第7話 反復
朝の教室は、まだ温度が上がり切っていない。
窓際の席に座る生徒がシャツの袖を引き下ろし、廊下側の席の誰かがカーディガンの裾を指でいじっている。黒板には日直が書いた日付と天気。チョークの粉が薄く残って、うっすら白い靄みたいに見える。
チャイムが鳴る前のざわめきは、海の手前の砂浜に似ている。波が来そうで来ない、落ち着かない音。言葉は断片で、誰の話題も最後まで聞き取れない。
その中で、朝霧澪はいつも通りだった。
机に頬杖をつくこともなく、髪をいじることもない。銀色がかった短い髪は、朝の光に当たって淡く白く見える瞬間がある。猫のように大きな二重の目は、半分だけ開いたまま教室を眺めている。眺めるというより、数えている。騒がしさを構成する要素を、静かに分類している目だ。
視線が一瞬、こちらへ向いた。
ほんの一拍。意味を持つほど長くない。けれど、気づかないふりをするには短すぎる。
視線を返さない。返せば会話が生まれる。会話が生まれれば、答えが必要になる。答えの材料は、増やしたくない。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
午前は、いつも通り過ぎた。板書、ノート、指名、当てられないようにするための呼吸の調整。授業の内容が頭に入っているかどうかより、表情が不自然になっていないかの方が気になる。焦ると目が泳ぐ。目が泳ぐと、余計な心配を呼ぶ。
昼休み、廊下の向こうから風紀委員の一年が手を振ってきた。軽く頷くだけで返す。親しくなる必要はない。距離が近いほど、視線は鋭くなる。鋭くなった視線は、いつか隠している部分に触れる。
放課後が近づくにつれて、喉の奥が少しだけ乾く。
昨日から正式参加になった。その事実は、体のどこにも書かれていないのに、ずっと背中に貼り付いている。制服のタグみたいに、外せない。
廊下を歩く足取りは、普段と同じ速度を保つ。速すぎない。遅すぎない。遅いと疲れていると思われる。速いと元気だと思われる。どちらもなにかを呼ぶ。
風紀委員室に向かう廊下は、放課後になると匂いが変わる。汗、紙、乾いた埃。薄い消毒液の匂いも混ざっていて、学校という建物が一日の終わりに吐き出す息みたいだ。
扉の前で二回ノックして、中に入る。
机の配置も、空気も、昨日と同じ。違うのは、昨日が“初日”だったというだけで、今日が“二日目”になっていること。二日目は怖い。初日は例外として許されるが、二日目からは習慣として扱われる。
窓際の机に、朝霧澪が立っていた。
書類に視線を落としている。ペンの動きが正確で、迷いがない。姿勢はまっすぐで、肩の位置も左右揃っている。綺麗な姿勢は、努力で作れる。崩れていないのは、崩さない意思があるからだ。
「おつかれ」
朝霧が顔を上げずに言う。
「おつかれさま」
会話はそれだけで終わる。
机の上には昨日より多い紙束が積まれていた。巡回表、注意記録、提出用の集計。紙が多いほど、言い訳はできなくなる。紙は事実として残る。事実が残ると、責任の所在が決まる。
扉が開く。
「お、早いね」
一ノ瀬透の声。
背が高く、制服は今日も皺ひとつない。ネクタイの結び目は小さく、中心からずれていない。髪は黒く短く、耳にかからない。表情は柔らかいのに、目が冷たい。人を見ているのではなく、作業量を見ている目だ。
「昨日は助かったよ、椎名」
入ってくるなり、こちらへ向けて言う。
言葉は軽い。軽いからこそ重い。軽い褒め言葉は、その場で消える。消える代わりに、次の要求だけが残る。
「今日も頼むね。先生にも報告してる。『二年でも回せる』って」
“先生にも報告”。それだけで逃げ道が閉まる。教師の評価が高い人間は、言葉の使い方が上手い。事実の組み立て方が上手い。誰が逆らっても、角が立つように仕向ける。
朝霧が言う。
「昨日の巡回、特に問題は出てません」
「それが一番いいことだ」
一ノ瀬は笑う。教師が好きそうな笑い方。
「校内で問題が出てから動くのは遅い。問題が出ないように動くのが風紀」
正論。反論できない正論。
「で、今日は」
一ノ瀬が紙束を指で弾いた。乾いた音がする。
「巡回は昨日と同じ。ただ、部活の備品が出入りしてる。倉庫の鍵の管理も含めて見たい」
朝霧が眉を動かす。ほんの僅か。言葉にはしない。
「鍵は顧問が持つべきです」
「顧問は忙しい。現場で回すのが早い」
正論の形をした、押し付け。
一ノ瀬はそのまま続ける。
「椎名、倉庫の出入りの記録、取れる?」
“取れる?”という聞き方は柔らかい。柔らかいまま、断る選択肢を消す。
