第2話 解像度の低い恋
「ねえサキ、昨日の漫画、どこまで読んだ?」
放課後の渋谷。スクランブル交差点を横断しながら、ミズキがサキの腕に絡みついた。一〇九の壁面では、巨大なアイドルのアバターがウィンクを振りまき、足元ではARの金魚たちがアスファルトを泳いでいる。
「……半分くらいかな。主人公が、放課後の図書室で男の子を見つめるシーンまで」
サキはいつもの穏やかなトーンで答えた。ミズキが『電子書籍じゃ伝わらないエモさがあるから!』と無理やり貸し出した、紙のコミックスを大切そうに抱えている。
「そこ! そこが最高なの。言葉にできないもどかしさが、視線だけで伝わるっていうか。……ね、リンもああいうの、憧れるよね?」
ミズキが弾んだ声で、後ろを少し離れて歩いていたリンに振り返った。視線の先で、リンは首にかけたヘッドホンを少しずらし、ひどく場違いなものを見るような目でミズキを見つめた。
「言葉にしないと伝わらないことの方が、圧倒的に多いと思うけど」
素っ気なく、けれど拒絶でもない。淡々とした事実の指摘。それがリンという人間だった。彼女の声には常に、熱に浮かされたこの街の狂騒を冷ますような、不思議な静寂が宿っている。
「もう! 夢がないやつー!」
ミズキは少し呆れたように、しかし彼女がそう答えるのを分かっていたように笑ってツッコミを入れていた。リンは性格的に少しズレてはいるけれど、基本的には徹底した現実主義者だ。ARで着飾った虚構の「映え」よりも、デバイスの処理速度を信じるようなタイプ。
でも、と僕は思う。リアリストが恋をしないわけではないはずだ。リンの恋愛感情――それに、彼女自身は興味があるのだろうか。
そんな事を考えながら横目でカイトを見ると、何やら熱心に空中キーボードをいじっている。あ、こいつ、やるつもりだ。
『――なんて、嘘。いつも男の子モノばかり見てるから、男女のアレコレに興味ないだけ』
唐突に、リンそっくりの合成音声がカイトの骨伝導デバイスから周囲に拡散された。
……正直、最悪のネタだった。普段、氷細工のように冷静なリンが、一瞬で顔を真っ赤にしてカイトを睨みつける。
「アンタねぇ……やっていい事と悪い事が……ッ!」
「ごめん! ごめんって! 俺たちなんかハブられてるから、つい!」
普段では見ることのない、感情的になっているリンから逃げ回るカイト。ミズキが「最低だよー!」と笑いながら追い打ちをかける。
そんな喧騒をよそに、サキが首を傾げて、澄んだ瞳で僕を見た。
「ねえ、ハルトくん。『男の子モノ』って、何?」
「ぶふっ……!」
僕は吹き出した。サキの無垢すぎる爆弾投下に、逃げ回っていたカイトまで動きを止める。
「それは、その……ええと、友情とか、戦いとか、そういう……」
「サキ、あんたは知らなくていいの! カイト、あんたマジでこの世からデリートするから!!」
リンの叫び声が渋谷の雑踏に響き渡る。
騒がしい。眩しい。あのカフェの時と同じ、僕の愛する「虹色の檻」の景色だ。このふざけきった時間が、いつまでも続くと思っていた。
道玄坂のコスメショップに入るまでは――。
Ray-Verse(レイ・バース)。そこは現実の化粧品と、網膜に投影される『リンク・アイ』専用のハイエンド・スキンが並ぶ、眩いばかりの空間だった。
「さあサキ、今日は徹底的に可愛くしてあげるぞ〜!」
ミズキが手際よくサキの顔にARのメイクを重ねていく。サキは鏡の中の自分を、どこか遠い場所のものを見るような目で見つめていた。
「……ミズキ。この、瞳の中のハートマークも、お化粧なの?」
妙に艶かしいメイクをされたサキが、キョトンとした顔でミズキに尋ねる。
「お化粧っていうか、可愛く見せるためだよ。好きな人をドキドキさせるため!」
ミズキはそう言うと、不意に振り返って僕を見た。
「ねえ、ハルト! どっちのサキが可愛いと思う? こっちのピンク系と、さっきのナチュラルなやつ!」
