第3話
「指、死んだかも」
大学の中庭。
いつも濡れている気がする木のベンチに、今日は珍しく乾いた場所があって、私たちはそこに並んで座っていた。
えるが赤くなった指先を突き出してくる。
「軽音の先輩に教則本借りちゃった。昨日、寝るまでやってたら、今朝ペン持つのも痛いの。見て、ここ、ちょっと硬くなってない?」
そう言って笑うえるは、昨日までの「バズったベーシスト」とは少し違う顔をしていた。
あんなに「努力とか重い」なんて言っていたのに。
借り物のヴィンテージの重みに、中身が追いつこうとしているみたいだ。
「……ふーん、よかったじゃん」
私は、コンビニのツナマヨおにぎりを口に運ぶ。
米が、喉に詰まる。
スマホには、美術サークルのあの男子からメッセージが来ていた。
『一ヶ月後の学内合同展示、実香さんのスペース、正式に確保したから。今度はちゃんとタイトルとキャプション、準備しといてね。期待してるから』
期待。
あんなに欲しかった言葉が、今は、少し重い。
「みかも展示、決まったんでしょ? 次、何作るの? またあの『守り神』のシリーズ?」
えるの無邪気な問いかけが、胸に刺さる。
「……まあ、色々考えてるよ。芸術って、同じこと繰り返しても意味ないし」
嘘だった。
頭の中は、真っ白だ。
あのオブジェは、偶然の産物だったのかもしれない。
家にあるゴミと、行き場のないイライラを混ぜ合わせたら、
たまたま誰かの感性に引っかかっただけ――
そんな気が、してしまう。
もう一回、同じことをやれと言われても、やり方が分からない。
「逢華は?」
話題を逸らすように聞く。
「今日も一限からサボり。『純喫茶・新時代の看板メニュー』とか言って、キッチンにこもるって。さっき送られてきた自撮り、真っ青なタイツに真っ赤なヒールだったよ」
えるのスマホに映る、
昨日よりさらに進化した非日常。
フォロワー数は、今日も右肩上がりだ。
ベンチの端っこ、
まだ少しだけ湿っている場所に触れた指先が、
じわっと冷える。
「……私たち、逆転したんだよね?」
おにぎりのゴミを丸めながら、言った。
「……してるよ。大逆転だよ」
えるは、痛む指を愛おしそうに眺めながら答えた。
その時、スマホが震えた。
『あのオブジェ、メルカリに出してませんか?
似たようなのを見つけたんですけど』
心臓が、嫌な音を立てた。
◯
「……時代は、光の速さでパクるのよ」
カウンターの向こう側で、氷をピックで砕きながら、逢華が言った。
カチ、カチ、という乾いた音が、夜の『このみ』に小さく跳ねる。
「昨日バズったものが、今日にはもう誰かの模倣品としてメルカリに並ぶ。今のスピード感って、そういうものよ。感傷に浸る暇もくれない」
私は、手元のスマホに映る「それ」を、もう一度見た。
『前衛的な守り神・レプリカ』
私のオブジェによく似た、でもどこか軽い。
パクられた、と言っていいくらい似ているのに、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、自分の「中身」を、先に誰かに盗まれて形にしてもらったような、変な気分だった。
「ていうかさ、みか」
隣で、教則本を開いたまま、えるが言う。
指には相変わらず絆創膏が貼られている。
「軽音でさ……先輩に言われたんだよね。
“このみで弾いてた、あの音出して”って」
私は、視線だけで続きを促した。
「でもさ」
えるは、ベースのネックを軽く叩く。
「今、ちゃんと弾こうとしてると、逆に出ないんだよ。あの時の音」
冗談っぽく言っているけど、笑えていない。
「適当に鳴らしてた頃の方が、自由だったのかなって」
「……それってさ」
私は言いかけて、やめた。
努力が、評価を遠ざけることもある。
そんなこと、簡単に言えなかった。
「これって、もうみかの作品っていうより」
えるが、少し間を置いて続ける。
「あの漫画家さんの世界のキャラ、みたいになってない? 世間的には」
本質を突く言葉だった。
みんなが見ているのは、私じゃない。
