第5話 巡回
風紀委員室の時計は、音が小さい。
秒針が進んでいるのに、部屋の静けさが勝つ。だから、ふとした瞬間に「止まっていたのか」と錯覚する。
書類の端を揃え、ホチキスの針の残量を確かめ、最後にファイルの背表紙を棚に戻す。整頓というより、落ち着くための儀式に近い。紙の匂い、糊の乾いた匂い、金属の冷たさ。ここではそれらがやけに輪郭を持って迫ってくる。
「……終わった?」
朝霧澪が言った。机の向こう。椅子に深くも浅くもない、ちょうどいい座り方で座っている。姿勢がいいというより、姿勢が崩れない。最初から「崩れない形」で生きている人間のようだ。
「……はい」
声は、いつも通りに出る。
自分の声を自分で聞いて、違和感がないことに少しだけ安心する。
朝霧は頷いた。まつ毛がゆっくり落ち、上がる。瞳は淡い灰青で、光の角度によって硝子みたいに薄く見える。冷たい色のはずなのに、見られていて怖いというより、誤魔化しが効かないという感覚だけが残る。
「じゃあ、校内一周しよっか」
「……巡回ですか」
「そう。今日は記録もいらない。ルートを覚えるだけで」
命令という感じでもない。提示された事実を受け取るだけの空気。
「分かりました」
返事をしてから立ち上がるまでが、ほんの少しぎこちない。それを自覚した瞬間、余計に身体が硬くなる。こういう小さな遅れが、朝霧には「点」として残る気がする。
朝霧は鍵束を手に取った。鍵同士が触れて、短い音がする。その音だけで、扉やロッカーや保管庫の位置が頭に入っている人間だと分かる。
「上から回って、廊下→二階→中庭→戻ってくる」
「……はい」
「歩くの、速い方?」
「……普通だと思います」
「思う、ね」
朝霧はそれ以上突っ込まない。ただ、笑いもしない。目だけが静かに動く。言葉を受け取るのではなく、言葉の周辺の揺れを拾っているような目。
風紀委員室を出ると、廊下は夕方の匂いがした。ワックスと、少し湿った空気と、遠くの運動部の掛け声。窓の外は薄い橙色で、ガラスに反射した光が床に細い帯を作っている。
朝霧は半歩前を歩きはじめた。
半歩。近すぎないし、遠すぎない。こちらが速くなれば速くなるし、遅くなれば遅くなる。合わせられている、と気づいた瞬間、胸の奥がざわつく。
合わせる、という行為は、気遣いに見える。
でも朝霧がやると、気遣いより先に「管理」に見える。道具箱の中身を揃えるみたいに、人との距離を整える。やさしさというより、最適化。
階段の前で朝霧が止まった。
「上から行くね。見るものが多いから」
「……分かりました」
一段目に足を置く。足裏に硬い感触。
二段、三段。
——大丈夫。
心の中でだけ、確認する。
手すりには触れない。触れないことが「自然」になってしまっている。
頼るという動作は、いつからか面倒になった。頼ると、その分、何かを返さなければいけない気がする。
朝霧は視線を前に置いたまま、こちらの足音だけを聞いているようだった。振り返らないのに、状況を把握している。そういう人間がいることを、今まで知らなかった。
二階に上がり切ったところで、朝霧が少しだけ歩幅を緩めた。
「息、上がってない?」
唐突で、意味が分からず、一瞬だけ反応が遅れる。
「え、あ……はい。大丈夫です」
朝霧はそれ以上言わない。なのに、歩幅がまた少しだけこちらに寄る。
寄る、というより、ずれないように戻す。
二階の廊下は窓が多く、夕日が強い。床に落ちる光が眩しくて、目が反射的に細くなる。朝霧は少しだけカーテンの端を引いた。音を立てずに、必要な分だけ。
「この時間、ここは眩しいの。目が痛くなる人もいるんだよ」
「……そうなんですね」
「痛くなった人は、歩幅が変わるの、まぶしいから足元がちゃんと見れなくて不安でね」
朝霧が淡々と言う。
それが一般論なのか、観察の結果なのかは分からない。分からないのに、なぜか「自分に向けた言葉」に聞こえる。
教室の前を通り過ぎるとき、扉が少し開いていた。中から声が漏れる。
「失礼します」
朝霧が一歩だけ中を覗き、すぐ戻る。
「問題なし。帰りのHR残り」
「……はい」
それだけのやりとり。
なのに、朝霧の動きは迷いがない。どこに何があるか、誰がどこにいるか、全部が頭の中に地図としてあるみたいだった。
「風紀委員って……大変ですね」
言ってから、余計なことを言ったと思う。話題を作るための言葉だったから。沈黙が怖いわけじゃない。ただ、沈黙が続くと、自分の呼吸の浅さや、足の置き方の慎重さが、過剰に自覚される。
