第2話

「っていうかさあ!」


 スマホの画面に向かって、私はいきなりそう言った。

 構図も何も考えていない。

 手ブレ補正だけが、無駄に仕事をしている。


「別にさ、うち美大じゃないんだけど?」

 私は少し間を置いて、続ける。

「なんであんなに、みんなお行儀よいの?」

「芸術って、爆発じゃないの?」


 夕方の『このみ』は、逢魔時という言葉がちょうどいい。

 外の光はまだ残っているのに、店の中は薄暗い。

 今日は他に客はいない。


 店の隅では、えるがベースを弾いている。

 どこからか持ってきたアンプに繋がれていて、

 音は、低くて、濁っていて、正直うまくない。


 ドゥン。

 ギャリ。

 ドゥン。


 不協和音、というより、

 何かがうまく噛み合っていない音。


「しかもさあ!」

 私は声を少し大きくする。

「展示でさ、あの男子!」

「私の作品見て、鼻で笑ったんだけど!」


 言ってから、少しだけ間が空く。

 ベースの音が、その隙間を埋める。


 ドゥン。


「鼻で、笑ったんだけど!」

 もう一回言った。


 スマホの向こうに、誰がいるのかは分からない。

 でも、聞いてほしかった。


「ていうか大学もさあ!」


 話題を切り替える。


「出席取るくせに、別に来なくてもいい授業あるし」

「逆に、意味分かんない授業ほど厳しくない?」

「あと、なんであのベンチだけ、いつも濡れてるの?」


 完全に理不尽だ。


 背後で、えるのベースが一瞬だけ大きく鳴る。

 弦を押さえ間違えた音だ。


「……あ、今のいいかも」

 えるが小さく言う。


 私は構わず続ける。


「ほんとさあ、あの男子!」

「私の作品見て、鼻で笑ったんだからね!」

 三回目だった。


 画面の端に、逢華が映り込む。

 今日は派手な服だ。

 原色に、動物柄に、意味の分からない重ね着。


 彼女は、オブジェの横に立って、

 なぜか片足を上げ、

 腕を広げ、

 私の守り神に負けじと謎のポーズを取っている。


 私は一瞬だけ、そっちを見る。


「……何それ」

「映え確認」

「確認になってる?」

「知らない」


 えるのベースが、また鳴る。

 低く、不安定で、でもやけに存在感がある音。


 私は、スマホに向き直った。


「まあ、分かる人には分かるから」

 そう言って、少しだけ顎を上げる。

「ほんとに分かる人には」


 録画を止める。


 店内は静かだった。

 夕方の光が、オブジェの和紙を斜めに照らしている。


「……今の、上げるの?」

 えるが聞く。


「うん」

 私は即答した。

「消すかどうかは、あとで考える」


 逢華は、もう一度オブジェの横でポーズを変えていた。



「はー……詰んでるわー」


 昼の二時過ぎ。

 日差しが一番どうでもいい角度で差し込む時間帯の『このみ』で、私はテーブルに突っ伏していた。


 客は、月に何度か見かける常連のお姉さん二人だけ。

 二十代後半くらいで、落ち着いていて、たぶんちゃんと社会に属している人たちだ。


 今日は、私の二十歳の誕生日だった。


 パーティー会場、と言うとさすがに盛りすぎだけど、

 このみには、いつもの三人に加えて、逢華の甥っ子と姪っ子が来ていた。

 小さくて、元気で、遠慮という概念がない。


「かわい〜……」

 私は、姪っ子の頭を撫でながら言った。

「ねえ、連れて帰っていい?」

「誕生日プレゼント?」

「ありがとう」


「あんた本当に二十歳か」

 逢華が即座にツッコむ。


「みか、動画さ」

 えるがスマホを見せてくる。

「三桁いってるよ。すごいすごい」


「……どうせ大学のやつらだよ」

 私はうなだれた。


 私の、世の中に対する警鐘――

 まあ、自虐込みだけど――は、

 誰の心にも響かなかったらしい。


 数百回再生されているのに、

 コメントは、ゼロ。


 世の中、冷たい。


 甥っ子と姪っ子は、例のオブジェを遠巻きに見ていた。

 最初は警戒していたのに、

 そのうち慣れて、そろそろ触り始めている。


「ちょ、壊れる!触るの禁止!」


 言ったそばから、揺れる。


「やめなさい!倒れるから!」


 私は、急に現実的な恐怖に襲われた。


「このままじゃさ……」

 私はぼそっと言った。

「来年? 再来年? 成人式出す顔なくない?」


「一緒に出ようよ」

 えるは呑気だ。

「どうせみんな大人っぽいフリしてるだけだし」


「私は、お腹に『新成人』ってタトゥー彫って出場するつもりだけど」


 逢華が真顔で言う。


「あんたが言うと冗談に聞こえないの!」

 私は即座に言った。

「おじいちゃんが悲しむでしょ!」


 そのタイミングで、

 おじいさんがコーラフロートを置いた。


「わしも、紋紋は入っとるよ」


 さらっと言って、去っていく。


「……え?」


 三人同時に固まる。


 え?

