第9話 手のひらの重さ

朝の光はまだ低く、机の天板に斜めの筋を落としている。夏休み明けの秋が始まったばかりの教室には、まだ「終わった夏」の匂いが残っている。

制汗剤の残り香、プールの塩素が衣服の奥に染みついたような錯覚、窓の外で鳴き続ける蝉の声。黒板の粉の乾いた匂いすら、どこか湿っている。


扇風機が回っていた。

何も決められないみたいに首を振りながら、生ぬるい風を撒き散らす。

暑さはもう盛りではない。それでも、まだ終わりきっていない。廊下の空気も、制服の内側も、妙にまとわりつく。

始業前のざわめきがまだ眠たく、椅子を引く音だけがやけに大きい。


今日は朝早くに目が覚めてしまった。放課後に向き合わなきゃいけないことが頭から離れない。ここから逃げ出したい衝動だけが、静かに強い。

椎名凪は窓際の席に座り、机の上の筆箱を開けた。

ペンを一本抜く。何の用もないのにキャップを外してみる。閉める。外す。閉める。

手が、余計なことをしたがる。


余計なことをすると、余計なことを考えなくて済むから。


視線を窓に逃がすと、校庭の端を運動部が走っていた。

上がった息の揃った息遣いも、足音も、掛け声も、きっちり同じ拍で重なる。揃うことが正しさみたいに響く。

その整然とした熱の中に、自分の居場所がない――それが、事実として胸に刺さる。


――ない。

ただ、ない。


それだけなのに、毎回、初めてみたいに痛む。

気づかないふりをする。

ふりを重ねるほど、痛みは育っていく。


「椎名」


名前を呼ばれて、椎名は顔を上げた。

担任がプリントを片手にこちらを見ている。


「放課後、風紀の方だったな。用事が増えてるって聞いた。無理はするなよ」


“無理はするな”は、優しさの形をした便利な言葉だ。

言う側はそれで安心できる。言われる側は、それで縛られる。

無理をしているかどうかを、本人より先に決められたくない。

でも、決められたくないと言った瞬間、説明が必要になる。


「はい」


椎名はそれだけ返した。

笑顔も、渋い顔も作らない。作った瞬間、何か情報を与えるから。


担任は深追いせず、別の生徒にプリントを配り始めた。

クラスの日常は、そうやって誰かの痛みを踏まないふりで成立する。

踏まれなかった痛みは、消えない。消えないまま、皮膚の下で硬くなる。


椎名はその硬さを抱えたまま、午前の授業を受けた。


ノートは取れる。発表もできる。小テストも平均以上だ。

できることだけを並べれば、問題のない生徒に見える。


だから、誰も気づかない。

気づかれないように整えることだけが、いまは得意だ。


放課後。


チャイムが鳴ると、教室がほどける。

机が引かれ、鞄が背負われ、部活の予定が飛び交う。まだ夏の名残があるせいか、放課後の声は湿っている。汗を含んだ笑い方だ。


「椎名、今日も風紀?」


朝と同じ問いが、今度は違う温度で飛んでくる。

放課後の問いは少しだけ羨ましさを含む。


「うん」


「えらいな。俺ならサボる」


軽い笑いが起きて、会話は終わる。

簡単に終わる会話は楽だ。続く会話は、輪郭を求めてくる。


廊下に出ると、遠くから懐かしい掛け声が聞こえた。

プールの方角だと分かるだけで、鼻の奥が勝手に痛む気がする。

実際に匂いがするわけじゃない。ただ、記憶が匂いを連れてくる。


――気のせい。

そう言い聞かせる癖がある。

片づけないと、立っていられなくなるから。


角を曲がると、朝霧澪がいた。

同じクラスなのになぜかいつもここで待っている。

銀色がかった髪が、廊下の蛍光灯を冷たく拾っている。制服は完璧に整っていて、スカートの折り目もリボンの角度も乱れがない。

整っているのに近寄りがたいのは、本人が距離を崩さないからだ。


朝霧は椎名を見るなり言った。


「今日、運搬するの――」


「覚えてる」


言い終わる前に、被せるように言った。


