第3.5話 白い音

職員室の夕方は、音が薄い。


昼のざわめきが引いたあとに残るのは、プリンターの排熱と、紙が擦れる乾いた気配と、誰かが引き出しを閉める控えめな衝撃だけ。蛍光灯はいつも通り白いのに、机の上の白だけが妙に冷たく見える時間帯だ。


藍沢詩織は席に戻り、椅子を引く音をできるだけ小さくした。

小さな音を怖がるのは、神経質だからではない。


音は、思い出を呼ぶ。

そして想起された思い出は、こちらの都合で帰ってくれない。


机上には提出物の束がある。回収したプリント、会議資料、風紀委員の回付書類。それらに混じって、一枚だけ別の質感を持つ紙があった。罫線のない、学校指定のレポート用紙。右上の欄に、整った文字。


二年四組 椎名凪。


黒の油性ボールペン。掠れも勢いもない。丁寧すぎるほど安定した筆圧で、攻撃的な文章が並んでいる。文章の刃だけが、書き手の手から切り離されて机の上に置かれているみたいだった。


藍沢はその名前を指でなぞる。

なぞった瞬間、いつもの現実が一枚、ずれる。


引き出しの奥に、封筒が一つある。

誰にも見せないためではない。

「手続き」に変換される前の形を、辛うじて保つための封筒だ。


封筒を取り出すと、紙の角が指先に触れた。ほんのわずかな痛み。――その痛みが、別の場所に移る。首の奥。骨の内側。水面の向こう側。


藍沢は一度だけ目を閉じた。


塩素の匂いがする気がした。

実際にはしない。ただ、記憶が勝手に匂いを連れてくる。


封筒の中身は診断書だけではない。数年前の検査所見のコピー。簡単な注意事項が印刷された紙。日付は古い。家庭で保管されていたものが、その日、医師の前に差し出された。


それを見たのは、医師と、保護者と、そして――藍沢だけだ。


学校には提出されていない。提出を望まなかったのは、椎名だ。

理由はわかる。提出した瞬間に、椎名の痛みは「配慮すべき案件」に変わる。案件になったものは、扱われる。扱われたものは、噂になる。噂になったものは、居場所を壊す。


椎名は、自分の居場所が壊れることを、何より嫌った。

嫌っているうちに、避けるための作法を身につけてしまった。


藍沢は封筒を一度だけ開き、いちばん上の紙を見た。


競技復帰は現実的ではない。

日常生活には支障が出にくいが、負荷のかかる動作は慎重を要する。

頚部への衝撃、急激な可動は避けること。

継続的な症状が予測される。


文字は淡々としている。淡々としているからこそ、残酷だ。

「戻れない」という結論を、丁寧に言葉に包んで差し出してくる。


――戻れないのに、日常は続く。

学校は、その矛盾の上に建っている。


背後で、同僚たちが笑った。会話の中で何かが面白かったのだろう。

藍沢は笑えない。笑えるわけがない。

封筒を閉じる。閉じた瞬間に、あの日の白がまた浮かぶ。


白い音。

水に入った瞬間、世界の音が消えて、代わりに骨の奥で鳴るもの。


藍沢は感想文に視線を戻した。

努力を美談だと言い切り、成功者の理屈を焼き払う文章。刺々しいのに、息は整っている。叫んでいるのに、声が震えていない。


椎名は昔からそうだった。

感情を出さない、のではない。

感情を「出さない形」に整えることができる。


それは、才能だった。

水の中で、最も価値のある才能。


だから――あの子は、全国でも上位だったのだ。


藍沢は封筒を引き出しに戻そうとして、指が止まった。

封筒を戻す前に、記憶が先に戻ってきてしまった。


あの日のプールは、いつも通りのはずだった。


夏の終わり。湿った空気。水面に反射する光。プールサイドのペースクロックが時を刻み、濡れた頭に時間を押しつけてくる。部員たちの掛け声が、水が跳ねる音と混ざって空に散る。


藍沢は顧問として、椎名を見ていた。

見ているつもりだった。

本当は、見たいものを見ていただけだったのかもしれない。


椎名凪は、速かった。

速いだけではない。強い。


レースの終盤で崩れない。呼吸が荒れても水面に疲れが出ない。ターンは美しい。スタートからの減速が明らかに少ない。それが、どれほど卓越したことか。なぜなら水泳はスタートの瞬間が最も速いのだから。どれだけ減速させないい競技かということもできるのかもしれない。あれは「努力」だけの領域ではない。


