僕たちの、造られた青春。
黒瀬カケル
第1話 虹色の檻
二〇六〇年、東京。
かつて若者文化の聖地と呼ばれた原宿は、今や巨大なエアドームと拡張現実(AR)のレイヤーに覆われた、極彩色の箱庭になっていた。
僕の網膜に直接投影されるARデバイス『リンク・アイ』の表示によれば、現在の気温は摂氏二十四度、湿度は五十%。不快指数ゼロ。
だが、視界の右端で点滅する極小の文字列「外周区:光化学スモッグ警報発令中」が、この快適さが薄氷の上に成り立つ虚構であることを静かに告げている。
でも、今の僕にとってそんなことはどうでもよかった。目の前の惨状の方が、よほど緊急事態だったからだ。
「ぶっ……あははは! ちょっとハルト、似合いすぎだって!」
竹下通りのオープンカフェで、九条ミズキがテーブルをバンバンと叩いて爆笑していた。
彼女の視線の先には、僕がいる。正確には、彼女が強制的にシェアした『ランダム・パーティ・フィルター』によって、無様な姿に変換された僕がいるからだ。
「ミズキ。これ解除してよ。流石に恥ずかしいんだけど」
「えー、ヤダ。だって『虚無僧』だよ? しかも尺八ネオン管で光ってるし。ハルトの仏頂面にピッタリじゃん」
ミズキが指先を空中で滑らせると、僕の視界にも自分のアバターが表示された。頭には巨大な編み笠。そこから原色のLEDが点滅する尺八が伸びている。僕が困惑して口を動かすと、アバターの尺八から『ポーッ!』と間抜けな電子音が鳴り響いた。
「だはは! 音出るのかよそれ! 腹いてーよ!」
一ノ瀬カイトが、涙を流しながら僕の背中をバシバシと叩いた。この男はいつもこうだ。善意百パーセントの笑顔で、僕の災難をエンターテインメントに変えてしまう。
もちろん、彼がこうして馬鹿騒ぎをするのは、隣で笑い転げているミズキの笑顔を見たいからだということは、僕にだって分かっている。
でも、不思議と嫌な気はしなかった。カイトの手のひらの熱さが、背中越しに伝わってくる。それが妙に心地よかった。
「動かないで。いま動画保存してるから」
逃げるように席を立とうとした僕を小鳥遊リンが嗜める。彼女はくっ……と笑い声を漏らしながら空中キーボードを高速で叩いている。彼女の瞳の奥では、今の僕の間抜けな姿が高解像度でアーカイブされていることだろう。
「リン、保存した動画アップするなよ。怒るぞ」
こんな姿が全世界に公開されたらたまったものではない。念のため釘を刺しておく。
「カイトが一番似合ってる。自信持って」
いや僕の顔も何も見えてないしなんの自信だよ……全く、この集団の中にいるとたまにこういうイベントが起きるから油断ならない。こういう時はこっち側に巻き込んでしまうのが正解だ。僕は虚無僧姿のまま、
「なら戦争だ。ミズキを"唇お化け"にしてやる」
と彼女に向けてフィルターをかけ始めた。
ぎゃああと悲鳴を上げながら彼女は座っていた席を飛び跳ねるように逃げた。おお、効果覿面だ。小さな逆襲に手応えを感じていた時、気づくと僕の周囲に、ホログラムの桜吹雪が舞い始めた。
風流だなハルト。とか言いながらカイトが追い討ちをかけてくる。ミズキはカイトの影に隠れて笑っていた。鬼畜カップルめ(カップルじゃないけど)
騒がしい。眩しい。恥ずかしい。周囲の客も僕たちを見てクスクスと笑っている。早く終わってくれ。そう思って、僕は助けを求めるように視線を巡らせた。そして、止まった。向かいの席。
小日向サキが、笑っていた。
いつもの「穏やかな微笑み」じゃない。口元を両手で押さえ、肩を震わせ、声を押し殺そうとしているけれど、全然我慢できていない。彼女の艶やかな瞳が、涙で潤んでいつも以上にキラキラと光っている。
「ふ、ふふ……ごめんね、ハルトくん。だめ、おかしい……」
