霧が椎名を見た。

手元ではなく、目。

目で「どうする」と訊いている。


椎名は視線を外してしまいそうになって、踏みとどまった。


「……運搬、どれくらいですか」


自分でも意外なくらい、声がまっすぐ出た。

一ノ瀬は一拍置いて、笑った。


「いい質問。重いのはあとで俺がやるから。椎名は俺が持って行って欲しいっていうのやって。軽いやつだから。あと倉庫の記録フォーマット、今日中に仕上げてくれると助かる」


軽いの。

“軽い”の定義はいつも相手が決める。


「分かりました」


椎名が言うと、一ノ瀬は満足そうに頷いた。


「助かる。ほんと助かる」


その言葉がまた鎖になる音がした。


朝霧が紙束を差し出す。


「これ、持って。……落とさないでね」


「……わかってる」


朝霧は凪の指先を見ている。

目が正確すぎる。


「落としたときの焦った顔、見られたくないんじゃない?」


胸の奥が一瞬沈む。

痛いところを刺す言い方じゃない。

ただ、事実を言っているだけなのが厄介だ。


椎名は紙束を受け取った。

数十枚のプリント。重くない。

それでも掌の中で重心が微妙に揺れる。揺れを抑えるために指に力を入れる。力を入れるほど、指先の感覚が薄くなる。


朝霧が紙束の端を、ほんの少しだけ押した。

わずかなズレ。


椎名の指が反射で締まる。

締めた直後、掌の奥がじん、と痺れに似たものを返す。


椎名は表情を変えない。

変えないまま紙束を机に置いた。


「……今試したでしょ?」


椎名が小さく言う。


朝霧はとぼけたふりをする。


「証拠は?」


「……ない」


「なら、試してません」


それで話が終わる。

終わるのに、胸の中にだけ残る。


朝霧はペンを持って記録表に目を落とした。


「巡回、行ってくる」


それだけで場が切り替わる。


椎名は息を吐いた。

吐いた息が紙の匂いと混ざる。

この部屋の匂いはどこにも逃げない。


途中までは朝霧と同じ道のり。


廊下を並んで歩く。

靴音がいつもより大きく響く気がする。

実際は同じだ。気がするだけだ。

気がするだけの変化が、一番厄介だ。


すれ違う生徒たちの視線が、二人の間を滑る。

風紀委員だから、というだけだろう。

そう思いたい。


「できないのに“できる”とか“平気”とか、そういうこと言いわないで」


朝霧が言った。


「できてるから」


「今はね」


椎名は言い返しそうになって、やめる。

朝霧の言葉は、反論すると余計に面倒くさい。

朝霧の言葉に対する対処の仕方を凪は知らない。


椎名は朝霧の横顔を見る。

銀色がかった短い髪が夕方の光を拾う。

大きな二重の目は、暗い場所でも色を失わない。灰色に近い冷たい瞳が、世界の“ズレ”だけを拾い上げていく。


美しさが距離を作っている。

距離があるから、息苦しくならない。

息苦しくならないから、逆に逃げられない。


朝霧は歩きながら言った。


「見えてるから」


それだけ。

見えてるから、試す。

そこに善意も悪意もないのだろう。

ただ、事実がある。


気づかれてるのに無慈悲であることが救いになる。

救いになることが腹立たしい。


「鍵わすれてた」

朝霧がこんなミスをすることに驚いた。こういう一面もあるのかも知れない


委員室へはいっしょにもどることにした。

廊下を曲がったところで一ノ瀬がいた。


「あ、ちょうどよかった。椎名、これ」


一ノ瀬が小さな透明のケースを差し出す。中に金属の部品が入っている。見た目より重そうだが“箱”ではない。断りにくい形をしている。


「これも体育館裏の倉庫に運んで。部活の備品。今日中にまとめたい」


朝霧が言う。


「一人に持たせるのは危険です」


一ノ瀬は笑う。


「さっきも言っただろう。人手が足りないんだ。適材適所だ。たかだか物の運搬くらいで何をそんなに神経質になってるんだ?朝霧はすこし椎名に構いすぎだ。そんなに積極的に人にかかわるタイプじゃないだろう。椎名は運搬、慣れてるでしょ?」