返事の前に、澪の視線を感じる。視線は、紙束ではなく指先に落ちている。指先の震えを探す目。震えない。震えさせない。
「できます」
答えると、一ノ瀬は満足そうに頷いた。
「助かる。君、丁寧だし。字も綺麗だし。こういうの、向いてる」
“向いてる”という言葉は呪いだ。向いていると言われると、断る理由がなくなる。やらない理由が悪になる。
朝霧が、低い声で言った。
「記録は作業量が増えます。人員が足りてないなら、作業範囲は絞るべきです」
一ノ瀬は朝霧を見て、笑ったまま言う。
「範囲を絞るのは、“問題が起きてから”でいい。今は起きてない。校内で問題が起こらないように努めるのが風紀だ。問題が起きたとしてそれは最善の努力の結果だ。校内の問題とはわけが違う」
朝霧の目が細くなる。だが、それ以上は言わない。言えば理由を求められる。理由を言えば、その理由がこの場で露呈する。露呈した瞬間、椎名の隠しているものが巻き添えになる。
だから、止めない。
止めないことが、ここでは最も安全な選択になる。
巡回に出る。
廊下は昨日より人が多い。運動部がケースを抱えて走り、文化部が段ボールを押している。廊下の端をすれ違うだけで、肩が当たりそうになる。ぶつからない距離を計算して、避ける。避ける動きは自然に見せる。自然に見えるように、先に動く。
倉庫の前で鍵を受け取る。顧問ではなく、二年の部員が持ってきた。
「風紀委員の人? お願いします」
“お願いします”。頼まれた形になると断れない。頼まれた形にされるのは、いつも同じ構造だ。頼まれるのは、断らない人間。
「預かります」
鍵を受け取る手は、迷いなく伸びる。鍵は冷たい。金属の冷たさは、手のひらに正直だ。握る力を一定に保つ。強く握りすぎると後で痺れる。弱く握ると落とす。落とすと面倒が増える。面倒が増えると、視線が増える。
記録用の紙を挟んだクリップボードに、部活名と時間を書き込む。文字は整える。整っていれば、“普通”に見える。普通に見えれば、誰も疑わない。
部員が荷物を運び出す。ケースの角が廊下に当たり、鈍い音を立てる。
「気をつけて」
声をかける。注意ではなく、ただの声かけ。命令調にしない。命令調にすると、反発が生まれる。反発が生まれると、制御が必要になる。制御が必要になると、負荷が増える。
荷物が通り過ぎ、鍵を戻す。
書く。渡す。見る。書く。渡す。見る。
反復。
反復は、精神を摩耗させるより先に、身体を削る。鍵の受け渡し、紙への記入、視線の移動。ひとつひとつは小さいのに、積み重なると重い。重いことを、顔に出さない。顔に出すと心配される。心配されると理由が増える。
“怪我をしている”という理由は、ここでは使えない。使った瞬間、すべてが変わる。変わるのは怖い。怖いから、隠す。
だから、反復を選ぶ。
夕方、風紀委員室へ戻る。
一ノ瀬は椅子に座って書類を捌いていた。捌く、という言葉が似合う。紙を一枚ずつめくり、印をつけ、付箋を貼る。指が速い。速いのに丁寧。こういうところが教師に評価される。
「おかえり。記録、見せて」
クリップボードを差し出す。一ノ瀬は目を走らせて、頷いた。
「いいね。完璧。こういうの、ほんと助かる」
褒める。褒めて、仕事を増やす準備をする。
「明日も同じでお願い。あとさ」
一ノ瀬は机の端を指した。段ボール箱が二つ。昨日より大きい。テープが何重にも巻かれている。
「これ、部室に届けといて。先生に言われた。倉庫整理で出てきたやつ」
澪が顔を上げる。
「運搬は部活側に頼むべきです」
一ノ瀬は朝霧に向けて、いつもの柔らかい顔で返す。
「部活側は大会前で忙しい。風紀が動いた方が都合がいい。先生もそう言ってた」
“先生もそう言ってた”。
教師の評価が高い人間の最強の盾。教師の名前を出せば、反論は“教師への反論”になる。教師への反論は、問題のある生徒に見える。問題を作りたくない風紀委員は、それを避ける。
朝霧は一瞬だけ黙った。視線がこちらに落ちる。段ボール箱ではなく、腕の位置、肩の角度。息の深さ。見ている。
止めない。止められない。
一ノ瀬の視線が向く。
「椎名なら大丈夫だよね? 昨日も運べてたし。丁寧だし」
昨日も運べてた。丁寧だし。
“昨日できた”は、今日できる根拠になる。今日できたは、明日できる根拠になる。根拠が積み上がるほど、断れなくなる。
「……分かりました」
段ボール箱に手をかける。持ち上げる。重さが腕に乗る。昨日の箱より重い。だが、顔は変えない。変えないまま、呼吸の深さを一定にする。ここで息が乱れると、視線が集まる。