漫画のフィルターを通した、「意味不明な神様」。
「……緊急会議って呼んだの、誰だっけ」
「私だけど」
逢華は、こちらを見ずに言った。
「ほら、会議っぽいでしょ。この空気」
彼女は、もう正面の席には来ない。
今、店の中央は完全に“お客さんの場所”だった。
スマホを見ている逢華の指が、一瞬止まる。
「……ふーん」
「なに?」
私が聞く。
「レビュー」
逢華は、少しだけ眉を寄せた。
「ほとんど、“コーヒーが美味しい”だって」
意外そうでもなく、でも納得もしていない声。
「派手とか、映えるとかより」
「“昔ながらで落ち着く”“丁寧に淹れてる”って」
それはつまり。
おじいさんの仕事が、評価されているということだ。
「……まあ」
逢華は肩をすくめる。
「店としては正解よね」
でも、どこか面白くなさそうだった。
飲みかけのアイスコーヒーが、結露でカウンターを濡らしている。
私たちは、繁盛する店の隅で、静かにグラスを持っているだけだった。
「あの……すみません」
ふぇるとちゃんが、エプロンを外しながら頭を下げる。
「門限なので、お先に失礼します」
「ああ、お疲れ」
逢華が言う。
ふぇるとちゃんが出ていったあと、
店はさらに「私たちの知らない場所」になった。
「……ねえ、逢華」
私は、意を決して聞いた。
「私、次の展示、何作ればいいと思う?」
逢華は、スマホの画面から目を離さずに言う。
「二匹目のドジョウを狙うか」
「自爆するか」
淡々と。
「どっちにしても、次は“アーティストの新作”として見られるわね」
私は、空になったグラスの底に残った練乳を、ストローで何度も追った。
甘いはずなのに、
もう、味はほとんどしなかった。
緊急会議、終了。
結局、
誰も答えを出せないまま、
夜だけが、静かに深くなっていった。
◯
「……終わったわね」
昼下がりの『このみ』。
二週間前、あんなに騒がしかった店内が、嘘のように静まり返っている。
スマホの通知は、数日前からオフにしたままだ。でも、たぶんもう鳴っていない。オンにする勇気すらない私を置いて、ネットの熱狂はとっくに別の獲物を探しに行った。
「早かったわね」
カウンターの向こうで、逢華がぽつりと零した。
彼女も、もうそれほど派手な衣装を着ていない。いつもの、どこか浮世離れした、でも清潔感のあるエプロン姿に戻っている。
「……二週間。たったの、二週間」
私は、練乳の沈んでいない、ただのアイスコーヒーを啜った。
あの「守り神」は、今も店の隅に立っているけれど、もう誰もスマホを向けない。ただの、少し邪魔なオブジェになりかけていた。
えるは、最近めっきり店に来なくなった。
軽音サークルの練習が忙しいらしい。
「指のマメやばい」という自撮りが昨日届いたきり。彼女は、あの不協和音の熱狂から、一番に「現実」へと逃げ延びたのだ。
今ごろ、大学のどこかで無言で指を動かしているのかもしれない。
「いやあ、賑やかで良かったねえ」
奥からおじいちゃんが出てきて、目を細めた。
以前の、時間が止まったような『このみ』に戻ったことを、おじいちゃんだけが純粋に喜んでいる。
「おじいちゃん、そんなに嬉しかったの? 昔もあんなに繁盛してたの?」
逢華が意外そうに聞いた。
「わしが修行した東京の店はなあ、一日何千人も捌いとった。立ち止まっとる暇なんて一秒もなかったよ。」
おじいちゃんが語る修行時代の話は、私たちが味わった「バズ」とは根本的に違っていた。
逢華が、言われた店名をスマホで検索する。
「……まだある。ここ、銀座の……」
画面を覗き込むと、そこには堅実で、古くて、それでいて凛とした空気を纏った老舗が映っていた。流行りに媚びない、本物の「映え」がそこにはあった。
「……私、ここで働きたい」
逢華の声は、いつになく真剣だった。
彼女の目が、もうこの狭い『このみ』のカウンターの外を向いている。
私は、急に息苦しくなった。
えるは音楽へ、逢華は東京へ。
二人には、この狂騒の後に残る「次」がある。
でも、私には?