慣れてる。

鎖を増やす言葉。


椎名は一度だけ朝霧を見た。

朝霧は椎名の目を見る。

“止めない。でも、見てる”という線引きだけがそこにある。


同時に朝霧の態度が万人に向けられているものではなかったことに驚いた。

いままで、朝霧の言葉は事実を並べて現実を突きつけるだけだと思っていた。けれど、その端にほんの少しだけ温かみが混じっていることに気づいた。



椎名はケースを受け取った。


「……行ってきます」


「うん。よろしく」


一ノ瀬は軽く言う。軽い言葉ほど、責任は重い。


体育館裏の倉庫までの道は短い。

短いから“平気”と思ってしまう。

短いから“気づかれない”と思ってしまう。

短いから“すぐ終わる”と思ってしまう。


倉庫の鍵を受け取り、中に入る。

埃の匂い。古い木材の匂い。汗の染みたマットの匂い。

音が吸われる空間は落ち着く。落ち着くのに、心臓だけが速い。


棚にケースを置こうとして腕を伸ばした。

伸ばした瞬間、指先の感覚が一瞬なくなる。


ほんの一拍。


その一拍が、失敗を呼ぶ。


脳が「落ちる」と言うより早く、身体が掴み直した。

掴み直した瞬間、掌の奥がじんと痺れる。

痺れが腕を伝って、首の方へ上がってくる気がして背筋が冷えた。


――怖い。


怖い、という感情が浮かび上がる前に、椎名はケースを棚に押し込んだ。

動作が少し荒い。荒い動作は目立つ。

幸い、ここには誰もいない。


誰もいない静けさが、逆に息を詰まらせる。

静かだから、自分の呼吸が聞こえる。

聞こえる呼吸が、現実を近づけてくる。


今日、何を飲んだか思い出せない。

食べたかどうかも曖昧だ。


“普通”を作るのに、全部のリソースを使ってしまう。

余った分で生きるのが日常のはずなのに。


倉庫を出ると、秋の夕方の冷たい風が頬を撫でた。

その瞬間、首の奥が軽く痛む。痛むというより、存在を主張する。

凪は首に手をやりかけて、やめた。


見られたくない。

見られたくない理由を説明することが、一番怖い。


廊下に戻る途中、階段の前で足が止まった。

ケースは置いた。手は空だ。

それでも身体が次の動作を嫌がっている。


階段を上がる。

一段、二段。

途中で部活の生徒が走り降りてきた。


「すみません!」


ぶつかりそうになる。

避ける。避けた瞬間、足裏の感覚が薄い。

薄い感覚のまま着地して、膝がわずかに揺れた。


揺れを誰にも見られていないことだけが救い――

そう思った瞬間、背中がぞくりとした。


廊下の向こう側に澪がいた。

巡回の途中のはずなのに、そこに立っている。近づかない。声もかけない。

ただ、見ている。


椎名は目を逸らしそうになって、逸らせなかった。

逸らしたら負ける気がした。

負けた瞬間に、もっと深く入ってこられる気がした。


朝霧は追ってこない。

追ってこないことが怖い。


――呼び止めない、という線引きは、放置にも見える。

放置にも見えるのに、確かに“見られた”。


椎名は委員室へ戻った。


「おかえり。終わった?」


一ノ瀬が明るく言う。


「終わりました」


「助かる助かる。じゃあ次」


次。

その二文字が背骨を冷やす。


机の脇に、小さく見える段ボールが二つ置いてある。

テープが何重にも巻かれている。中身は固い。壊れ物だと分かる。


「これ、明日。水泳部の方に届けたい。大会前で機材の入れ替えがあるらしくて」


水泳部。

その単語だけで喉が一瞬固まった。


「倉庫に残ってた計測の部品。壊れ物だから丁寧にね。先生からの指示」


“先生から”。

また正しさの確定。


「うちのプールは設備整ってるから大会開けるんだってね」


椎名は頷きかけて、止まった。

止まったのを一ノ瀬が見逃さない。


「運べるよね?」


笑顔のまま圧がかかる。

圧を圧として出さない人間は、逃げ道を消すのが上手い。


「……分かりました」


声は普通。

普通の声が出てしまうことが、少し怖い。


一ノ瀬は満足そうに頷いた。


「さすが。よろしく」


それで終わり。