「……水泳部だよ」


単語だけが落ちる。

喉が、わずかに固くなる。


「大丈夫?」


心配がにじんでいるが、確認の言い方をしている。

確認の形をしているから、逃げられない。


「大丈夫、だと思う」


断言を避けた。

断言した瞬間、その言葉が次の鎖になる。


朝霧は何も言わず歩き出し、椎名もついていく。

並ぶのが自然になっていることに、気づかないふりをする。


風紀委員室に入ると、一ノ瀬透が机に向かっていた。

白い紙束、記録ファイル、鍵の束。整然とした仕事道具の中心に、一ノ瀬の“優等生の顔”がある。


「来た来た。ちょうどよかった」


一ノ瀬は机の脇を指す。

そこに、段ボール箱が一つ。昨日の“壊れ物”だ。テープが何重にも巻かれている。中身は脆い。一度衝撃が加われば簡単に壊れる。まるで誰かさんの日常だと自嘲する。


「これね。今日中に水泳部に渡したい。大会前で機材の入れ替え、かなり急いでるらしいから」


朝霧が先に言った。


「二人で行きます」


一ノ瀬が軽く目を丸くする。


「え、巡回は? 巡回、今日多いよ」


「巡回は後で回します。急いでるなら先に渡した方がいいですから」


一ノ瀬は一瞬だけ間を置いて、柔らかく笑った。


「助かるけど……澪が抜けると困るんだよね。先生からも“澪を回せ”って言われてるし」


“先生から”。

その一言で、正しさが確定する。

確定した瞬間、反論は“わがまま”になる。


一ノ瀬は椎名を見る。


「椎名、お願いできる? 一本道だし、渡すだけ。すぐ終わるよ」


“渡すだけ”。

言葉の軽さとは反対に、現実は軽くない。


椎名は頷きかけて、朝霧の視線に止められた。

朝霧は椎名の顔を見ていない。手元でもない。

呼吸の間、姿勢の揺れ、肩の落ち方。そういう椎名が“言葉にしない情報”を拾っている。


「椎名一人での運搬は合理的ではありません」


朝霧が言った。


「合理的だよ。巡回も回る、備品も渡す。手が足りないから分担する。あたりまえのことだ。どこが合理的じゃないんだ?ほら、椎名も“できる”でしょ?」


一ノ瀬の声は優しい。

優しいほど断れない。

断る側に罪悪感だけ残す優しさだ。


椎名は息を吸って、吐いた。

胸の中にある言葉は「無理かもしれない」だ。

でも口にした瞬間、それが“特別”を呼ぶ。自分が“特別”になる。

特別扱いは、現実を突きつける。


「……運ぶだけなので」


釈然としない言い方だ。

朝霧が、ほんの僅かに眉を動かした。

“その言い方は危ない”というサイン。


一ノ瀬は満足げに頷いた。


「さすが。助かる。じゃ、これ鍵。水泳部プールにいるって聞いてるから。行けば誰か受け取ってくれると思うよ。サインももらってきて」


鍵が掌に落ちる。金属の冷たさが鋭い。

冷たいものは、手の感覚を正直にする。正直にされると困る。


朝霧が椎名に言う。


「終わったら、すぐ戻って」


「うん」


返事を短くする。

声に余計な震えを混ぜないため。


「……本当に一人でいけるの?」


朝霧の声は小さい。小さいのに、逃げ道がない。


「急いでるのはわかるし。近いから」


朝霧が一拍黙る。

沈黙が、言葉より重い。


「……分かった」


朝霧は、最後の最後でやさしくない。


椎名は箱に手を伸ばした。


段ボールの角。テープのざらつき。紙の乾いた感触。

「持てるかどうか」を判断する前に、身体が持ち上げようとする。

持ち上がった。


――いける。


そう思った瞬間、手のひらが遅れて反論する。

重心が微妙にズレる。

それをごまかすように腕に力を入れる。力を入れるほど、指先の感覚が薄くなる。


椎名は表情を変えないまま、箱を抱え直した。

抱え直す動作が滑らかであるほど、周囲は安心する。

安心されるほど、次が増える。


一ノ瀬が笑って言う。


「気をつけてね。壊さないように」


椎名は頷き、委員室を出た。