中身のない「成功」の後味だけを噛み締めている私には、何が残っているんだろう。
カラン、とドアベルが鳴った。
「こんにちはー」
特徴的な女子校の制服。
彼女だけは、バズが終わろうが、世界が変わろうが、ずっと「ふぇるとちゃん」のままだ。
「実香さん!」
バイトの準備を始めながら、彼女が私を見て言った。
「次の実香さんの展示、私もお手伝いします! 搬入とか、飾り付けとか……」
次。
誰にも期待されず、誰にも見つからないかもしれない、一ヶ月後の展示。
取り残されたような寒気の中で、ふぇるとちゃんの声だけが、少しだけ温かかった。
私は、意味のない線を引くのをやめて、真っ白なスケッチブックを見つめた。
「……ありがとう。手伝って」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
でも、それが私の「本当の二年生」が始まる音だったのかもしれない。
◯
「知らん! 私は詰んでない! やるぞー!」
私はカウンターで拳を突き上げた。
一瞬、店内の空気が止まり、おじいさんが「おっ、元気だねえ」と笑いながら豆を挽き始める。
バズが終わった? えるが来ない? 逢華が東京を目指す?
それがどうした。
私の人生は、まだ、たったの二十年と数週間しか経っていないのだ。
「そうです、実香さん! その意気です!」
隣でふぇるとちゃんが、ブンブンと激しく首を縦に振った。
彼女はもう、ただのバイト代行じゃない。私の「共同制作総指揮」みたいな顔をして、私の横に居座っている。
それからの夕方は、毎日が『このみ』での緊急作戦会議になった。
逢華は「勝手にしなさい」と言いながらも、私たちが描き殴ったスケッチブックの隅に、こっそり付箋で『この構成だと、照明は暗めがいいかもね』なんてアドバイスを残してくれている。
私は、スケッチブックに思いついたものを片っ端から描き殴った。
意味があるのか、ないのか。前衛なのか、ただの落書きなのか。
迷う前に、鉛筆を動かす。
ある日の夕暮れ。
ふぇるとちゃんが、私の手元をじっと覗き込んでいた。
私が無意識に描いていたのは、窓際でコーヒーを淹れるおじいさんの横顔と、その周りに渦巻く「湯気の化け物」みたいな不思議な模様だった。
「……実香さん」
ふぇるとちゃんが、ポツリと言った。
「実香さんって、絵、めちゃくちゃ上手いですよね」
私は、止まった。
「……え?」
「いや、なんというか、その……。今まで、あの針金のオブジェとか、難しい言葉とかばっかりだったから気づかなかったですけど。実香さんの描く線、すごく優しいのに力がこもってて、私、この絵、大好きです」
心臓が、ドクンと跳ねた。
「上手い」なんて、そんな単純な言葉。
芸術概論の教授も、サークルの生意気な男子も、SNSのフォロワーも、誰も私にそんな言葉を投げなかった。
みんな「新しい」とか「前衛的」とか「ヤバい」とか、そんなタグ付けしやすい言葉で私を分類しただけだ。
「上手い、かな……」
「上手いですよ! めっちゃ上手いです!」
ふぇるとちゃんが私のスケッチブックを奪い取って、興奮気味にページをめくる。
そこには、意味のない線に混じって、眠そうなえるの顔や、不機嫌そうな逢華の背中が、殴り書きのようなのに、やけに生々しく描き留められていた。
私は自分の手を見た。
言葉で武装して、難解なポーズを取って、バズに一喜一憂していた指先が、今は鉛筆の粉で真っ黒に汚れている。
「……展示、変えようかな」
私は、ふぇるとちゃんを見た。
「針金じゃなくて、絵にする。私が、今、ここで見てるものを全部描く」
視界が、急に開けた気がした。
「何者か」を演じる必要なんてない。
私はただ、この『このみ』という、古くて、愛おしくて、ちょっとだけ変な場所で起きていることを、そのまま紙にぶつければいいんだ。
「いいですね! それ、絶対いいです!」
ふぇるとちゃんの声が、店のドアベルよりも明るく響いた。
◯
大学から少し歩いたところにある薄暗いライブハウスは、独特の湿気と、若者の体温で満ちていた。
床はわずかにべたつき、空気はアルコールと埃の匂いが混じっている。
私はステージから少し離れた壁際で、一人、昼に食べたおにぎりの残りを思い出しながら開演を待っていた。
立ち見の客の肩が時々ぶつかる。逃げ場はない。
やがて、えるの所属する軽音サークルの出番が来る。
「あれ……?」
ステージに現れた上級生らしき女子の肩には、見覚えのあるヴィンテージベースが掛かっていた。
えるがローンを組んでまで買った、あの一本だ。
一瞬、嫌な想像が頭をよぎる。
あんなに練習していたのに、外された?