 え、今の、え?


 逢華も知らない事実っぽい。

 私は内心、ちょっとドキドキした。


 その隙に、甥っ子と姪っ子が、

 ついにオブジェを揺らした。


「だから言ったでしょ!」

 私は立ち上がる。


 その時だった。


「でもさ」

 常連のお姉さんの一人が、静かに言った。

「この大きさで、ちゃんと自重を支える設計、すごいよね」


 もう一人のお姉さんも、何も言わずに頷いた。


 ……え?


 それ、褒めてる?


 公式?

 これ、公式評価?


「写真、撮ってもいい?」

 お姉さんが聞く。


「ど、どうぞどうぞ!」


 なぜか、逢華とえるがちゃっかり画角に入って、ピースしている。

 甥っ子と姪っ子も混ざる。


 そのまま、ホールケーキを食べた。

 プレゼントは、二人からそれっぽいイギリスアンティーク雑貨だった。

 正直、嬉しい。


 お姉さんたちは、帰り際におじいさんと何か話していた。

 私は、ケーキを食べながら、それを目の端で見ていた。


 雑談が少し続いて、

 おじいさんが戻ってくる。


「あのお客さんな」

 おじいさんは言った。

「この店と、そのオブジェを、漫画に出していいか言うとったから、許可しといた」


「……え?」


「漫画家さんやった」


「は?」


 名刺を渡される。


 岬みゆう


 すぐに調べたら、

 結構なフォロワー数で、

 Wikipediaまであった。


 まじか……。


 私は、スマホを置いて、

 もう一口ケーキを食べた。


 ケーキ、うめえ。


 詰んでると思ってた二十歳の始まりは、

 どうやら、少しだけ、変な方向に転がり始めていた。



二十歳になってから、だいたい一週間。

 特に何も変わらなかった。


 朝一の経済学と、午後の芸術概論を受けて、

 ノートは取ったり取らなかったりして、

 昼ごはんは学食で済ませた。


 えるは、どうやら軽音サークルへの潜入に成功したらしい。

 「案外、空気ゆるかった」とだけメッセージが来た。


 逢華は、家族と都心に買い物に行っている。

 たぶん、カラフルな戦利品が増えている。


 というわけで、その日の夕方、

 私は一人で『このみ』にいた。


 珍しく、カウンター席。

 いつもは奥のテーブルに座るから、

 この位置は少し落ち着かない。


 夕方の店内は静かだった。

 カップとソーサーの音だけが、

 やけにきれいに響く。


 私は、コーヒーに練乳を入れて、一口飲んだ。

 まだ少し苦い。


 黄昏、という言葉が、

 今の気分に一番近い気がした。


 その時。


 スマホが、テーブルの上で震えた。


 ぶる。

 ぶるぶる。


「……?」


 画面を見る。


 通知。

 通知。

 通知。


 さっきまで、

 静かだったはずのスマホが、

 急に落ち着きを失っている。


 何かのバグ?


 通知の数字が増えている。

 一つや二つじゃない。

 まとめて、どっと来ている。


「……なにこれ」


 いいね。

 フォロー。

 コメント。


 コメント?


 思わず、目をこすった。


 数日前に上げた、あの愚痴動画。

 大学がどうとか、

 芸術は爆発だとか、

 あの男子が鼻で笑ったとか、

 三回も言ったやつ。


 再生数が、明らかに増えている。

 昨日まで三桁だったのに、

 もうその先に行っている。


「……は?」


 コメント欄を開く。


 この喫茶店どこ?

 オブジェ怖かわいい

 BGMなに?不穏でいい

 後ろの人たち何者?