大会のたびに、名前が載る。

速報の画面には、同じ文字列が何度も映る。

「次は世界で勝負になる」

「将来は強化選手の候補だ」

そういう言葉が、周囲から勝手に積み上がっていった。


椎名はそれを否定しない。肯定もしない。

ただ、黙って泳ぐ。


そして、身体だけがいつも薄かった。


もともと骨格は細かった。水泳に必要な筋肉はついている。だが、競技者としての「厚み」が出にくい。その厚みゆえに水から上がると、体温が奪われるのが早い。練習後に肩にタオルをかけられ、湯気が立っているかのように熱い皮膚を擦られると、急な温度の変化に息が少しだけ詰まる。


部員が小声で言うのを、藍沢は何度も聞いた。


「椎名、今日も大丈夫かな」

「首、また気にしてない?」

「細いのに、無茶しすぎだよ」


椎名はそれを聞こえないふりをした。

聞こえないふりが上手いのも、才能だった。


――水泳だけ。

幼い頃から、それしかなかったようだ。

学校の行事も、休日の遊びも、他の興味も、全部、水の外に置いてきたように見えた。泳げる限り泳ぐ。泳げないなら、何が残るのか。そんな問いを、椎名はずっと遠ざけてきた。


「椎名。一本だけ、オールアウト。上からで」


藍沢が声をかけると、椎名は短く頷いた。

返事は普通。表情も普通。呼吸も普通。

普通のまま、飛び込み台へ向かう。


飛び込み台の白い板。

濡れた縁。

指先が迷いなく同じ位置に置かれる。右足が前、左足が後ろ。


藍沢はそのとき、見落としていた。

椎名がほんの一瞬だけ、首の奥に違和感を抱える仕草をしたことを。

ほんの一瞬。誰も気づけない程度。本人でさえ気づいていないふりをする程度。


あの子には、元々問題があった。

それを知ったのは、事故の後だ。

事故の前に知っていれば――と、何度も思う。

だが同時に、知っていたら椎名は泳げただろうか、とも思う。


「行きます」


声は落ち着いていた。

落ち着いているほど、怖い。


踏み切り。

空中。

入水。


水面が白く割れる。

その瞬間、音が消える。

いつもの無音。いつもの感覚。――のはずだった。


次の瞬間、椎名の動きが止まった。


止まった、というより、切れた。

糸が断ち切られて、身体と意思が離れたみたいに沈んでいく。


藍沢の喉から声が出なかった。

笛が鳴る。誰かが叫ぶ。

藍沢の身体が勝手に動いた。


プールに飛び込む。水が冷たい。皮膚が刺される。

水中は光が散って白い。輪郭が掴めない。

椎名がいる。目はゴーグルで見えない、しかし、腕が伸びていない。脚も動かない。


抱えようとして、躊躇が走る。

首。頚椎。

触れ方一つで、取り返しがつかない。


躊躇は一瞬だった。

躊躇している暇はない。


抱え、浮かせ、引き上げる。

水が重い。身体が重い。

プールサイドに引きずり上げた瞬間、椎名の唇の色が薄いことに気づく。目は開いているのに、焦点が合っていない。


「息、できる?」


問いかけに、椎名は一度だけ瞬きをした。

その瞬きが、返事の代わりだった。


無表情な椎名が、藍沢には一番怖かった。

「水泳だけ」の人間が、水泳を失う瞬間。

そこに、感情がないはずがない。

ないのではなく、出さないのだ。


出した瞬間に終わるから。


救急外来の蛍光灯は、学校より白い。


白いというより、隠すことを許さない。

顔色、汗、震え、呼吸の浅さ。全部が暴かれる光だ。


椎名はベッドに寝かされていた。首には固定具。腕には点滴。

呼吸は浅い。浅いのに、目は落ち着こうとしている。

落ち着こうとする癖が、ここでも出る。


医師は淡々と告げた。


「今回の衝撃だけでは説明しきれません。飛び込んだだけではこうはならないでしょう。元々、頚部に弱さがあったのでしょう」

「……弱さ?」

藍沢の声は、やっと音になった。


医師は頷いた。


「頚椎の状態です。以前からの不安定さが疑われます。負荷のかかる動作で症状が出やすい。飛び込みは特に危険だった可能性が高い」


“危険だった”。

その文字が、藍沢の胸に沈んだ。


そのとき、保護者が小さなクリアファイルを差し出した。

角が擦れた古い紙。日付は数年前。検査所見。注意事項。

家庭でだけ眠っていた紙が、病院の白い光の下に晒される。


「昔、一度……首で指摘があって。そんな重篤なものではないって言われていたんですが、本人には言ってあったんです。無理はしないようにって。でも……」


医師が紙に目を落とし、短く息を吐いた。


「なるほど。……これではそこまで危惧するような状態ではありませんが、定期的な検査などは行ってはいなかったのですか?成長するにつれて、激しい運動などによって――」


藍沢は、その文字を見てしまった。

見た瞬間、理解してしまった。


椎名が“止まれない”理由。

そして、誰にも言わない理由。


水泳だけ。

