第4話 手元

ペンが落ちたのは、本当に偶然だった。


少なくとも、その瞬間まではそう思っていた。


風紀委員室の空気は、いつも同じ温度を保っている。

冷たすぎず、温かすぎず。

誰かの感情が入り込む余地を最初から拒むみたいに、均一だ。


書類を揃える。

角を合わせ、紙の端を指でなぞる。

視線は落としたまま、手元だけを見る。


この作業は好きだ。

決められた動きの中にいれば、余計なことを考えなくて済む。

身体の感覚も、意識の外に追いやれる。


——そのはずだった。


紙の端に引っかけていたボールペンが、わずかに滑った。

机の縁で止まる、と思った。


止まらなかった。


カン、と乾いた音がして、床に落ちる。

音が思ったより大きく響いた。


——あ。


考えるより先に、手が伸びる。


自然な挙動だ。

誰しもがこう反応するだろう。

十分に届く距離。むしろ落とすほうが難しいだろう。


指先が、ペンをはじき、空を掴んだ。


ほんの数センチ。

たったそれだけ。


そのわずかなずれが大きな違和感を呼び込む。


時間がずれた、という感覚がした。

世界の動きに一拍だけ遅れて、

その間に自分の手だけが置き去りにされる。


「あ……」


声が出た。

慌てた声じゃない。

驚いた声でもない。


ただ、現象に対する音。


もう一度、手を伸ばす。

今度は拾える。


——大丈夫。


そう思った瞬間、

視線が、刺さる。


「……今」


朝霧澪の声。


低い。

落ち着いている。

いつも通り。


「わざと落とした?お茶目さんだね」


胸の奥で、何かが一拍遅れて鳴った。

わざと落としたように見えているほうが都合がいいのかもしれない。


「……ちょっと、目測をあやまって」


嘘じゃない。

少なくとも、嘘だと感じない言葉を選んだ。


朝霧は何も言わない。

ただ、こちらの手元を見る。


——見られている。


それ自体は普通だ。

風紀委員室で作業をしていれば、手元を見られることくらいある。


そう自分に言い聞かせながら、

ペンを机に戻し、作業に戻る。


でも、指先に違和感が残る。


痺れじゃない。

痛みでもない。


距離感が、ずれている。


いつもなら問題にならない動作に、

一瞬の“確認”が必要になる。


ペンを握る。

指に力を入れる。

文字を書く。


線は震えない。

字も崩れない。


——ほら、大丈夫。


自分に言い聞かせるように、

もう一度紙を揃える。


「椎名」


名前を呼ばれる。


声が、少し近い。


顔を上げると、

朝霧が立っていた。


机を挟んだ距離が、

昨日よりも、さらに近い。


「ペン、貸してみて」


「……はい」


差し出す。


その瞬間、

朝霧の指先が視界に入る。


白い。

血色が薄いわけじゃない。

ただ、余計な色がない。


触れた。


一瞬。


冷たい、と思った。

でもそれは朝霧の指が冷たいんじゃない。

自分の指先が、妙に熱を持っている。


朝霧はペンを軽く振った。


「インク、問題ないみたいだね」


それだけ言って、返してくる。


「ありがとうございます」


受け取ろうとして——

指先がうまく動かない。


朝霧の指がペンから離れる前に、

掴めなかった。

朝霧がペンを離したタイミングは全く違和感がない。違和感はこっちにある。


ペンが、また落ちる。


今度は、さっきよりはっきりした音。

違和感もさっきよりくっきりと露呈する。


コツン。


音が床に触れた瞬間、

部屋の空気が止まった。


先生はいない。

この部屋には、自分と澪しかいない。


朝霧は、何も言わずにペンを拾った。

動作が速い。

迷いがない。


机の上に置く。

音を立てない。


「無理はしないで、って言ったよね」


声は平坦。

責めてはいない。


「……無理は、してません」


声が、少しだけ強くなる。

強くなったことに気づいて、さらに焦る。


朝霧は灰青の目でこちらを見る。

逃げ場のない色。


「自覚がないなら、

それは“無理”より危ないよ」


喉の奥が、ひりつく。


——違う。

——大丈夫だ。


そう言いたいのに、

言葉が選べない。


朝霧は、それ以上踏み込まない。