朝霧は少しだけ視線をこちらに寄せた。
「大変っていうより、面倒」
「……面倒」
「人が見られたくないものを見る仕事だから。自分も見られる」
朝霧は自分の髪を気にしない。銀色の髪は夕日に当たって、薄い金属みたいに光る。色素が薄いというより、最初から「そういう色」で完成している。羨ましいと思ってしまったことに少しだけ腹が立つ。
「……椎名は、人に見られるの苦手?」
朝霧が言った。
質問が露骨じゃないのに、息が止まる。
人に見られるのが苦手、という言葉の範囲が広すぎる。顔の話か、性格の話か、身体の話か。どれを答えても、どれかに触れそうになる。
「普通だと思います」
自分で言って、曖昧さに嫌になる。
朝霧は頷いた。
「“普通”って言う人は、たいてい普通じゃないんだよ」
揶揄じゃない。断定でもない。
ただの経験則みたいに置かれた言葉。
心臓が一拍だけ強く鳴る。
「……そうですか」
「そう」
朝霧はそれ以上言わない。
でも、その会話の端は、床に落ちた針みたいに刺さって残る。
階段を下りるとき、澪はわざとこちらより一段先に降りた。先に降りると、自然と自分の足元が見やすくなる。見やすくなるだけで、転ぶ確率が下がる。そういう位置取り。
助けない。支えない。
でも、落ちないように配置を変える。
——気づかれている。
気づかれているのに、指摘されない。
その状態が、最も落ち着かない。
一階に降りると、廊下の奥から生徒が一人走ってきた。遅刻ではなく、部活の忘れ物だろう。リュックの紐が片方だけ肩から落ちかけている。
「すみません!」
生徒が朝霧に頭を下げる。
朝霧は視線を横に滑らせただけで、声を荒げない。
「走らないで。廊下は」
「はい!」
生徒は減速して去っていく。
そのやりとりが、妙に自然だった。朝霧の注意はきつくない。なのに、逆らう余地がない。言葉が短いからじゃない。声が落ち着いているからでもない。そこに、揺らぎがないからだ。
「……朝霧さんの言うことって、みんな聞くんですね」
「聞いてるんじゃなくて、聞かせてるだけ」
「……怖い」
本音が漏れた。しまったと思ったが、澪は気にしない。
「怖がらせるつもりはないんだよ。必要な範囲で動かしてるだけだから」
そういって朝霧は笑う。
動かす。
人を「動かす」という言い方が、朝霧に似合いすぎている。
中庭に出る扉の前で朝霧が止まった。
「外、回ろっか。今日は風が弱いから」
「……はい」
扉を開けるのは朝霧だった。重い扉が静かに動く。力任せではない。必要なだけ押す。扉が立てる音すら制御している。
外気が頬に触れる。少し冷たい。少しだけ湿り気がある。
夕方の中庭は広い。空が低く見える。校舎の影が地面に伸びて、どこが境界なのか分からなくなる。
「ここ、段差あるよ」
朝霧が言った。指で示すでもなく、ただ言う。
足元を見る。確かに小さな段差。視界に入っている。問題ない——はず。
一歩。
足が、ほんのわずか感覚とずれる。
躓くほどじゃない。
でも「ずれた」という感覚だけが、身体の奥に残る。
朝霧は振り返らない。手も伸ばさない。
ただ、歩みを止める。
待たれている。
待たれているという事実が、胸に刺さる。
待つよりも、待たれる方がきつい。待たれると、自分のミスが確定してしまうから。
「……大丈夫です」
言うと同時に、歩き出す。遅れを取り返すように少しだけ速く。
「急がないでいいから」
朝霧が言う。声は平坦。
「急ぐと余計にひどくなるよ」
その言葉の意味が、すぐに分かってしまうのが嫌だった。
“ひどくなる”のが何か、こちらは知っている。知っているから、動揺する。
「……分かりました」
「分かりました、って言うときはたいてい分かってないの」
朝霧が淡々と言う。
「……」
返す言葉がない。
否定もできない。肯定もできない。
中庭の端、ベンチの近くを通る。
ベンチに座っているのは三年生だろうか。二人。話しているだけで、こちらを見もしない。校内には、こういう“世界が違う人間”が普通にいる。
朝霧はその横を、気配を薄くして通り過ぎる。
人の世界に干渉しない。必要がない限り。干渉しなければ、干渉されない。そういう生き方。
「……椎名」
朝霧が名前を呼んだ。
「はい」
「今、段差が見えてた?」
「見えてました」
「なら、なんで躓いちゃったの?」
胸が冷たくなる。
露骨に聞くのはおかしい、と自分でも思う。朝霧は露骨には聞ける人間なのかもしれない。