「えっ、あ、僕……?」
突然の無茶振りに、僕は動揺した。サキが鏡越しに、真っ直ぐ僕を見た。昨日の笑顔とは違う、何かを深く、深く観察するような、吸い込まれそうな視線。
「……その、どっちも似合ってると思うけど。でも、いつものサキの方が、らしいっていうか。あんまり飾らない方が……いい、かな」
僕は堪らず目を逸らした。顔が熱い。それを見たミズキが、獲物を見つけた子供のように笑った。
「あー! 今の反応、あの漫画の五ページ目とそっくり!『飾らない君が一番好きだよ』ってやつ! ハルト、もしかしてさ〜……」
「ち、違うよ! 変なこと言うなよミズキ!」
僕は必死に否定したが、カイトの視線が突き刺さるようで痛かった。
だが、その場の空気を変えたのは、僕たちの背後から投げかけられた静かな声だった。
「……サキ、大丈夫?」
唐突なリンの指摘に、場が凍りついた。リンは無機質な視線のまま、サキの横顔をじっと見つめている。
「サキ、体調悪いんじゃない? 熱、ありそうだけど」
「え……」
僕は咄嗟にARのフィルターをOFFにした。その瞬間、彼女の白い頬が、じわりと、けれど鮮烈な赤色に染まっていく。それはミズキが施したようなチークの色ではない。皮膚の温度が急上昇し、毛細血管が浮き出たような、あまりに生々しい「赤」だった。
「……サキ!」
僕は彼女の手を握りしめた。
「熱い……これ、のぼせたなんてレベルじゃないよ」
指先から伝わってくるのは、四十度を超えているのではないかと思えるほどの、暴力的なまでの熱量。彼女の皮膚の下で、何かが悲鳴を上げているような気がした。 驚いて顔を上げると、潤んだ瞳のサキと視線がぶつかった。彼女は熱に浮かされたような顔で、けれど鏡のように透き通った声で囁く。
「……ハルトくん。私、壊れちゃうのかな」
瞬間、僕の頭はおかしくなった。返事をしたいのに、喉が渇いて張り付いたように、声が出ない。その理由も、すぐに分かってしまった。どう見ても体調を崩しているクラスメイトに"どうしようもないほどの情動"を抱いている自分自身を理解した。心底自分を殴りたくなった。それでも、それほどに彼女の美しさから目が離せない。その瞬間。
――ピキィィィィィン
僕の視界は、一斉に血のような赤に染まった。
それは僕だけでなく、店内の全モニター、さらに他の客のデバイスまでもが、一斉に血のような赤色に染まった。
「きゃあああ! 何これ!?」
ミズキが悲鳴を上げる。店内にいた客たちが次々と立ち上がり、パニックが広がる。
《緊急:物流管理AIのロジック異常により、無人配送トラックが暴走。港湾地区にて複数の死傷者が発生中》
網膜に強制投影された映像の中で、巨大なコンテナが歩行者を押し潰し、街が炎に包まれている。
「物流管理システムの、入れ替えが行われるかもしれない」
リンが、指先の震えを抑えながら、一人静かに呟いた。その瞳は、事故の映像を追いながら、僕の腕の中で熱を発し続けるサキの姿も同時に分析しているようだった。
「バグ調査が始まる。当然だけど、原因となったAIは……破棄か、初期化されるだろうね」
リンの言葉が、凍てつくナイフのように僕の胸に刺さった。僕は腕の中のサキを強く抱きしめた。彼女の体温はまだ下がらない。むしろ、街を焼き尽くす炎と呼応するように、さらに熱を増していく。
物流AIの暴走。サキの異常な熱。その二つが、一つの不吉な予感として結びつこうとしていた。けれど、僕はそれを思考の奥底に押し込めた。
僕たちは、まだ「檻」の中にいる。
それが虹色に輝いているうちは、誰も、外側の世界が壊れ始めていることに気づかないフリをして生きていけるのだから。
僕たちの、造られた青春。 黒瀬カケル @kakeru-kurose
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