第6話 正式

放課後の校舎は、昼間よりも影が濃い。


窓から差し込む光は斜めで、廊下の床に長方形の白を落としている。そこだけ時間が止まったみたいに明るい。反対側の壁は暗く、掲示板の紙面が青黒く沈んで見える。人の声が減ると、学校は静かになるのではなく、別の音が目立ち始める。遠くの体育館の床を叩く音、吹奏楽のチューニングの揺れ、誰かがロッカーを閉める鈍い衝撃。全部が一本ずつ、切れ目なく耳に入ってくる。


風紀委員室の前で、足が止まった。


扉の向こうは、静かすぎて落ち着かない。整頓された部屋の空気は、目に見えないのに輪郭がある。余計なものを拒む硬さがある。ノックの回数すら規則に合わせないと怒られそうな、そんな錯覚。


二回。短く。


「どうぞ」


返事は低い。通る声。扉を開けると、冷えた紙の匂いと、乾いたインクの匂いが混ざって鼻を刺した。


長机が二列。椅子はすべて机の下に揃えられ、座面の角度まで同じように見える。掲示物は歪みなく貼られ、紙端は浮かないように押さえられている。床に埃はなく、窓のサッシも拭かれている。教室というより、監視室に近い。


窓際の机に、朝霧澪が立っていた。


銀色がかった短い髪は、夕方の光を受けて淡く縁取られている。髪型は無造作に見えるのに、乱れている部分が一つもない。首筋のラインがくっきりしていて、姿勢に隙がない。猫のように大きい二重の目は、瞬きを最小限に抑えたままこちらを捉える。虹彩は冷たい色だ。青に近い灰色――光の加減で、氷みたいに見える。


「来たね」


机の上の書類から目を離さず、朝霧が言った。


「うん」


はじめての巡回から数日がすぎた。朝霧との間の敬語は外れた。

声の調子はいつも通りに整えた。喉に引っかかりはない。そういう細部まで、今日はやけに意識してしまう。


机の端に、新しい名簿が置かれていた。紙の白が真新しい。印刷された項目の欄外に、手書きで一行だけ追加されている。


椎名 凪。


朝霧の指先が名簿のその部分を軽く押さえた。爪は短く、磨かれている。指の動きだけで、几帳面さが分かる。


「今日から正式参加だね」


淡々としていて、飾りがない。


「補助じゃない。業務も責任も同じ。指示待ちじゃなくて、状況判断も含む、がんばって」


「分った」


その返事に嘘はない。嘘ではないが、胸の内側に小さな棘が立った。正式、という言葉は便利だ。人を縛るのに。


朝霧は一瞬だけ視線を上げた。目が合う。そこだけ空気が薄くなる。


「無理はしないでね」


言葉は短い。声は抑えてある。周囲に届かない程度。だが、意図だけがまっすぐ刺さる。


返事はしない。できない。返事をした瞬間、理由を求められる。理由を口にした瞬間、隠してきたものが崩れる。だから、ただ頷く。頷き方だけを自然にする。


朝霧はそれ以上は言わなかった。言わない代わりに、視線を外さず、こちらの立ち位置や呼吸の間を測っている。そういう人間だ、と分かっている。


――扉が開く。


「お、揃ってる」


入ってきたのは一ノ瀬透だった。


背が高い。細身というより、無駄のない体格。制服の着方が教科書通りで、シャツの皺がない。ネクタイは結び目が小さく、位置も正確。髪は黒く短く整えられていて、耳にかからない。前髪も邪魔にならないように切られている。爪も短い。靴も磨かれている。


一見すると、非の打ちどころがない。教師が安心して任せられる顔だ。笑うときの口角の上げ方まで、柔らかい。けれど目だけが違う。人を見る目というより、状況を数える目。人員、時間、効率。そういうものを瞬時に並べ替えている目。


