第1話
純喫茶『このみ』は、夜九時で閉まる。
学生街にあるにしては、少し早い。
夜は基本、おじいさんと、正式に雇っている高校生のバイトの子で回す。
私たちはというと、その時間になると一度店を抜けるのが暗黙の了解だった。
「じゃ、行こっか」
シャッターを半分下ろしたところで、逢華がエプロンを外す。
高校生の子は「いってらっしゃいでーす」と元気よく言った。たぶん本気で羨ましがっている。
結局、その日はカラオケに行った。
何を歌ったかはあまり覚えていない。えるが歌って、私が途中でマイクを奪って、逢華は点数だけ見ていた。そういう感じだ。
帰り道、商店街の端にあるイギリスアンティークショップに、なんとなく吸い寄せられた。
閉店間際で、照明が少し落ちている。
「これ、よくない?」
逢華が指差したのは、白くて小さな陶磁器だった。
縁にボタニカル模様が入っている。用途はよく分からない。たぶん、何かを入れる。
「灰皿?」
「違うでしょ」
「小物入れ?」
「それも違う気がする」
結局、用途は決まらないまま買った。
逢華が選んだのに、三人で割り勘だった。
七時半くらいに店に戻ると、客はそこまで多くなかった。
逢華はそのままキッチンに入って、サラダを盛りつけ始める。無駄に手際がいい。
私とえるは、たまに配膳をする以外は、カウンター席で紅茶を飲んでいた。
「この前さ、授業で出たレポート、文字数だけ多くて中身ゼロだった」
「分かる。文字数って、埋めようと思えば埋まるよね」
「人生もそうじゃない?」
「急に深い」
そんなことを言いながら、特に何も考えていない。
八時半になると、高校生のバイトの子が門限のために帰っていった。
おじいさんも、片付けが一段落すると、
「後よろしくね。二人もいつも手伝ってくれてありがとう」
「今度、お小遣いあげようね」
そう言って、先に帰った。
店の奥の時計の音が、急に大きく聞こえる。
静まった喫茶店には、私たち三人だけが残った。
私は、さっき買った陶磁器をテーブルの上に置いた。
意味はまだ分からない。
「……なんかさ」
私は紅茶のカップを持ったまま言った。
「今年は、何かやらない?」
二人が顔を上げる。
「意味のあること」
付け足すと、えるが笑った。
「意味あるかどうかは知らないけど、学内展示、あるらしいよ」
「へえ」
「あとさ、軽音部、先輩けっこう卒業したって。新入生も入るだろうし、案外、潜り込めたりして」
えるはスマホをいじりながら言う。
「今度、楽器屋行きたいんだよね。ついてきて」
私はそのまま、逢華を見る。
「そういえば、またすごいファッション上げてたね」
「何?」
「原宿みたいなやつ」
「ここ東京じゃないけどな」
逢華が、鼻で笑った。
「みかのSNSの方が意味分かんないけど」
「え」
「修正盛り盛りの自撮りショート動画で、なんか言ってるけど、結局何が言いたいのか分からん」
反撃が雑だ。
「分かる人には分かるの」
私は言った。自分でも、少し苦しい。
「ねえ、このギター可愛くない?」
えるが、話を切るようにスマホをこちらに向けた。
画面には、色だけは可愛いギターが映っている。
店の外は、もう暗い。
スピーカーも今は沈黙している。
私たちは、何かを始める話だけをしていた。始める準備みたいなものを、ずっと。
その夜、喫茶店のテーブルの上には、
白くて小さな陶磁器と、
まだ何も形になっていない話題だけが残っていた。
次の日、学内掲示板の前で立ち止まったのは、完全に偶然だったと思う。
トイレに行く途中で、なんとなく視界に入っただけだ。
美術サークル 展示会開催のお知らせ
日付を見る。五日後。
「……五日後?」
声に出してから、冷静になる。
ていうか、これサークルの展示会だよね。
外部の人間が参加するの、普通に無理じゃない?