 内容が、

 私の愚痴じゃない。


 動画の主役が、

 私じゃない。


 私は、無意識に振り返った。


 店の奥。

 アップライトピアノの横。

 あのオブジェは、

 今日も黙って立っている。


 ベースは、今はいない。

 えるが持っていったままだ。


 それでも、

 あの不穏な音が、

 耳の奥に残っている気がした。


カウンターの向こうで、

マスターがコーヒーを注いでいる音がした。


「どうかしましたか」


「いえ……」

 私は、スマホを見たまま言った。

「ちょっと、知らないところで、

 知らないことが起きてるみたいです」


 マスターは、それ以上は聞かなかった。

 ただ、コーヒーのおかわりを注いでくれる。


 私は、もう一度画面を見る。


 通知の中に、

 見覚えのある名前のアカウントがあった。


 投稿は、

 数時間前。


 四コマのエッセイ漫画だった。


 舞台は、

 見覚えのある喫茶店。

 見覚えのある、

 意味不明なオブジェ。


 最後のコマに、

 小さく書いてある。


 「よく分からないけど、

 不思議と落ち着く場所」


 私は、しばらくその画面を見ていた。


 漫画と私の動画は、直接は繋がっていない

 ネットの誰かが特定したのか。

 そんなことを、意外と冷静に考えている自分がいた。

 怒る理由も、

 喜ぶ理由も、

 すぐには見つからない。


 ただ、


「……私の作品、

 漫画になってる……」


 声に出して、

 やっと実感が湧いた。


 スマホが、また震える。


 今度は、えるからだった。


 える:

 みかやばい

 今TLにこのみ流れてきた

 なにこれ


 私は、

 カウンター席で、

 一人、笑ってしまった。


 まだ、何も分かっていない。

 これが、何なのかも。

 どこへ行くのかも。


 でも。


 世界が、

 ほんの少しだけ、

 こちらを見た気がした。


 その程度のことが、

 今は、やけに大きく感じられた。



「勝った!」


 私は、はっきりそう言った。

 誰に向けてでもなく、店内のざわめきに向かって。


 喫茶『このみ』は、見たことのない顔で埋まっていた。

 平日の昼過ぎだというのに、ほぼ満席。

 普段は夜しか入らない女子高生バイトまで、急きょ呼び出されている。


「ふぇるとちゃん、こっちテーブルお願い!」

「はいっ!」


 ふぇるとちゃん――どういう漢字を当てればそうなるのかは分からないけど、

とにかく可愛い名前だ。

本人も、可愛らしくて、しっかり者で、

でもどこかふわふわしている。


 逢華は、店の中央で異様な存在感を放っていた。

 真っ赤な生地の着物に、フリフリのメイドエプロン。

 その横には、例のオブジェ。


「写真撮ってもいいですか?」

「もちろん」


 逢華は完璧な角度で立ち、

オブジェと一緒にポーズを決めている。

もはや、展示物の一部だった。


 えるも、今日はやけに様になっていた。

 ヴィンテージのベースを肩にかけ、

「いいですよー」と軽い感じでセルフィーに応じている。


 私はそれを見ながら、

心の中で、美術サークルの連中に中指を立てていた。


 ほら見ろ。

 ざまあみろ。

 ……なのに。


 どこか、掛け違えている感じがした。

 何が、とは言えないけど。


 それでも、

スマホの通知を見るたびに、

その違和感は、すぐにかき消される。


 私だけの裏メニューだった練乳アイスコーヒーも、

いつの間にか「名物」としてメニューに載っていた。


「ベトナムのコーヒーって、こういうのあるらしいよ」

 逢華が言う。


「知らなかった……」

「まあ、細かいことはいいでしょ」


 私は、次の妄想に入っていた。


「次さ、万博のデザイン、私がもらったな」

「五十年後?」

 えるが即座にツッコむ。


「グッズ展開も考えた方がいいんじゃない?」

 逢華は真剣だ。


 忙しさの中で、

私は、よく分からないため息をついていた。


 その時、ふぇるとちゃんが、少し申し訳なさそうに近づいてくる。


「すみません……」

「なに?」

「実は、あの漫画のポストに、このみ載せたの、私です。

宣伝になるかなって……」


 一瞬、頭が真っ白になってから、


「お前かー!」

 私は叫んで、ふぇるとちゃんを抱き寄せた。

「好き!」


「えっ、あっ……」

 ふぇるとは慌てて続ける。

「でも、実香さんの動画は載せてないですよ。

 誰かが、ハッシュタグから辿ったんだと思います」


「いいよいいよ!」

 私はもう気にしていなかった。


 秘伝の練乳配合でコーヒーを作り、

 配膳を手伝い、

 写真を撮られ、

 気づけば一日が過ぎていく。


 夜になって、

見覚えのある顔が入ってきた。


 美術サークルの面々だった。


 私は、思わず身構える。


 でも、彼らは普通だった。


「この照明だと意外と映えるな」

「存在感ヤバいね」

「これ結構金かかってない?」

「次の展示この方向性で行く?」


 褒められる。

 写真も撮られる。


 ……あれ?


 私は、拍子抜けした。


 何と戦っていたんだろう。


 一人相撲だったのかもしれない。


 賑やかな店内で、

私は、ほんの一瞬だけ、

空っぽな場所に立っている気がした。


 それでも、

通知は鳴り続けている。


 私は、その音に、

また少しだけ、

安心してしまった。


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