点描

水無瀬

凪と澪

第1話 努力とは


『努力とは美談であり、免罪符である。

努力を口にする者たちは例外なく自分に酔い、

報われなかった現実を「過程」の一言で葬り去る。

彼らは努力という二文字さえ掲げれば、

才能の差も運の偏りも、全て存在しなかったことにしてみせる。


彼らにとって汗は尊く、失敗は成長であり、

結果が出ないことすら「意味のある遠回り」なのだ。


ならば問おう。

努力しても何も得られなかった人間は、

一体何を糧に生きろと言うのか。


だが彼らは答えない。

答えられないのではない。

答える気がないのだ。

自分たちの世界が壊れるから。


全ては成功者の後付けであり、

生き残った側の論理でしかない。


結論を述べよう。

努力を振りかざし他者を切り捨てる優等生諸君、

その綺麗事が通用する世界ごと、崩れてしまえ。』


——放課後の職員室は、昼間よりも輪郭がはっきりしている。


人の気配が減ると、音が際立つ。

プリンターの低い唸り。

紙が擦れる乾いた摩擦音。

誰かのマグカップが机に置かれる鈍い音。


窓の外からは、遠い運動部の掛け声が途切れ途切れに届いてくる。

夕方の光が、机の上の書類の白をやけに白く見せた。


その白の中心に、一枚だけ、異物がある。


白いA4のレポート用紙。

学校指定。罫線なし。

紙の端を指で押さえると、薄い紙がわずかにたわむ。


右上の欄に、整った文字。


二年四組 椎名しいな なぎ


黒の油性ボールペン。

筆圧は強くない。

かすれも、迷いも、震えもない。

内容がここまで攻撃的なのに、線だけが冷静すぎる。


私は紙から目を上げた。


机の前に立つ凪は、こちらを見ていた。

見ているのに、距離がある。

“見られている”感じがしない。


長い黒髪が肩にかかっている。

光を受けると、墨を薄く溶いたみたいに艶が出る。

本来は綺麗な髪質だ。櫛を通せば素直に落ち着くはずなのに、今はその手間が省かれている。

前髪が目にかかり、視線の芯を曖昧にする。

寝癖があるわけではない。けれど、完璧に整える気もない——そんな中途半端さが、かえって近寄りがたさを作っていた。


顔は小さい。

頬に余分な肉がなく、頬骨のラインが薄く浮く。

顎はシャープで、横顔がやけに整っている。

よく通った鼻筋がそう印象付ける。

肌は白い。病的な白さではなく、陶器みたいな均一さ。

吹き出物も、荒れもない。

血色だけが薄い。口紅を落としたみたいに、唇の色が淡い。しかし、確かな潤いがある。

目の下に、ほんの少し影がある。泣いたわけでも寝不足を誇示しているわけでもない、ただ“抜けていく”影。


目は大きいわけじゃない。

けれどまつ毛が長く、伏せ目の時間が長いせいで、視線を上げた瞬間に妙に目を引く。

瞳の黒が深い。どこを見ているか分かるのに、何を見ているか分からない種類の黒だ。


そして何より——身体が細い。


制服は規則通りに着ている。

首元も乱れていない。

それなのに、布が身体に「乗っている」感じがしない。

肩が薄く、シャツの肩線が少し余って見える。

腕が細い。袖口から覗く手首が、驚くほど華奢で、骨が透ける。

指も細く、長い。爪は短く整えられている。

生活の粗さは髪に出ているのに、手元だけは不自然に清潔だ。

——これは、誰かに見せるためじゃない。自分が崩れないための“最低限”だ。


立ち方も静かすぎる。

体重が左右どちらにも寄らない。

足音がほとんどしない。

まるで、床を踏む力まで省略しているみたいだった。


「椎名」


呼ぶと、凪はほんの少しだけ顎を上げた。

視線は合う。逸らさない。

ただ、こちらに入り込ませない。


「なぜ、呼ばれたか分かる?」


「感想文、ですよね」


声は低くも高くもない。

掠れも震えもない。

“普通”だ。拍子抜けするほどに。


その普通さが、逆に異様だった。

これほど壊れそうな外見をしていながら、言葉がすべて整いすぎている。


「短い。それに、内容が逸脱している」


「自覚はあります」


即答。

反射みたいに速い。


「これは、読書感想文じゃない」


「そうですね」


取り繕う笑いもしない。

反発の棘もない。

淡々と受け取って、淡々と返す。


——この子は、心配される隙を作らない。


私は机の端に指を置いた。

用紙がずれないように、静かに。


「前にも言ったわね。次にこういうことがあったら、奉仕活動になるって」


「覚えてます」


「今回も、それに該当する」


職員室の時計が、一度だけはっきり鳴った。


「……風紀委員、ですか」


凪は確認するだけで、拒否はしない。

その態度が、いちばん怖かった。


「今日から。今から行きなさい」


私は立ち上がる。


「私が案内する」


凪は一拍置いて、頷いた。


「分かりました」


鞄を持ち上げる。

その動作に派手なぎこちなさはない。

ただ、わずかに時間がかかる。

肩にかけるとき、指先に力が入っていないのが一瞬だけ見えた。

それでも凪は、何もなかったように戻してみせる。


——見せない。見せたくない。気づかれたくない。


職員室を出ると、廊下の空気がひやりとしていた。

掃除の終わったワックスの匂いが薄く残り、窓の外は夕焼けに傾いている。

西日が差し込んで、凪の髪の艶だけが一瞬、強く光った。


並んで歩くと、さらに細さが際立つ。


歩幅は小さい。

でも遅いわけじゃない。

ただ、無駄がない。

歩くというより、静かに移動している。


身体の重心が高い。

制服の布が風で揺れると、内側の輪郭が頼りなく見える。

転んだら、そのままばらばらになってしまいそうな錯覚。


「……先生」


凪が、歩きながら言う。

声は相変わらず普通だ。


「はい」


「風紀委員って、具体的に何をするんですか」


質問は現実的で、穏当で、健全だった。

その健全さが、むしろ痛い。


「巡回とか、書類整理とか。あと注意が必要な生徒の対応ね」


「そうなんですね」


それ以上聞かない。

心配もしない。

自分のことを話題にしない。


風紀委員室の前で、私は足を止めた。

扉の向こうから、かすかな気配がする。


「ここよ」


凪は扉を見た。

表情は変わらない。

でも、まぶたが一度だけゆっくり閉じた。

息を整えるような、ほんの短い間。


私はドアノブに手をかける。


——この先に、この生徒を置く。

誰にも気づかれずに壊れていくのを、ただ見過ごすよりは。


金属の冷たさが掌に伝わった。

そして私は、扉を開けた。

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