第2話 風紀委員室
扉が閉まる音は、思ったより小さかった。
廊下の反響が切り落とされて、世界の音量が一段下がる。
その瞬間、空気の匂いが分かった。
消毒液のツンとした匂いと、紙の乾いた匂い。
新品の匂いではない。人が使って、積み上げて、拭いて、また使った部屋の匂いだ。
風紀委員室は狭い。
狭いのに、圧迫感はない。むしろ、余計なものが削ぎ落とされていて、空間が軽い。
机が二つ、向かい合わせに置かれている。
片方の机にはファイルがきっちり積まれ、背表紙の色が揃っている。
もう片方は作業用で、角の擦れた透明な下敷きが敷かれていた。
壁際の書架には規則集や過去の報告書が並び、ロッカーの扉には色褪せた注意文が数枚貼られている。
「廊下は走らない」「制服の着崩し注意」——学校中に貼られていそうな文面なのに、この部屋では妙に“命令”として存在している気がした。
窓は一つだけ。
カーテンが半分閉じられていて、夕方の光が斜めに差し込んでいる。
床の上に、細長い四角形の光ができていた。
光の中と外で、温度が違うように感じる。
その境界線が、まるでこの部屋のルールみたいにくっきりしている。
「……失礼します」
先生の声に続いて、自分も頭を下げた。
頭を上げた瞬間、視界に入ってきた“色”が、少しだけ現実味を奪った。
銀色の髪。
白ではない。
純粋な金属でもない。
夕焼けの橙が混ざって、柔らかい灰色に見える部分と、光を拾って淡い金の筋が走る部分がある。
短く整えられた髪が首筋に沿って落ち、毛先だけがわずかに跳ねている。無造作に見えるのに、乱れていない。
乱れていない、というより——乱れが許されていない。
椅子に座っていた少女が、ゆっくり顔を上げる。
顔は小さい。頬の線はすっきりしているのに痩せた荒さがなく、鼻筋は細く通って横顔の輪郭が滑らかだ。
目が合った。
大きな二重。
猫みたいな目、と思った。丸くはない。切れ長なのに瞳が大きい。
視線が細い刃みたいに真っ直ぐで、逸らしてくれない。
色は淡い灰青で、透明感があるのに冷たい。
硝子の向こうの空みたいな色。覗き込めそうで、手を入れた瞬間に切れる。
——怖い、とは違う。
ただ、誤魔化しが通じない目だと思った。
視線を外したのは、こっちだった。
見続けると、何かを問われる気がした。
問われて答えられないものが、自分の中にあるのを知っている。
彼女の制服は完璧だった。
襟の角度、ネクタイの位置、スカートの折り目。
きちんと整っているというより、整っていない状態が想像できない。
姿勢も同じ。背筋が伸びているのに、力んでいない。椅子に座っているのに、いつでも立ち上がれる。
その整いは、顔、制服だけで終わらない。立ち上がったとき、まず背の高さに目が行く。椎名と並べば同じくらい——わずかに、相手の方が上に見える。制服や服の布が静かに落ちるせいで、輪郭の端正さが隠れない。派手に主張する起伏はなく、余計なものが削がれているぶん、線だけがきれいに残る。脚は長く細く、歩けば重心がぶれず、動きに無駄がない。肌の白さも同じで、作った白ではなく、均一で、影の落ち方まで整って見える——触れれば冷たそうなのに、血色だけはちゃんと生きている。
美しい、という言葉が来る前に、こちらの姿勢が勝手に正される。
この人がそこにいるだけで、空気の形が変わる。そういう綺麗さだった。
「今日から、風紀委員の補助として入ってもらうわ。朝霧さん、よろしくね」
先生が言う。
朝霧——その名前が、銀色の髪に妙に似合った。
本人は、名前の響きに一切の感情を載せない。
「よろしく」
短い挨拶。
声は澄んでいて少し低い。丁寧でも砕けてもいない。
相手に届く最短距離の音だけでできている。
「……よろしくお願いします。椎名凪です」
名乗る。
声はいつも通りに出た。
自分の声を自分で聞いて、「普通」を確認する癖が抜けない。
朝霧は頷く。