やっぱり、あの音は偶然だった?
次の瞬間、その不安は裏切られた。
ひらひらした衣装を着たえるが、マイクを握ってステージ中央に飛び出してきたのだ。
「いくよー!」
始まったのは、少し前に流行ったガールズバンドの曲。
テンポが早く、歌詞も多くて、息継ぎの場所がほとんどない。
えるの声が、スピーカーを震わせる。
ツンと高くて、少し生意気。
でも、不思議と耳に残る。
無理に上手く歌おうとしていない、前に出る声だ。
――そういえば。
カラオケでマイクを奪い合っていた時も、
えるはいつも、難しい曲をさらっと選んでいた。
間奏に入ると、えるはベーシストの先輩に歩み寄った。
「ドゥン、ドゥン!」
一番太い弦を、親指で叩きつける。
技術じゃない、衝動そのままの音。
先輩の正確な指使いと、えるの無邪気な一撃が混ざり合い、
あの日、動画に収めた不協和音を、何倍にも太く、強くした。
偶然じゃない。これは、選ばれた配置だ。
(……かっこいいじゃん)
気づけば、私は拳を握っていた。
◯
その日の午後。
ライブ終わりのえると、『このみ』のテーブル席に座っていた。
「歌うの、めっちゃ緊張したけどさ」
えるは、絆創膏だらけの指を動かしながら言う。
「後半、頭真っ白で、でも楽しかった!」
「……すごかったよ」
私は素直に言った。
「あんた、あんな声持ってたんだね」
「へへ」
えるは照れたように笑う。
「みかに褒められると、なんか変な感じ」
そこへ、カラン、とドアベルが鳴った。
逢華が入ってくる。
両脇には、相変わらず距離感ゼロの甥っ子と姪っ子。
少し疲れた顔をしているけれど、目は澄んでいた。
「面接、どうだった?」
私が聞く。
「銀座の本店は門前払い」
逢華は肩をすくめる。
「でも、系列の喫茶店で、土日だけ入れてもらえることになった」
「え」
「まずは、そこで」
「ちゃんとした『仕事』を見てくるつもり」
彼女もまた、
バズの余韻ではなく、自分の足で次を選んでいた。
その時だった。
「あ、これ、動くよ!」
「あたしもやるー!」
甥っ子と姪っ子が、例のオブジェに取りついた。
ジャングルジムか何かのつもりらしい。
揺れる。
軋む。
メキッ。
乾いた音がして、
あの「神様」の象徴だった謎の角が、根元から折れた。
「あっ……!」
えるが息を呑む。
でも、私は笑っていた。
「いいぞー!」
「やったれ! 全部壊しちゃえ!」
スマホを構え、動画を回す。
「分かる人には分かる」
そう言って守っていた、自分のプライドが、
子供たちの手で、遠慮なく壊れていく。
それが、悔しくない。
むしろ、気持ちいい。
『前衛の神、ついに引退。次は、私の番』
そんな一言を添えて、
私は久しぶりにSNSに投稿した。
通知の数なんて、もうどうでもいい。
折れた角の向こうに、
今まで見えていなかったものがあった。
真っ白な壁。
ふぇるとちゃんの描いた、少し歪んだメニュー表。
「……さあ、描くよ」
私は、真っさらなスケッチブックを開く。
世界が私を見るのを待つのは、もう終わりだ。
これからは、
私が世界を見て、
ちゃんと掴みにいく番だ。
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