エピローグ

「はー……マジで詰んだわー」


 私は、鉛筆の粉で真っ黒になった手を眺めながら、いつもの緑色のソファーに深く沈み込んだ。


 あの日、針金の死体(だったもの)を置いていた場所には、今、三十枚を超えるスケッチが並んでいる。

 おじいちゃんの浮き出た血管。

 逢華が新メニューを試作する時の、眉間のシワ。

 ライブハウスのライトを浴びて、やけに眩しかったえる。


 それに混じって、

 角の取れた「守り神」と、

 それを見上げる子どもたちの落書きみたいな絵。


 甥っ子や姪っ子、その友達が来た時に、

「これ、なに?」

「この人だれ?」

と聞かれるたび、

適当に物語をつけて描いた、絵本みたいなやつだ。


 怪獣でも、ヒーローでもない。

 喫茶店にいる、ちょっと変な神様の話。


 「今月の学内チャリティ展示の締切、もう二十四時間切ってる。芸術家を詰ませにきてるでしょ、あの男」


「贅沢な悩みね」


 カウンターの向こうで、逢華がテキパキとカップを拭きながら鼻で笑う。

 彼女は今、平日は『このみ』、土日は銀座の老舗という二足のわらじを履いている。


 銀座の店長は相当厳しいらしく、最近の逢華は、立ち姿からして違う。


「銀座の店長に『あんたの返事は三〇点』って言われたわ。私の人生、三〇点だって。詰んでるでしょ、これ」


 そう言う逢華の顔は、なぜか一〇〇点のドヤ顔だった。


「私なんてさ」


 えるが、絆創膏の増えた指でメニューをめくりながら言う。


「サークルの先輩に『ボーカルはいいけど、ベースの指使いは壊滅的だね』って言われて、またドレミからだよ。指、何本あっても足りない。マジ詰んでる」


 店内には、静かな常連さんと、ふぇるとちゃんの友達の高校生、

 それから、たまに私の絵を見に来る物好きな学生が数人。


 バズは、あっと言う間に通り過ぎていった。


 あの日、止まらなかったスマホは、

 今では「今日のまかない」とか「課題終わらん」とか、

 どうでもいいグループチャットで、たまに震えるだけだ。


「実香さーん! 練乳多めのアイスコーヒー、二つお願いします!」


 フロアを駆け回るふぇるとちゃんが、

 スケッチブックを覗き込んで言う。


「あ、今の表情いいですね。

 その神様、次どうなるんですか?」


「……どうしようかね」


 私は笑いながら答えた。


 私たちは、何者にもなれなかった。

 大学デビューには失敗したままだし、

 世界をひっくり返すような逆転劇も起きていない。


 でも、自分の「空っぽさ」を自覚した場所に、

 私たちはそれぞれ、自分の足で立っている。


「……ねえ、これからどうする?」


 えるが、溶けかかったアイスクリームを掬いながら聞く。


「とりあえず、展示が終わったら、角のアンティークショップの親父さんを描かせてもらう。

 あのおじさんの皺、絶対いい線になるから」


「私は、次の給料で銀座の店長を黙らせるくらいのオムレツ焼くわよ」


 時間は、急ぐ気もなく、ゆっくり流れていく。


 コーヒーの匂い。

 ジャズのピアノ。

 始まっていないことに気づいて絶望した、あの日から。


 私たちは少しだけ、

 この「詰んでいる」日常を、

 悪くないと思えるようになった。


「……ま、なんとかなるか」


 私は新しいページをめくる。

 真っ白な紙の上に、最初の一本、迷いのない線を引いた。


 私たちの、華麗なる(予定の)逆転劇は、

 たぶん――

 ここから、始まる。



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僕たちの華麗なる(予定の)逆転劇 まろえ788才 @maroee788

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