背中に朝霧の視線が刺さる。

刺さるのに、振り返らない。

振り返ったら、崩れる。


外はまだ暑かった。

夕方の陽射しが弱くなっても、アスファルトは熱を手放さない。

風はあるのに、風が温い。制服の内側が少しずつ湿る。


箱を抱えたまま校舎裏を回る。

体育館の壁沿いに進むと、遠くのプールから掛け声が聞こえる。

距離があるのに、音だけが近い。音だけが、過去を引きずってくる。


“気のせい”。

内側で繰り返し、歩く。


倉庫の鍵を開ける。

埃の匂い。古い木材の匂い。汗の染みたマットの匂い。

この匂いは現実だ。現実の匂いの方が安心する。


棚の前に箱を置き、サイン用の用紙を取り出す。

ペンを握る。

握った瞬間、指がほんの僅かに震えた。

震えを見ないふりで押さえ込む。


書ける。

字は崩れない。

崩れない字ほど、周りを騙す。


鍵を閉め、箱を抱え直して外へ出る。

次はプール棟へ向かうだけだ。


――“向かうだけ”。


言葉にした瞬間、喉の奥が冷える。

向かうだけのはずなのに、そこには過去が詰まっている。


プール棟の手前で、水泳部の生徒とすれ違った。

濡れた髪。ゴーグル跡。ジャージの袖から出た腕が、水の匂いをまとっている。


「すみません!」


「大丈夫です」


敬語が自然に出る。

この場所では、自然にそうなる。

自然になるのが過去を思い出させる。


プール棟の入口が見えた。

窓の内側に、青い水面の反射が揺れている。

揺れが視界の端で白くちらつく。


足が止まりかける。

止まったら動けなくなる。

凪は止まらず、ドアを押した。


中は湿度が高い。

塩素の匂いが刺す。濡れたタイルが、目に焼き付いて離れない。

その匂いと景色だけで、身体の奥が勝手に固くなる。


白い音。

水面が割れる瞬間の音。

息が届かない恐怖。


椎名は一度だけ瞬きをして、それらをしまった。

しまえるものだけしまう。しまえないものは、奥に押し込む。


「……あれ?」


入口近くで声がした。


椎名の肩が一瞬固まる。

声の主は、水泳部の上級生だった。学年は上。顔は知っている。だが、話したことはほとんどない。

その視線が、懐かしさではなく、値踏みの形をしている。


「椎名……久しぶりじゃん」


「……お久しぶりです」


椎名は声を平らにする。

平らにすると、相手の感情が映らない。


先輩は箱を見る。


「それ、何?」


「備品です。風紀の方から預かってきました」


「へえ。大会前だもんな。おまえが風紀か。“眠れる白波”さん」


素直に懐かしい呼び名だと思うとともに、胸の奥が痛む。

先輩の口元が少しだけ歪んでいる。

笑顔じゃない。皮肉が節々から漏れ出ている。


「……マネージャーいますか?」


椎名がそう言うと、先輩は首を振った。


「いや、いい。俺が受け取ってやるよ。急いでるし」


俺が上だとでも言わんばかりの態度だ。

劣等感が深かった人ほど、それが大きな優越感へと変質する。


「置いとけ。あっち」


指差す先はプールサイドの端、器材が置いてある。

数メートル。数メートルが遠い。


椎名は箱を抱え直して歩き出した。

足音がタイルに響く。水の音が近い。掛け声が近い。

近づくほど、首の奥が勝手に固くなる。


器材置き場まであと少し、というところで先輩が言った。


「そういやさ」


椎名は返事を急がない。

急げば余計な言葉が出る。


「……なんで辞めたん?」


口角が片方だけ持ち上がる、まるで出来の悪い像のように嗤っている。


「……いろいろあって」


先輩は鼻で笑う。


「“いろいろ”ね。まあ、そういうやつだもんな」


そういうやつ。

もともとそりが合わなかった先輩だ。もっとも、実力に嫉妬されて一方的に嫌われていただけだが。だから、会話を交わしたところで胸に引っかかるものなんてない――はずだった