無理だよな、と思いながら、掲示を見ていたら、横から声がした。
「何か気になることでも?」
振り返ると、温和そうな男性教員だった。
柔らかい笑顔。たぶん、怒らないタイプ。
私は、その人を捕まえた。
「これって、サークル入ってなくても出せるんですか?」
「うーん……基本はサークルだけど」
ほら。
やっぱり。
でも、そこで引き下がるほど、私は素直じゃなかった。
「でも、こういうのって、自由な方がいいですよね?」
「え?」
「閉じた感じより、開かれてる方が」
男性教員は少し考えてから、にこっと笑った。
「そうだね。じゃあ、私がスペース確保してあげようか」
その瞬間、世界が少し明るくなった。
「ほんとですか!」
「うん、任せて」
私は全力で頭を下げた。
たぶん、五回くらい。
——それから三日、音沙汰はなかった。
その間、私はえるの楽器屋に付き合った。
えるは「可愛いギターが欲しい」と言っていた。
「これとか」
パステルカラーで、小ぶりで、確かに可愛い。
なのに。
「……これ、連れて帰ってって言ってる気がする」
えるが最終的に選んだのは、
結構な値段のヴィンテージベースだった。
「ローン?」
「うん」
私は、将来この人が、
骨董の焼き物とか掛け軸を集めるおばさんになる未来を見た気がした。
家では、オブジェを作った。
大量の針金と空き缶で骨組みを作り、
そこに紙粘土と和紙を貼り付けていく。
形は……なんというか、
生き物っぽいけど、生きてはいない。
神様っぽいけど、拝む気にはならない。
強そうなのに、どこか不安定。
そこそこ大きい。
完成した時、お父さんに言われた。
「車、入らんのやけど」
結果、そのオブジェは、
家の玄関で侵入者を見張る係になった。
合間で、逢華とも古着屋に行った。
喫茶店のエプロンの下に着るブラウス探し。
逢華のセンスは、相変わらずだった。
『このみ』の色味が、三原色で言うところのセピアの四十からグレーベージュの五十くらいあたりの、ふわっとした世界だとしたら、
逢華は二百五十五。
原色。
動物柄。
インドっぽいやつ。
髪も、今はほぼ白に近い金髪だ。
これでも大人しい方だけどね。
そして、展示会の締切前日。
私は、学内であの男性教員を見つけた。
「あのっ!」
掴みかかる勢いで聞く。
「展示の件、どうなりました!?」
「ああ……ごめん、忘れてた」
私は、言葉にならない「ウー」という音を出しながら、
その人の腕を掴んで、その場でぐるぐる回転した。
「わ、ちょ、目が……!」
目が回ったのを確認して、私は小走りで逃げた。
たぶん、一線は越えていた。
そのまま、美術サークルの展示場へ向かう。
準備は着々と進んでいた。
一番、権力がありそうな男子を見つける。
「当日、私の展示持ってくるから、ちゃんと飾って!」
「え……」
「場所あるよね?」
「いや……」
「あるってことで!」
「いやいや……」
男子は困った顔で、でも最終的に言った。
「……邪魔にならないなら」
勝ちだ。
喫茶『このみ』に戻って、私は宣言した。
「やった! 私の作品、大歓迎だって!」
「へえ」
「見に行くねー」
二人は、そんな感じだった。
私は紅茶を飲みながら、
たぶん、いける、と思っていた。
この時は、まだ。
◯
展示当日の朝、私はいつもより早く目が覚めた。
理由は分かっている。
寝坊したら全部終わる気がしたからだ。
玄関の守り神は、今日も玄関に立っていた。
侵入者より先に、私を睨んでいる気がする。
「……行くよ」
誰に言ったのか分からないまま、オブジェを軽く叩く。
『このみ』で借りた台車を押して家を出る。
中はスカスカなのに、やたら重い。
大学に着いた時点で、もう場違いな感じはしていた。
展示場の前には、サークル名入りの段ボール、脚立、延長コード。
みんな慣れた手つきで動いている。
私は、その流れを横切るように、例の男子のところへ行った。
「来ました!」
「……ああ」
男子は、昨日よりさらに困った顔をしていた。
「これ、どこ置けばいい?」
私はオブジェを指差す。
「え、これ?」
「これ」
近くにいた別の部員が、ひそひそ話す。
「誰?」
「知らん」
「サークルの人じゃないよね?」
聞こえている。
でも、聞こえてないふりをした。
「壁際で……」
男子が言いかけたところで、
「いや、中央がいいです」
口が勝手に動いた。
数秒の沈黙のあと、
「……邪魔にならないなら」
昨日と同じ言葉で、承諾された。
中央に置かれたオブジェは、
想像以上に、異物だった。
周囲は、説明文付きの立体や、整えられた平面作品。
私のそれは、説明もなく、
何を表しているのかも分からない。
しかも、微妙に傾いている。
「これ、倒れない?」
「大丈夫です」
根拠はない。
開場時間になると、人が入ってきた。
学生、教員、たぶん保護者。
誰かが立ち止まる。
スマホを構える。
……気がしただけだった。
実際は、
ほとんどの人が、そのまま通り過ぎた。
一人、立ち止まった女の子がいた。
じっと見ている。
私は、なぜか息を止めた。
「……怖い」
その子はそう言って、友達のところへ戻った。
それでも、私は負けた気がしなかった。
むしろ、
分かってないな
と思った。
だって、前衛って、そういうものだから。
昼過ぎ、男子が近づいてきた。
「これ、誰の作品?」
「私です」
「タイトルとか……」
「決めてません」
「説明文……」
「ありません」
男子は頭を抱えた。
「せめて、名前……」
私は少し考えて、
「みか、で」
彼はしばし呆然としたが、最後に少しフッと小さな笑みを残して去っていった。
午後になると、人はさらに減った。
展示場に残っているのは、
関係者っぽい人と、暇そうな学生だけ。
その頃には、
私自身も、何を期待していたのか分からなくなっていた。
オブジェは、
相変わらず、中央で、
意味ありげな顔をして立っている。
閉場間際、
逢華とえるが顔を出した。
「おー、結構可愛くない?」
えるが言う。
「でかいね」
逢華は一周して、そう言った。
「なんか、壊しちゃう人も多いらしい」
私が聞く。
「このみに置いていいと思う?」
「いや自分の家に置きなよ!」
「無責任な......」
二人は少し考えてから、
「……まあおじいちゃんは良いって言うと思う」
「夜なら、ちょっと雰囲気出るかも」
その返事を聞いて、
私はなぜか、少し安心した。
展示会は、
静かに終わった。
拍手も、評価も、
特に何もないまま。
帰り際、男子が言った。
「片付け、今日中ね」
私は、
中央に立っていたオブジェを見た。
守り神は、
もう、ここには居場所がなさそうだった。
◯
展示が終わったあと、台車に乗せられた「それ」は、ガラガラと音を立てながら『このみ』に戻ってきた。
昼間の大学とは違って、夜の商店街は静かだった。
閉店後の店内は、いつもより広く感じる。
椅子はテーブルの上に上げられ、床がむき出しになっている。
「ここなら邪魔じゃないでしょ」
逢華が指さしたのは、店の隅だった。
長いこと使われていないアップライトピアノの横。
鍵盤の一部が黄ばんでいて、音もたぶん、まともには出ない。
私たちは、そこにオブジェを置いた。
衣留は、今日届いたばかりのベースを、特に考えもせず、その横に立てかけた。
ヴィンテージ。
ローンという名の十字架付き。
「大丈夫?」
「うん。たぶん」
何が大丈夫なのかは、分からない。
片付けが一段落すると、おじいさんがカウンターの照明を少し落とした。
「お疲れさま」
それだけ言って、間接照明を点ける。
琥珀色の光が、店の奥にじんわり広がる。
和紙を貼ったオブジェの表面に、凹凸の影が浮かび上がった。
昼間よりも、ずっと落ち着いて見える。
意味がありそうな顔をしている。
「……」
逢華が、その光景を見て、少しだけ黙った。
そして、スマホを取り出す。
「……アンタのこれ、ここで見ると、なんか……マシに見えるわね」
「でしょ」
私は、勝ち誇るほどでもない声で答えた。
シャッター音が一つ、店内に響く。
逢華は、画面を確認しながら、淡々と投稿文を打ち込んでいた。
#隠れ家
#意味不明な守り神
#喫茶このみ
「あはは、招き猫になってくれたまえ」
誰に言うでもなく、逢華が言った。
店の中は静かだった。
ジャズも、もう流れていない。
オブジェは、ピアノとベースに挟まれて、
まるで最初からそこにあったみたいに、じっとしている。
私は、その様子を見て思った。
もしかして。
この場所の方が、
私よりも、
この作品のことを分かっているのかもしれない。
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