一ノ瀬はもう書類に戻っている。こちらが運ぶことは確定事項。確認は終わった、という態度。
廊下に出る。
段ボール箱の角が腕に当たる。痛いわけではない。痛みより先に、じんとした痺れが来る。痺れの兆候を無視する。無視できる範囲だ、と頭が言う。
届け先は体育館裏の部室棟。廊下の突き当たりを曲がり、階段を降り、外廊下を渡る。外廊下は冷たい風が抜ける。汗が冷えて、皮膚の表面が少し硬くなる。
段ボール箱を抱えたまま、階段の一段目に足を置く。
二段、三段。
下りきる前に、部活の生徒とすれ違う。大きなスポーツバッグ。肩でぶつかりそうになる。避ける。避ける動きは自然に。自然に見せるために、先に身体を動かす。
その一瞬、箱の重心がずれる。
腕の内側に、痺れが走る。
指先が冷たくなる。
握り直そうとする。
間に合う。
まだ落とさない。落とさないために、呼吸を整える。
平気な顔を作る。
平気な声を作る。
「すみませ~ん」
相手が謝る。
「こちらこそ申し訳ないです」
短く返して、先へ進む。
部室棟の前で、部員に声をかけられる。
「風紀委員さん? それ、うちのですか」
「そうです。倉庫整理で出てきた」
「助かります!」
受け取る手が伸びる。軽く渡す。渡すときは相手の手に重さを乗せる。こちらが落としたように見せないために。渡す側の印象は、最後の動作で決まる。
段ボール箱が相手の腕に収まる。
肩の内側が、ほんの僅かに軽くなる。軽くなると同時に、冷たさが引く。痺れが少しだけ残る。残る痺れは、気づかないふりをする。
「ありがとうございました!」
部員が頭を下げる。笑う。元気だ。大会前はこういう空気になる。焦りと高揚が混じっていて、言葉が早い。勢いがある。
その勢いに、入れない。
入れないことが、今は救いでもある。入れないから、期待されない。期待されなければ、失望もされない。失望されなければ、痛まない。
――そういう理屈を並べる癖は、いつからついたのか。
風紀委員室に戻ると、一ノ瀬が顔を上げた。
「届けた?」
「はい」
「ありがと。ほんと、任せられる」
その言葉が、また一枚、札のように貼られる。任せられる札。断れない札。
澪は書類を整えながら、声を出さずにこちらを見ていた。視線は段ボール箱が置かれていた場所ではなく、手元。指先。肩。姿勢。呼吸の間。何も言わないが、何も見落としていない目。
一ノ瀬は続ける。
「じゃあ、明日も同じで。あと追加でさ」
追加。
その二文字が、胸の奥に鈍く響く。
「倉庫の記録、フォーマット作って。先生に提出する用。君の字で作ると綺麗だから」
“先生に提出する用”。教師が関わると、拒否はできない。拒否すれば、“先生の仕事を妨げる”になる。教師の評価が高い人間は、それを理解している。
「……分かりました」
朝霧が、紙束を揃える手を止めた。ほんの一瞬。止めた瞬間に、空気が動く。
「作業が増えすぎです」
朝霧が言う。声は低い。鋭い。
一ノ瀬は笑ったまま、澪を見た。
「増えてないよ。整理してるだけ。記録があると、先生も安心する。安心すると、風紀がやりやすい」
正論の形。
教師のため、という名目。
反論は、教師への反論になる。
朝霧は黙る。黙る代わりに、こちらを見る。止めない。止められない。今止めれば、理由が必要になる。理由が必要になれば、隠しているものが露呈する。露呈したくないのは、澪も同じだ。守るために黙っている。
黙ることが、介入の形になる。
この場では、それしかできない。
一ノ瀬が最後に言った。
「君、そういうの得意だし。頼むね」
得意。
向いてる。
任せられる。
それらは全部、同じ意味を持っている。
“断るな”。
帰り道、廊下の窓に映った姿が一瞬だけ目に入った。
制服は乱れていない。髪も乱れていない。表情も崩れていない。普通だ。普通に見える。普通に見えることが勝ちだ。普通に見えれば、誰も気づかない。
気づかれないまま、反復が続く。
反復の中で、負荷は少しずつ増える。
増えるのに、外からは“できている”にしか見えない。
だから、もっと増える。
明日も。
その次も。
“大丈夫”が積み上がっていく。
その積み上がった大丈夫の上で、いつか足を滑らせる。
滑らせるのは、運でも不注意でもない。
身体が言うことを聞かない瞬間が、どこかに必ずある。
そういう確信だけが、静かに喉の奥に残っていた。
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