「今日から正式だっけ、椎名、第一ははじめてか~、よろしくね」


「はい。よろしくお願いします」


「よろしく。助かるよ」


一ノ瀬はさらりと言って、机の上に書類の束を置いた。置き方まで丁寧で、音がしない。こういうところが教師ウケする。隙がないと、安心される。


「先生にはもう話してある。今日から普通に回していいってさ」


“先生には話してある”。その一言で、背中に鍵がかかった気がした。逃げ道を塞ぐのが上手い。


朝霧が言う。


「今日は二年の人数が揃ってます。巡回は通常でいいと思いますけど」


一ノ瀬は笑う。柔らかいまま。


「いや、今日は多めに見たい。放課後は部活の移動でごちゃつくし、新入部員の出入りも多い。何もない日にこそ、締めておかないと」


正論。誰も反論しにくい正論。教師の前で言えば褒められるやつ。


一ノ瀬の視線がこちらに向く。


「椎名、大丈夫?」


その聞き方は、いつもそうだ。命令じゃない。確認の形をしている。だが、断った瞬間に空気が変わるタイプの確認。


「はい」


短く返す。声の高さを揃える。表情を崩さない。ここで迷いを見せると、余計なことを聞かれる。聞かれることが増えると、隠す手間が増える。


「助かる。補助のときも、問題なかったようだし」


“問題なかった”。褒め言葉の形をした拘束具。


朝霧がこちらを見る。目の奥が僅かに細くなる。止めない。止められない。止めたところで、説明が必要になる。


一ノ瀬は手早く割り振り表を取り出した。


「今日は二人一組。朝霧はこっち。椎名は一年と組んで一階中心。動線見て、声かけは最低限。記録は戻ってからまとめればいい」


“最低限”という言葉が、逆に重い。最低限のはずなのに、最低限で回すための負荷は現場に落ちる。現場にいる人間が帳尻を合わせる。そういう仕組み。


「じゃ、行ってきて」


一ノ瀬は椅子に腰掛けた。机上の書類に目を落とす。現場に出る気配はない。やるべきことは「管理」なのだろう。現場が多少苦しくても、結果さえ整えばいい。


廊下に出ると、空気が少しだけ温かい。部活帰りの生徒の熱が残っている。消毒液の匂いと、汗の匂いが混じっている。遠くで誰かが笑う声がした。日常の音だ。ここで異常を出したら、異物は自分の方になる。


一年生が隣に並ぶ。背丈はまだ伸びきっていない。制服の着方も少し崩れていて、襟元が浮いている。緊張しているのか、歩幅が妙に小さい。


「椎名先輩、今日はよろしくお願いします」


「よろしく」


自然に返す。敬語の壁を作りすぎないように。距離が遠いと会話が増える。会話が増えると、余計なところを見られる。


一階に向かう。階段の手すりには触れない。触れないほうが普通に見える。触れたほうが楽でも、楽を選ぶ理由がない。ほんの僅かな段差でさえ、重心を意識して降りる。足裏の感覚を確かめるように。そこまでやっても、顔には出さない。目線は前、呼吸は一定。


一階の廊下は賑やかだった。運動部が水筒を振り、文化部がケースを抱え、帰宅組がだらだらと歩いている。制服のボタンが開いている者、スカート丈をいじっている者、スマホを覗き込んでいる者。注意はできる。だが、注意をすること自体が目的ではない。必要なのは、事故を起こさせないことだ。


「そこ、走らない」


低い声で言う。走っていた男子が振り返り、軽く頭を下げて速度を落とす。怒鳴らない。怒鳴ると、余計な視線が集まる。視線が集まると、こちらが見られる。


一年生が小声で言う。


「先輩、声、通りますね」


「普通」


笑いはしない。笑うと余計な表情が出る。余計な表情は、余計な心配を呼ぶ。


巡回は淡々と続いた。注意が必要な案件はない。だからこそ、余計な緊張が残る。何も起きないのに、ずっと身構えている状態は疲れる。だが疲れた顔は出せない。疲れた顔を出すと、理由を聞かれる。


一年生が先に曲がり角を見に行こうとする。自然な動きだ。前に出る必要がある場面がある。だが、それは役割ではなく、判断で動いているだけに見せる。


「そのまま一周して。戻るとき合流でいい」


一言で済ませる。余計な会話を増やさない。命令口調にならない程度の短さ。


「はい!」


一年生は素直に走っていく。走らない、とは言わない。言えば面倒が増える。こちらが走らない理由を見せなければならないから。


巡回を終えて戻る廊下は、さっきよりも人が減っていた。窓の外が少し暗い。夕方の色が青ににじり寄っている。職員室の方からプリンターの音が聞こえた。あの音は、誰かの仕事が終わっていない証拠だ。


風紀委員室に戻ると、一ノ瀬が顔を上げた。


「どうだった?」


「特に問題ありません」


事実だけを言う。余計な感想は要らない。


「さすが。椎名はほんと助かる」


一ノ瀬の笑顔は柔らかいままだ。柔らかいまま、こちらを固定する。役割を貼り付ける。助かる、という言葉は便利だ。断る側を罪悪感で縛るのに。


朝霧は書類を整理しながら、視線を上げない。こちらを見ないわけではない。見ている。だが見ていることを表に出さない。余計な空気を作らないためだ。そういう配慮ができるのに、優しくはない。優しさと配慮は別だ、と澪は知っている。