ただ、机の向こうに戻る。


「これ、お願い」


今度は書類。


距離は、

昨日より、わずかに遠い。


机を挟まず、

横から。


普通なら、問題にならない距離。


「はい」


手を伸ばす。


——届く。


紙の端を掴む。


一瞬、

指先がいうことを聞かない。


でも、落とすまえにつかむことができた。


「ありがとう」


朝霧はそれ以上何も言わず、

視線をすぐに書類へ戻した。


——気のせい。


そう思おうとして、

胸の奥がざわつく。


数分後。


「椎名」


また呼ばれる。


「このファイル、取れる?」


棚の上段。

立ち上がらなければ届かない位置。


立ち上がる。

歩く。

腕を伸ばす。


——取る。


指先が背表紙に触れる。


滑る。


持ち直す。


「はい」


振り返って差し出す。


朝霧は、

受け取る直前で、ほんの一瞬、手を止めた。


その瞬間、指先の感覚が遠のいた。


掴もうとして、

指が空を切る。


ファイルが傾く。


落ちるほどじゃなかった。

でも、不自然。


「……」


朝霧は何も言わない。


自分でファイルを持ち直す。


「ありがとう」


朝霧が言う。

それだけ。


胸の奥が、

きゅっと縮む。


「大丈夫?」


声音は平坦。

確認でも、心配でもない。


「はい」


即答。


「ちょっと、手が乾燥してただけで」


自分でも、

よく分からない理由を付け足す。


朝霧は頷く。


否定しない。

肯定もしない。


「そう」


それで終わる。


——終わってない。


それが、分かる。


次から次へと、

渡されるものが増える。


ペン。

ホチキス。

付箋。

書類。


状況は、

毎回、微妙に違う。


近すぎず、

遠すぎず。


露骨じゃない。


でも、偶然にしては多すぎる。


——試されている。


その考えが浮かんだ瞬間、

心拍が少しだけ早くなる。


落ち着け。

普通に。


そう言い聞かせながら、

一つ一つ受け取る。


成功。

成功。

成功。


——大丈夫。


そう思った、そのとき。


「これも」


朝霧が、ペンを差し出す。


今までより、

ほんの少しだけ高い位置。


肩が、無意識に上がる。


腕を伸ばす。


——つかめる、はず。


指先が、

ペンの軸に触れる。


でも、

掴めない。


二度。


三度。


「……っ」


小さく、息が漏れる。


慌てて手を引っ込める。


「……ごめん」


笑おうとして、

失敗する。


「今のは……」


言葉が、詰まる。


朝霧は、

まだペンを持ったまま、

こちらを見ている。


灰青の目。


静かで、

逃げ場がない。


「大丈夫」


朝霧が言う。


声は低く、

いつも通り。


「……動かさないでください」


——違う。


そんなことは、

自分が一番分かっている。


「……」


何か言わなきゃいけない。

でも、

言葉を選びすぎて、

何も出てこない。


朝霧は、

ペンを机に置いた。


音を立てずに。


「今日は、もういいよ」


「え」


「ここまで」


拒否しようとした言葉が、

喉の奥で止まる。


理由を聞こうとして、

やめた。


ここで聞いたら、

全部、崩れる気がした。


「……分かりました」


鞄を持つ。


今度は、

落とさない。


でも、

背中に視線が刺さる。


廊下に出た瞬間、

呼吸が浅くなる。


——バレた。


はっきり言われたわけじゃない。

指摘されたわけでもない。


それでも、分かる。


気づかれた。


自分が、

“普通じゃない”こと。


それを、

必死に隠そうとしていること。


手を握る。


力は入る。

問題ない。


なのに、

胸の奥だけが、

どうしようもなく騒がしい。


——まだ、壊れてない。

——まだ、使える。


そう言い聞かせながら、

廊下を歩く。


夕方の光が、

床に長い影を作る。


影の中で、

自分の身体が、

思ったよりずっと細く見えた。

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