椎名は箱を置こうとして、手のひらに汗が浮いていることに気づいた。

一度気づくと、止まらない。

湿気、緊張、匂い。

全部が指先の感覚をさらに曖昧にする。


箱がわずかに傾いた。


がつん、と小さな音。

中で何かがぶつかった音。


心臓が跳ねる。


「……なにしてんの?」


先輩の声が低くなる。低い声は、怒りの前触れだ。


「少し……ただ、大丈夫だと思います」


“思います”が逃げになる。

逃げた分、相手は詰めてくる。


先輩が箱に手を伸ばす。

椎名が反射で引く。

体の大きさではかなわない。

思わずだったが、引いた動作が余計に怪しい。


「なんだよ。わかってんだろ。すぐ壊れること」


壊れ物。

ここでも同じ単語が刺さる。

壊れるのは備品だけじゃない。自分の“日常”だ。


「……すみません。確認なら、自分が――」


言いかけた瞬間、先輩が箱のテープを触った。


日常が壊れてしまうような気がした。

息が止まる。

止まった瞬間、視界の端が少し白くなる。

白さは過去と繋がっている。


「やめてください」


声が、思ったより強く出た。


先輩が眉をひそめる。


「は?」


椎名は自分の声の強さに驚き、慌てて角を落とす。


「……すみません。サインもらったら、すぐ戻るので」


先輩は一拍、椎名を見た。


「相変わらず、気持ち悪い」


相変わらず。

変わってないなら戻れるはずだ。

戻れないのに、変わってないと言われるのが一番きつい。

会話よりもそれが深く刺さった。


先輩はサイン用紙を雑に受け取り、ペンを奪うように取って書く。

紙が擦れる音が、やけに大きい。


「ほら。次からはこういうの部活に回せよ。風紀に頼むの、正直だるいし。おまえ見たくもないから」


言葉が、胸の奥に沈む。

沈むのに、表情は動かない。動かしたら負ける。


「……わかりました」


椎名は紙を受け取り、箱を抱え直そうとした。

その瞬間――指先が、また一瞬動かない。


ほんの一瞬。

短いのに、確実に存在する。


箱が、ぐらりと傾く。


反射で抱え直した。

抱え直す腕に余計な力が入る。

余計な力が入ると、首の奥がじくりと痛む。

痛みが“ここにある”と主張してくる。


「……落ち着いて」


背後から声がした。


朝霧の声だった。


身体が一瞬固まる。

来るはずがない。巡回のはずだ。

でも、いる。

いるという事実だけが、現実の形を変える。


先輩が振り向き、朝霧を見て言葉を詰まらせた。

朝霧はその視線を受け流しながら、淡々と椎名に近づく。


「二人で運びますね。落としたら困るので」


優しさなのか。合理なのか。


先輩が笑ってごまかす。


「いや、大丈夫っすよ。椎名、運べるんで」


朝霧は先輩を見る。

目が冷たい。冷たいのに、声は変わらない。


「“運べる”って本人が言うときほど、危ないものです」


先輩が一瞬だけ目を見開く。


「……は?」


理解の外だ、とでも言うみたいに眉を寄せた。


「焦ると手元が雑になるよ。さっきの音、聞こえたから」


音。

がつん、という音。

そして、椎名の心臓が跳ねた音。


朝霧は箱の反対側に手を添えた。

指先は迷いなく重心の位置を押さえる。

椎名の指先とは違う。遅れがない。


「こっち持つから。離して」


「……大丈夫だから、自分で――」


言いかけて、喉が詰まる。

“助けられる”ことが恥ずかしい。

恥ずかしいのに、離した瞬間、手のひらがほっとする。


朝霧が半分受けて、負担が軽くなる。

軽くなった瞬間、今までどれだけ力を入れていたかが分かってしまう。

分かってしまうのが現実を突きつけるようで目をそむけたくなる。


先輩が口を尖らせる。


「別に、そこまで……」


朝霧は先輩を見ずに言う。


「大会前に壊したら困るのは先輩ですよ。困るの、嫌ですよね」


淡々と正しいことだけを言う。

正しさが、反発の行き場を消す。


先輩は視線を逸らした。


「……好きにしろ」


先輩は文句を言っているだけで、そこに立っているだけだった。腕を組んで、動く気配はない。


なのに頬だけが、ほんのり赤い。

朝霧の顔を見た瞬間に、言いたいことが一回途切れる。視線も定まらず、機材じゃなく朝霧の方に引っ張られている。


機材の話なんて、もうどうでもいいのだろう。