それしかない。

それを奪われたら、世界が空になる。

だから、危険だと分かっていても、本人は「大丈夫」に整えて泳いでしまう。


医師の声が続く。


「競技復帰は、現実的ではありません」

言葉は淡々としている。淡々としているほど、世界が狭くなる。


椎名は、泣かなかった。

怒らなかった。

ただ、少しだけ喉を動かして、短く言った。


「……分かりました」


普通の返事だった。

普通すぎて、藍沢は息が詰まった。


――全国トップの選手が、世界を失う宣告を受けて、「分かりました」で終わる。

それがどれほど異常か。

異常を異常として扱った瞬間、椎名の居場所は壊れる。

だから、誰も異常だと言ってはいけない。


椎名が藍沢を見た。

目で言っている。「学校には出しません」と。

話し合ったものの椎名の椎名の意思の硬さに藍沢も保護者も頷くほかなかった。

頷いた瞬間、自分が共犯者になった気がした。


でも、そうしなければ椎名は学校にいられなくなる。来なくなるだろう。

その方が、今は死ぬほど怖い。


「――預かります」


藍沢は言った。

学校に提出しない代わりに、せめて消えない形で残すために。

せめて、誰かが忘れないために。


紙は封筒に入れられた。

その封筒は、学校の記録にはならない。

藍沢の引き出しの奥にだけ残る。


職員室の現実が戻る。


藍沢はいつの間にか、会議資料の端にサインをしていた。

サインの線が、ほんの少しだけ乱れている。

自分の手が震えるほど、いまだに終わっていない。


窓の外、校庭を横切る生徒の影が伸びる。

その影の中に、ひとつだけ細い影が混じって見えた。


椎名凪。


制服は規則通りなのに、輪郭が淡い。

髪は整えられていない。けれど髪そのものは光を拾う。

姿勢は崩れていない。崩れていないのに危うい。

倒れそうではない。倒れないように、重心が固定されている。


“倒れない”のではなく、“倒れられない”。


藍沢は立ち上がった。

用があるからではない。

用がないまま見送ることに、耐えられないだけだ。


職員室を出て廊下に出ると、湿った空気が頬を撫でた。

放課後の匂い。ワックスと汗と、遠くの部活の熱。

校舎は生きている。生きているくせに、痛みに鈍い。


椎名の背中を追う。

追いつける距離だ。

追いつけるのに、声をかけられない。


「椎名、調子はどう?」

軽すぎる。

軽い言葉で触れた瞬間、椎名が必死に整えている世界が崩れる。


「無理はしないように」

正しすぎる。

正しい言葉ほど、椎名は受け取れない。受け取った瞬間、自分の“全部”が否定されるから。


「休んで」

休むための理由を、椎名は出さない。

出せば、案件になる。

案件になれば、噂になる。

噂になれば、プールに居場所はなくなる。


だから、言えない。

言えないまま、見送るしかない。


椎名が曲がり角で足を止めた。

掲示物の前で視線を置き、すぐに動く。

興味がないのではない。

触れないようにしている。

触れた瞬間、自分が崩れるから。


藍沢も足を止めた。


そのとき、耳の奥で白い音が鳴った。

水面が割れる音。音が消える音。骨の内側で鳴る音。


藍沢は、椎名の痛みを不意にしたくはない。

でも、不意にしなければ守れないこともある。

その矛盾の中で、藍沢にできることは少ない。


少ないからこそ、“目”が必要だった。


風紀委員室。

規律の匂いがする場所。

そこで、痛みに鈍い学校の中で、唯一と言っていいほど鋭い目を持つ生徒がいる。

あの目は見えるものをビードロのようによく透かす。


朝霧澪。


あの目なら、気づく。

気づいて、慰めない。

慰めない代わりに、止めるだろう。

しかし、寄り添えるやさしさを持ち合わせている。


救いを求める側はいつまでも救われていないままでいられない。

救いは、間に合ううちでなければ救いとならない。


藍沢は風紀委員室の前で足を止め、ノックをした。

二回。短く。


「どうぞ」


返事は冷たかった。

その冷たさに、わずかに救われる自分がいるのが嫌だった。


扉を開ける。


整然とした紙の音がする。

紙を揃える音、ペンが走る音。

規律の音。


その音の中に、白い音が混じらないことを祈る。

水面が割れる音が、もう二度と鳴らないことを祈る。


祈りは弱い。

弱いからこそ、人事を尽くす必要がある。


藍沢は言葉を飲み込み、ただ部屋の中へ入った。


この放課後に「点」は、またひとつ増えた。

この点が、いつか線になる。

そしていつか線が絵になる。

絵になったとき、どんな絵が描き上がるのか。


藍沢は、机の上の白を見つめた。


紙の匂いが、少しだけ塩素に似ている気がした。

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