答えがない。
答えると、何かが始まってしまう。
「……ちょっと、考え事してて」
絞り出した言い訳。自分で言って、薄いと分かる。
朝霧は「そう」とも「違う」とも言わなかった。
ただ、歩き出す。半歩前。歩幅はさっきより少し小さい。
合わせられている。
また。
「……朝霧さん」
名前を呼んでしまう。呼びたくなかった。呼んだら、何かを要求することになる気がしたから。
朝霧が視線だけ寄せる。
「何?」
「……なんでもないです」
自分で言って、情けなくなる。
朝霧はそれでも苛立たない。笑いもしない。こういう空回りを、最初から織り込み済みにしているみたいだった。
校舎に戻る。扉をくぐると空気が変わる。さっきより少し温かい。
その差が、妙に現実感を強める。
「明日も巡回するよ」
朝霧が言った。
「……はい」
「同じ時間で」
「分かりました」
廊下を戻る途中、朝霧がロッカーの前で一瞬止まった。鍵束が鳴る。
そして朝霧は、なぜかそこから小さな消毒用のウェットティッシュを一枚だけ取った。
「これ、使う?」
差し出される。
距離は絶妙だった。
近すぎず、遠すぎず。昨日の「試し」ほど意図が見える距離ではない。でも、自然に手を出すと、指先が少しだけ緊張する距離。
「……大丈夫です」
そう答えてしまう。
断る理由はないのに、断った。
受け取ったら、何かを認めることになる気がした。
朝霧は肩をすくめもしない。ただ、そのまま自分でティッシュを畳んでポケットに入れる。
拒絶された、という顔をしない。拒絶として受け取らない。ここでも干渉しない。
風紀委員室の前まで戻る。
「今日は終わり」
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
短い。
鍵を開ける音。扉が開く音。
部屋の中の静けさが、また戻ってくる。
机の上の紙を片付けながら、朝霧が何気ない調子で言う。
「椎名、帰り一人?」
「……はい」
「途中まで一緒にいく」
それは提案でも優しさでもなく、決定事項みたいに置かれる。
――大丈夫です
反射で言いそうになって、寸前で止めた。
大丈夫、と言えば言うほど、大丈夫ではないものが浮かび上がる。
「……お願いします」
自分で言って、驚く。
言えたことよりも、言ってしまったことに驚く。
朝霧は頷いた。
「了解」
それだけ。
二人で廊下を出る。
校舎の出口までの距離が、今日一番短く感じた。距離が縮まったわけじゃない。歩幅が揃っているから、時間が切り詰められる。
出口の手前で、朝霧が立ち止まる。
「明日、同じ時間に風紀委員室ね、第二だから、いつもの場所だからわかると思うけど、第一は正規の風紀委員の人が使ってるから」
「はい」
「今日は、ここまで」
言葉の区切りが、やけに綺麗だった。
「ここまで」という語尾が、線を引くみたいに響く。
その線が自分を守る線なのか、自分を逃がさない線なのか、まだ分からない。
外に出ると、空はもう暗くなりかけていた。
風が頬を撫で、遠くで自転車のブレーキが鳴る。
朝霧は少しだけ横を見て、言った。
「……段差、気をつけて」
「分かってます」
思ったより強く言ってしまう。
焦りが声に混ざる。
朝霧は気にしない。
「ただの何気ない会話だよ」
淡々と、笑って、それだけ言う。
朝霧が校舎に戻る。
銀髪が街灯の下で一瞬だけ白く光って、影に溶けた。
一人になると、足が少し重くなる。
身体が重いのではなく、意識が重い。
自分の一歩一歩が、さっきより大きな音を立てている気がする。
手を見下ろす。指は細い。爪も短い。
何も壊れていない。
そう言い聞かせるのに、言い聞かせる必要がある時点で、もう答えが出ている。
——点が増えた。
今日もまた。
それは痛みの点じゃない。
弱さの点でもない。
見られた、という点。
そして、見られても逃げられなかった、という点。
帰り道、ふと、風紀委員室の床に落ちた夕日の四角形を思い出す。
あの中だけ時間が違うように感じたのは、気のせいじゃない。
多分、あそこでは、
自分が「隠しているもの」が、
少しだけ輪郭を持つ。
朝霧の灰青の目が、それを線にしようとしているのか。
それとも、線にしないまま抱えられる形を探しているのか。
まだ分からない。
ただ一つ分かっているのは、
明日も自分はあの部屋に行く、ということだった。
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