そして俺は、またいらない嫉妬を買ってしまったのだと気づく。


「歩いて。ゆっくりでいいから」


「……うん」


二人で箱を運ぶ。

歩幅が揃う。

揃うのが自然で、怖い。


出口のドアを押し開けた瞬間、外の空気が顔に当たった。

湿った塩素の匂いが薄れる。

薄れた途端、気づく。


自分が、息を止めていたことに。


朝霧が言った。


「……無理なことはできるって言わない約束なんだけど」


責める声じゃない。

確認でもない。

“どうして”が混じった声。


椎名は答えられない。

答えれば理由が必要になる。理由を言えば終わる。


「急いでるみたいだから」


それだけ絞り出す。


朝霧は一拍黙り、言葉を選ぶ。


「理由になってない」


正しい。正しいのに、どうしようもない。


二人は箱を委員室まで運び戻した。

一ノ瀬が目を丸くする。


「え、朝霧?巡回は?」


朝霧は平然と答える。


「途中で戻りました。備品が危ないので」


「危ないって……」


一ノ瀬が椎名を見る。

椎名は表情を変えない。変えないまま視線を落とす。


朝霧が一ノ瀬に向けて言う。


「明日以降、この手の運搬は二人で。巡回の順番は私が調整します」


一ノ瀬は一瞬困ったように笑った。


「いや、でも先生が――」


「先生には私が言います」


朝霧の声は揺れない。

揺れないから押し切れる。

押し切れるから、椎名は余計に苦しくなる。


守られるのが恥ずかしい。

でも、守られないと生きていけない。


矛盾が胸の奥で固まっていく。


一ノ瀬は引き下がったように見せて、明るく言った。


「分かった分かった。じゃ、明日は二人で。時間だけ守ってくれればいい」


椎名は紙に目を落とした。

今日もサインが一つ増えただけで、何も終わっていない。

むしろ明日が確定しただけだ。


委員室を出ると、空はまだ少し明るかった。

西側の雲がオレンジに焼けて、蝉の声がどこか粘るみたいに続いている。

日が落ちきらないのに、校舎の影は伸びていく。


窓に二人の影が映る。

昨日より近い。

近いのに触れていない。

触れていないから、逃げられる気がする。逃げられないのに。


朝霧が歩きながら言った。


「明日は私が行く」


「……巡回は」


「回る。順番を変える」


「それじゃ迷惑――」


朝霧が椎名を見る。

灰色の瞳が逃げ道を塞ぐ。


「迷惑って言うの、好きだね」


「……好きじゃない」


「好きじゃないのに、すぐ言うの?」


朝霧は視線を前に戻して続けた。


「あれを落としたら、困るのはあなた」


今日のその言葉は、いつもより具体的だった。

箱が傾いた瞬間の心臓の跳ね方を、朝霧は見ていた。


椎名は答えられない。

答えれば認めることになる。

認めることは、あの怪我からのこの一年間の否定だ。


校門の前で足を止める。

朝霧も止まる。


夜の手前の空気が湿っている。

冷たいわけじゃないのに、胸の奥だけが冷える。


朝霧が言った。


「一人で平気、って顔を作るの、やめて」


喉の奥が痛くなる。

“平気”の顔を作らないと、生きていけない。

でも、作り続けるほど、生きている感じがしなくなる。


「……分かりました」


敬語が出た。

自分を守る盾が、勝手に立つ。


朝霧はそれ以上追わず、背を向けた。

銀色がかった髪が夕焼けの光を拾う。

歩く背中は迷いがない。迷いがないから、追いかけたくなる。


椎名は追いかけない。


追いかけない代わりに、胸の奥でひとつだけ決める。


明日――なにごともなく過ごす。

いつも通り一日を過ごす。

そうすれば、何も起きない。

何も起きなければ普通が続く。


普通が続けば、痛みも続く。

でも、痛みが続いているのが、いまは理想なはずだ。


理想で、残酷だ。


椎名は空を見上げた。

星の光が点々と浮かんでいる。

点が増えるほど、線ができる。線ができるほど、形ができる。


小さな点が増えるほど、逃げ道が減っていく。


明日の点は、今日より重い。

明後日の点は、明日より重い。

からだが、それをもう知っている。


椎名は指を握り、ほどいた。

握ったときの違和感をごまかすように、何度も。


そして、何事もなかった顔で歩き出した。

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