一ノ瀬が机の端の箱を指した。


「これ、倉庫に戻してもらえる?」


段ボール箱。ガムテープで補強されている。中身は部活の備品だろう。軽そうに見えるが、底がしっかりしている。重いものが入っているようだ。そこが破れてしまわないようにだろう。


「本当は二人で運ぶやつだけど、今人いなくてさ」


一ノ瀬は困ったように眉を下げる。困っているように見せるのが上手い。教師にも同じ顔をするのだろう。教師はそれを「責任感」と呼ぶ。


「椎名、手が空いてるよね?やってくれると助かるんだけど」


助かる。ここでもその言葉。逃げ道を塞ぐ言葉。


断ればいい。

断る理由はある。

だが言えない。言った瞬間、理由が必要になる。理由を言った瞬間、隠してきたものが崩れる。


「分かりました」


箱に手をかける。持ち上げる。腕にじわりと重さが乗る。だが、顔色は変えない。持てる。持てる範囲だ。少なくとも、まだ。


一ノ瀬はもう興味がなさそうに書類へ戻った。「頼んだね」の一言もない。こちらが動くのは当然、という顔。


箱を抱えて廊下へ出る。


その瞬間、背中に視線を感じた。振り返らない。だが分かる。澪の目だ。


「……重い?」


澪の声が背後から刺さる。低い。短い。他の誰にも届かない。


「……大丈夫」


言葉は軽く、呼吸は乱さず。ここで迷いを見せると、澪は止めにかかる。止めにかかれば、言い訳が必要になる。言い訳の材料は持っていない。


朝霧は言わない。止めない。

ただ、視線だけが外れない。


倉庫へ向かう廊下は長い。窓が少なく、空気が少しだけ湿っている。古いワックスの匂いがする。箱の角が腕に当たる。位置を少し変える。ほんの数ミリずらすだけで楽になる。だが、その“楽”を選ぶ動作に、わずかな慎重さが必要になる。


慎重さを、見せない。


倉庫の前に着く。鍵はかかっていない。開ける。中は薄暗く、埃っぽい。体育祭の道具、古いマット、部活の備品。雑多なのに、管理されている。学校はこういうものを捨てない。捨てないから、増える。増えるから、運ぶ人間が必要になる。運ぶ人間は、断らないから選ばれる。


箱を下ろす。

床に置く音を小さくする。乱暴に置いたと思われたくない。乱暴に置いたと思われたら、次はもっと丁寧にしなければならなくなる。丁寧にするほど、負荷は増える。


ふと、腕の内側がじんと痺れる。持ち直せ、という身体の信号。痺れは見せない。息を整え、扉を閉める。


戻りの廊下。さっきより暗い。窓の外の空が群青に近い。どこかで放送部の片付けの声。笑い声。普通の夕方。


普通の夕方の中で、ひとつだけ確かなことがある。


正式参加という言葉は、役割を与えるための言葉ではない。

役割を固定するための言葉だ。


問題を起こさない。

任せられる。


その二つを貼られた瞬間から、断れなくなる。

断れないまま、少しずつ削れていく。


風紀委員室の扉が見える。

その前で足を止めずに、入る。


朝霧は机の上の書類を整えていた。

一ノ瀬は電話のメモを書いている。

どちらもこちらを「遅い」とは言わない。


それが一番怖い。


遅くない。問題ない。任せられる。

そういう扱いのまま、次の仕事が来る。


今日が始まりで、明日も続く。

続くことを前提に、すでに回り始めている。


朝霧だけが、こちらを見ていた。

見て、何も言わない。

何も言わないまま、目だけで「続ける気か」と問いかける。


問いかけに答えない。

答えた瞬間、何かが崩れる。


だから、ただ――


「お疲れ。じゃ、次これ」


一ノ瀬の声が入る。柔らかい。逃げ道のない柔らかさ。


机の端に、新しい紙束が置かれた。

受け取る手が伸びる。伸びること自体は、普通だ。普通に見せる。


朝霧の視線が、指先に落ちた。

一瞬だけ、眉が動いた。

すぐに戻る。


その小さな動きだけが、この部屋で唯一の警告だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る