彼女の笑い声が、ARの電子音や雑踏のノイズをかき消して、僕の耳に直接届いた気がした。 スローモーションのように、時間が引き伸ばされる。風に揺れる彼女の淡い茶色の髪。目尻に浮かんだ小さな涙の粒。その一つ一つが、どんな高解像度のARよりも鮮明に、僕の網膜に焼き付いていく。
ああ、綺麗だ。間抜けな虚無僧姿のまま、僕は呆然と彼女に見入ってしまった。彼女がこんなふうに笑うのを、初めて見た。
僕がピエロになることで、この完璧で静かな女の子が、こんなに人間くさい表情を見せてくれるなら――ずっとこのままでもいいとさえ思った。
僕は、この場所が好きなんだ。カイトに声をかけられる半年前まで、僕の世界は灰色だった。 数値化された成績、効率化された進路指導、親からの定型文のようなメッセージ。そこに色彩(いろ)を与えてくれたのは彼らだ。ミズキの勝手な行動も、カイトの暑苦しい善意も、リンのズレたツッコミも、そしてサキの優しい笑顔も。 全部、僕にとっての救いなんだ。例えそれが、都市計画の一環としてあてがわれた「模範的な青春」のパッケージだとしても、僕が今感じている「楽しさ」まで偽物だなんて思いたくない。
――ピロン。
無機質な通知音が、その場の空気を切り裂いた。僕だけでなく、五人全員のデバイスが同時に鳴った。
《学習進捗リマインダー:本日の課題未達。推奨帰宅時間まであと四十五分》
魔法が解ける音だった。ミズキの笑顔がスッと消え、虚空に浮かぶ赤いウィンドウを鬱陶しそうに払いのけた。
「うわ、最悪。もうそんな時間?」
「……俺、まだ数学の課題残ってるわ」
リンが気だるげに伸びをし、カイトもまた、「リーダー」の顔を慌てて取り繕う。
「しょうがねえよ。赤点取って学園から追放されたら洒落にならないしな。今日はお開き。ほら、帰ろうぜ」
カイトの号令で、僕たちは席を立つ。僕のアバターも解除され、ただの冴えない高校生に戻った。さっきまでの熱狂が嘘のように、全員の顔に「優等生」の仮面が張り付く。
この街では、楽しむことにも制限時間(タイムリミット)があるのだ。
ぞろぞろと店を出る五人。夕暮れの原宿は、ARによるイルミネーションで昼間以上に輝いていた。空には巨大な鯨のホログラムが泳ぎ、ビル壁面には無数の広告と、歩く人々のステータス情報が川のように流れている。
光の洪水。情報の檻。僕たちは、その中で飼われている家畜みたいだ。さっきまであんなに笑っていたのに、今は誰も口を開かない。
ふと、最後尾を歩いていたサキが立ち止まった。雑踏の中、彼女だけがエアドームの隙間から見える、本物の夕焼けを見上げている。
「……ハルトくん」
彼女が僕を呼んだ。振り返ると、逆光の中で彼女の輪郭が黄金色に滲んで見えた。さっきの笑顔の残滓が、まだ彼女の雰囲気に柔らかく残っている。
「この空の色は、本物かな?」
唐突な問いだった。僕は『リンク・アイ』の環境情報を確認しようとして――やめた。数値やデータで答えることを、彼女は求めていない気がしたからだ。
「……本物だといいな、って思うよ」
「ふふ。そうだね」
サキは嬉しそうに目を細めた。その瞬間、僕の視界の端で、彼女のステータス表示が一瞬だけノイズに飲まれた気がした。【Stable(安定)】の文字が歪み、読み取れない文字列へ。 瞬きをすると、すぐに元の青い文字に戻っていたけれど。
「行こう、ハルトくん。置いていかれちゃう」
彼女は僕の制服の袖を、ちょんと摘んだ。 デバイス越しの接触通知ではない、微かな、でも確かな布越しの重み。
胸の奥が、チクリと痛んだ。この温もりを失いたくない。カイトはミズキを見ていて、ミズキは多分「カワイイ」自分自身を見ている。なら、僕は。僕は、この不思議で完璧な女の子、サキのことを――。
僕たちの「造られた青春」は、まだ何も知らないまま緩やかに――でも確実に、終わりの時へと向かっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます