第4話 保健所の査察官(ギルドマスター)は、背脂の海で溺れるか

 チンピラ冒険者たちを「無料の試食(スープ)」だけで撃退してから、数時間が経過した。


 俺とメンマちゃん(自称プロデューサー兼看板娘)が営む屋台『異世界 燕三条』は、奇妙な静寂に包まれていた。  客が来ないのだ。  遠巻きに見ている野次馬は多いのだが、誰一人として暖簾(のれん)をくぐろうとしない。


「おかしいな……。匂いの拡散(マーケティング)は完璧なはずだが」


 俺は腕組みをして首をかしげた。  寸胴からは、煮干しと豚骨の暴力的な香りが漂っている。空腹の人間ならゾンビのように吸い寄せられるはずの香りだ。


「あー、佐藤さん。たぶん原因は『噂』です」


 メンマちゃんが、客引き用の露出度の高い衣装(布面積15%減)を気にしながら言った。


「噂?」 「さっきの騒ぎを見てた人たちが、『あの屋台の主人は、スープの一撃で女盗賊の服を吹き飛ばした変態剣士だ』って噂してるみたいで……」 「なんだそりゃ。服が破れたのは、あいつのサイズ選びが間違ってただけだろ」


 俺は呆れてため息をついた。  最近の若者はタイトな服を着たがるが、食事をする時は腹回りに余裕を持たせるのがマナーだ。


「まあいい。客がビビってるなら、安心させてやるのがプロの仕事だ」


 俺が寸胴の火加減を調整しようとした、その時だった。  野次馬の群れが、モーゼの十戒のように左右に割れた。


 ズシン、ズシン、ズシン。


 まるで重戦車が近づいてくるような、重厚な足音が響く。  現れたのは、身長2メートルを超える巨漢だった。  全身を分厚いミスリル製のフルプレートアーマーで固め、背中には身の丈ほどの戦斧(バトルアックス)を背負っている。  顔には無数の古傷。眼光は鋭く、歴戦の猛者だけが持つ威圧感を放っていた。


 周囲の冒険者たちがざわめく。 「おい、あれは……ギルドマスターのガトランド様だぞ!」 「『岩砕き』のガトランドが動いたのか!?」 「やべぇぞ、あの店主、消されるんじゃねえか……?」


 メンマちゃんが「ひぃっ!」と小さな悲鳴を上げて、俺の背後に隠れた。  だが、俺の解釈は違った。


(……ほう。スーツ(鎧)を着込んだ強面の中年男。それに、このねちっこい視線)


 俺は瞬時に理解した。  こいつは、**「保健所の査察官」**だ。


 しかも、ただの役人じゃない。飲食店を潰すために重箱の隅をつつく、タチの悪いベテラン検査員だ。  俺はかつて、スープの温度が一度低いだけで営業停止をほのめかされた経験がある。こいつからは、その時と同じ「プロの嫌味なオーラ」を感じる。


「いらっしゃい。査察ご苦労さんです」


 俺は濡れ布巾を絞りながら、先制攻撃を仕掛けた。  ガトランドと呼ばれた男は、俺の言葉(異世界言語に自動翻訳されている)を聞いて眉をひそめた。


「……ササツ? 妙な隠語を使うな。貴様が、裏通りで騒ぎを起こしたという『流れの料理人』か?」


 低い、地響きのような声だ。


「騒ぎ? ああ、害虫駆除のことですか。店先に汚いネズミが寄ってきたんでね、追い払っただけですよ」


 俺はチンピラたちのことをオブラートに包んで表現した。  ガトランドの目が細められる。


「……『紅の蛇』の幹部を、ネズミ呼ばわりか。剛胆だな」


 ガトランドは、ゆっくりと俺の屋台に近づいてきた。  その一歩ごとに、殺気(プレッシャー)が増していく。  メンマちゃんが俺の背中でガタガタ震えている。


「(ど、どうしよう佐藤さん! ギルドマスター級(レベル80)相手じゃ、私の『誤魔化し魔法』も効かないわ!)」


 ガトランドが、俺の目の前で立ち止まった。  カウンター越しに睨み合う。距離はわずか50センチ。


「単刀直入に聞く。貴様の『腕』は、どこで仕込んだ?」


 来た。  調理師免許の確認と、修業先の詮索だ。田舎の役人はこれだから面倒くさい。


「新潟だ」 「……ニイガタ? 聞かぬ名の流派だな。東方の暗殺ギルドか?」 「暗殺? はっ、人聞きの悪い。俺たちはいつだって『客を殺す(ほど満足させる)』気でやってるがね」


 俺は不敵に笑い返した。  ガトランドの全身から、青白い闘気(オーラ)が立ち昇る。  周囲の空気がピリピリと張り詰める。  これは一般人なら失神するレベルの威圧だ。


 だが、俺には通用しない。  なぜなら、**「ランチタイムのピーク時に、4人組の客が別々のラーメンを注文し、さらに『麺固め、味薄め、油多め』とか細かいオーダーを入れてきた時の殺伐とした空気」**に比べれば、この程度のプレッシャーはそよ風だからだ。


「フン……口だけではないようだな」


 ガトランドは、俺が微動だにしないことを見て取ると、ニヤリと笑った。


「いいだろう。その腕前、俺が直々に『試して』やる」 「試食か? いいぜ、金は取るがな」 「金など幾らでも払ってやる。ただし――」


 ガトランドが、ドンッ! とカウンターに拳を置いた。


「俺を満足させられなければ、この街から出て行ってもらう。死体となってな」


 出たよ。  「味が気に入らなければ営業許可を取り消す」という脅しだ。  上等だ。俺のラーメンを食って文句を言った役人は、過去に一人もいない(全員、夢中で食いすぎて仕事忘れたからな)。


「注文は?」 「貴様の『全力』を見せてみろ」


「あいよ。『特製・背脂煮干し中華そば』一丁!」


 俺は厨房に向き直った。  ここからは戦争だ。


 俺は寸胴の蓋を開けた。  立ち昇る湯気。ガトランドが鼻をピクリと動かす。


「……む? なんだこの香りは。獣の腐臭(トンコツ)と、死んだ魚(ニボシ)の匂い……相反するはずの二つが、なぜこうも調和している?」


「素人は黙っててくれ。気が散る」


 俺は麺を大鍋に放り込んだ。  今回使うのは、極太の縮れ麺。茹で時間は長いが、その分スープを強烈に持ち上げる。  茹で上がるまでの数分間、俺は丼にタレ(かえし)を用意する。  醤油は、この異世界で見つけた豆を発酵させた「黒豆醤油」。そこにスライムの干物から取った出汁を合わせ、キレのある塩味を作る。


「麺上げだ」


 俺は平ザルを構えた。  チャッ!  鋭い音が響き、お湯が切られる。


 ガトランドの目が大きく見開かれた。


「(……速い! 手首のスナップだけで、水滴を完全に断ち切っただと!? あのザルさばき、剣技に応用すれば鉄すら斬れるぞ……!)」


 俺は丼に麺を流し込み、スープを注ぐ。  そして、クライマックス。  雪のように白く、宝石のように輝く背脂(スライムエキス入り)を、ザル越しに振りかける。


 チャッチャッチャッ!!


 純白の脂がスープの表面を覆い、熱を封じ込める。  最後に、巨大なチャーシュー(スライムの触手を加工した擬似肉)と、刻み玉ねぎを乗せて完成だ。


「へい、お待ち。火傷するなよ」


 俺は丼をカウンターに置いた。  ガトランドの目の前に、黄金色のスープと純白の背脂が織りなす小宇宙が出現する。


「これが……貴様の『全力』か」 「冷めないうちに食え。麺が死ぬぞ」


 ガトランドは、震える手でレンゲを取った。  まずはスープを一口。


 ズズッ……。


 静寂が流れる。  次の瞬間。


 カッ!!


 ガトランドの目が、カメレオンのように左右別々の方向を向いた。


「!!???」


 言葉にならない声。  彼の脳内で、味覚のビッグバンが起きていた。


(……なんだこれは!? 口に含んだ瞬間、荒々しい魚の群れ(煮干し)が突撃してきたかと思えば、その直後に濃厚な獣の王(豚骨)が包み込んでくる! そして、この白い脂……! 甘い! 脳が溶けるほどに甘美だ!!)


「う、うおおおおおぉぉぉぉッ!!」


 ガトランドは叫び出し、今度は箸で麺を鷲掴みにした。  極太麺を、吸引力の変わらない掃除機のような勢いで啜り上げる。


 ズババババババババッ!!


「美味い! 美味いぞ貴様ァァァッ! なんだこのコシは! 俺の鍛え上げた腹筋すら凌駕する弾力! 噛むたびに小麦の魔力が溢れ出す!!」


 ガトランドの全身の筋肉が、異常な興奮によってパンプアップ(膨張)し始めた。  分厚いプレートアーマーが、内側からの圧力で悲鳴を上げる。


 ミシッ……ミシミシッ……パキィッ!


「ぬおおおッ! 止まらん! 箸が止まらん! この刻んだ玉ねぎのシャキシャキ感が、脂っこさを中和して……無限に食える永久機関になってしまったァァァッ!」


 そして、最後の一滴までスープを飲み干した瞬間。


 ドカァァァァァンッ!!


 爆発音が轟いた。  ガトランドが装着していた最高級のミスリル鎧が、弾け飛んだのだ。  金属片がキラキラと舞い散る中、上半身裸のマッチョな巨漢が、恍惚の表情で仁王立ちしていた。


「…………整った」


 ガトランドは、湯気を放つ赤銅色の筋肉を見せつけながら、静かに呟いた。  その目からは、一筋の涙が流れている。


「見事だ……。俺の完敗だ、異邦の料理人よ」


 ガトランドは、ゆっくりと俺に向かって頭を下げた。


「長年、戦いの中で失われていた『生きる喜び』を……この一杯が思い出させてくれた。貴様の店は、この街の宝だ」


 周囲の野次馬たちが、どよめきから歓声へと変わる。 「すげぇ……! あの『鬼のガトランド』が泣いてるぞ!」 「鎧を内側から破壊するほどの美味さってことか!?」 「俺にも食わせろ! 並ぶぞ!」


 一瞬にして、屋台の前には長蛇の列が形成された。  俺は、満足げに頷いた。


「ふん、分かればいいんだよ。次はもっと腹を空かせて来い」


 俺はガトランドから代金(金貨3枚。相場の100倍)を受け取り、丼を回収した。


「(……よし、これで営業許可は下りたな。にしても、最近の検査官はオーバーリアクションで服を脱ぐのがトレンドなのか?)」


 メンマちゃんが、半裸の筋肉おじさんを見て「需要のないサービスシーンね……」と呟いていたが、俺は気にしない。


「店主!」  帰り際、ガトランドが振り返った。 「貴様の腕に惚れ込んだ。今後、食材の仕入れで困ることがあればギルドを通せ。優先的に回してやる」 「ほう、そいつは助かる。豚ガラと背脂を大量に頼むわ」


 これで物流ルートも確保できた。  客が来る。  俺のラーメンを求めて、腹を空かせた客たちが押し寄せている。


「よし、メンマ! 気合入れろ! ランチ戦争の開戦だ!」 「は、はいっ! 店長!」


 こうして、俺の店はギルド公認の『伝説の名店』として、街に君臨することになった。  スープの材料も、客入りも完璧だ。  ――だが。  この「完璧すぎるスープ」が完成したことによって、俺という職人の**「妥協なきこだわり(麺への不満)」**が爆発することになるのは、ほんの数日後の話である。

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