頷くのに、歓迎の空気はない。拒絶もない。
“了解した”だけの動き。
「
指示は、言葉より先に空気で来た。
椅子を視線で示すだけ。
でも拒否という概念が生まれない強さがある。
椅子を引く音が、この部屋だとやけに響く。
床の上の光の四角形が揺れて、すぐ元に戻った。
腰を下ろす。
椅子が少し高い。足裏が床に完全につかない。
背もたれに寄りかかるのはやめて、浅く座る。
いつもの選択。体を預ける動作が、いつからか怖い。
朝霧は一瞬だけこちらの座り方を見た。
見た、というより——拾った。
目に入った情報を、そのまま持っていく感じ。
「放課後、どれくらい来られる?」
事務的な質問。
でも、この部屋でその言葉を聞くと、生活の輪郭を剥がされる感じがする。
「特に予定がないので……問題なければ毎日でも」
言ってから少しだけ遅れて、予定がないことを口にしたのが恥ずかしいと思った。
恥ずかしいと思ったこと自体が、今さらだ。特に気にすることはない。
朝霧はその恥ずかしさを拾わない。
「部活は?」
「やってません」
「前は?」
一拍。
瞬き一回分。
「……水泳部でした」
先生の気配が一瞬だけ固くなるのが分かった。
先生は知っている。
この話題が、どこに繋がるか。
「一年のとき?」
「はい」
「なんでやめたの?」
声は淡々としている。
でも質問が真っ直ぐすぎて、一瞬呼吸が浅くなる。
「怪我です」
それだけ。
朝霧の視線が、ほんの一瞬だけ首元に落ちた。
気のせいだと思うには、正確すぎた。
見たのは皮膚じゃない。骨のあたり。可動域のあたり。
そんな視線だった。
先生が口を挟むか迷った気配がした。
でも挟まない。
挟まないことで、何かを守ろうとしているのが分かる。
「体調面で配慮が必要なことはある?」
続く質問は、完全に事務的だった。
だから答える。普通に答える。
「特には」
「重い物とか」
「大丈夫です」
「長時間の立ち仕事は」
「問題ありません」
答えが全部“肯定”になる。
否定しないことで、話が進まない。進まなければ、掘られない。
そういう計算が、もう反射になっている。
朝霧は頷く。
納得した頷きじゃない。
“記録した”頷き。
「無理はしないようにしてね」
その一言だけ、少しだけ間があった。
優しさの間じゃない。確認の間。
「はい」
朝霧は机の引き出しを開け、書類を数枚取り出した。
引き出しの開け方が静かだ。
力を使わない。必要な分だけ動かして、必要な分だけ閉める。
「今日はこれ。分類はここに書いてあるから。分からなかったら聞いてね」
紙がこちらに滑ってくる。
紙の角が机の端を擦って、小さく音を立てた。
受け取る。
指先に紙のざらつきが伝わる。
問題ない。
——そう言い切りたいのに、心のどこかが警戒している。
朝霧は、こちらを見ずに言った。
「なにか質問はある?」
「……今のところは」
それで会話が切れる。
時計の秒針の音。
ペンが紙を擦る音。
遠くの部活の掛け声。
それらがきれいに整理されて、部屋の中に並ぶ。
作業を始める。
紙を揃える。日付順に並べる。
視線を落とし、手元だけを見る。
それなのに、
時々、視線を感じる。
じっと見られているわけじゃない。
断続的に、確認するみたいに、こちらに目が向く。
監視じゃなくて観察。
観察という言葉が、妙にしっくりくる。
——気にしすぎだ。
そう思うのに、気になる。
この部屋では、取り繕いが効きにくい気がした。
床の四角い光が、少しずつ伸びていく。
その伸び方まで、規則的で落ち着かない。
朝霧がペンを持つ手元だけが、静かに動いている。
無駄のない指。短い爪。
そこに余計な感情は混ざらない。
その手が、いつか自分に触れる可能性を考えてしまって、
考えてしまったことに、少しだけ腹が立った。
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