拒否権は最初から無かったみたいに。


朝霧が戻ってきたのは、その直後だった。

扉が開いて、冷たい風が入り、銀色がかった髪が揺れる。

朝霧は一ノ瀬に簡単に報告し、机に向かう。

本当に巡回をしたのかは怪しい。

椎名の方は見ない。


見ないことが刺さる。

刺さるのに、何も言えない。


言えば言い訳が出る。

言い訳のはずなのに、喉の奥に言葉が溜まっていく。


委員室の整理が終わるころ、外はすっかり暗くなっていた。

蛍光灯の白が、机上の紙を浮かび上がらせる。

白い紙は、何も知らない顔をしている。


椎名が鞄を持って立ち上がると、朝霧がようやく口を開いた。


「明日、運ぶなら」


椎名は息を止めた。


朝霧は凪を見ないまま、結論だけを置く。


「十分に気をつけて。……何か起きたら、たぶん一番つらいのはあなた」


心配してくれているのか、ただ事実を並べているだけなのか、判然としない。


「……気をつける」


椎名がそう言うと、澪は小さく頷いた。

その頷きは優しさのように感じられた。


二人で廊下に出る。

偶然みたいに並ぶ。

並ぶのが自然になっていくのが怖い。


校舎の窓に、二つの影が映る。

距離は近い。触れてはいない。

触れたいと思った。


「さっき……見てた?」


椎名が小さく言った。問いの形をしているが、答えを求めているわけじゃない。確認したいだけだ。


朝霧は淡々と返す。


「勘違い」


「……ほんとは?」


「証拠は?」


「……ない」


「なら、勘違い」


朝霧はそこできっぱり切る。

認めないことで、特別扱いを避けてくれている。


校門の前で立ち止まる。

朝霧も止まる。

止まって初めて目が合った。


朝霧の瞳は、街灯の下で灰色に近い光を帯びる。

冷たい。冷たいのに、距離だけは縮まる。


「椎名」


朝霧が名前を呼ぶ。

珍しい。だから胸の奥が動く。


「無理なら、無理って言って。私もそこまで守り切れないよ」


言い切られる前に、一瞬だけ思考が揺れた。

弱音もない。迷いもない。

ただ、言葉が深く刺さっただけ。


「隠しても分かる。……最近、隠すのがへた。何を隠しているのかまでは正確には知らないけど、その生活は長くは続かない。必ずどこかで限界が来る。今ならまだ間に合う」


椎名の胸の奥に、何かが落ちた。

この生活が終わるかもしれない――そんな安心かもしれない。


朝霧といると、過度に取り繕わなくていい。そのことに安らぎを覚えている自分がいる。

朝霧が“空白”から組み立てた意味が、妙に的を射ている。その正しさにほっとしてしまう自分もいる。

それが、腹立たしい。


ただ、朝霧以外の誰かにばれる――そう想像しただけで、どうしようもなく怖くなる。


朝霧のこの発言に答えれば“普通”が揺れる。

揺れた瞬間、澪はもっと深く入ってくる。

深く入ってくるのが怖い。

でも――来てほしい。


矛盾が喉の奥で詰まる。


「……別に大丈夫だから。構わないで」


やっとそれだけ言えた。


朝霧はそれ以上追わない。

追わないまま背を向けた。銀色がかった髪が街灯の下で淡く光る。歩き方は迷いがない。迷いがないから、追いかけたくなる。


椎名は追いかけない。

追いかけないことが、今の精一杯の抵抗だ。


明日。

水泳部。

壊れ物。

大会前。

“先生の指示”。


単語が積み上がっていく。

積み上がった単語の上に自分が立っている。


立っているふりだけはできる。

できるふりが上手いほど、次が来る。


夜の空を見上げる。星は少ない。街の光が強い。

強い光の下では、影にさえ濃淡がつく。

幸い、学校という雑踏には光も多く、影も多い。みんな自分のことで手いっぱいだ。

自分にできるのは、この影をできるだけ薄くすること。薄い影は見つけにくい。

見つけにくければ、誰も拾わない。


拾うのは、あの目だけだ。


その目が、これからも間に合ってくれるのかどうか。

椎名は答えを作らないまま、歩き出した。

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