第8話 【エレオノーラ】未確認動物

 エレオノーラが「お仕事を」と言い切った、その次の瞬間。

 僕と悠真は同時に口を開いた。


「却下だ」「だめだよ」


「……え?」


 エレオノーラが鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。

 無理もない。彼女のいた世界では「働かざる者食うべからず」、あるいは「有用性を示さねば居場所がない」のが常識だったのだろう。


 だが、ここは違う。

 僕は眉間に皺を寄せて、きっぱりと言い放った。


「勘違いしないでくれ。君に労働などさせたら、僕の寝覚めが悪い」


(当たり前だ。あのハードモードなゲーム設定を考えたのは僕だ。「休む間もなく国に尽くす悪役令嬢」という設定にしたせいで、君が苦労したのは全部僕の責任なんだから……!)


 内心で滝のような冷や汗と罪悪感を流しながら、僕はポーカーフェイスを維持する。


 さらに、悠真が一歩前に進み出た。

 その瞳は、痛いほど真剣だった。


「そうだよ、エレオノーラさん。仕事なんて絶対ダメだ」


「で、ですが、対価もなしに施しを受けるわけには参りませんわ……」


「いいんだよ。だって、今までずっと頑張ってきたじゃないか」


 悠真の言葉に、エレオノーラが息を呑む。


「ゲームの中で見てたよ。領地の管理も、王室の外交も、全部ひとりで背負ってた。誰にも褒められなくても、睡眠時間を削って、ボロボロになるまで働いてたの、知ってるよ」


「それは、貴族としての義務で……」


「義務とか関係ないよ。……もう、十分すぎるくらい頑張ったんだから。お願いだから、休んで」


 悠真が、祈るように彼女の手を握りしめる。

 その言葉は、まるで彼女の魂の強張りを、ひとつひとつ解いていく魔法のようだった。


 そこに、じいやが静かにお茶を差し出す。


「お二人の仰る通りですな。こちらの世界とあちらの世界では、常識も技術も異なります。まずはこの世界の空気に慣れていただく期間が必要でしょう」


「じいや様……」


「焦らずとも、時間はたっぷりとございます。まずはゆっくりと、羽根を休めてはいかがですかな」


 三方向からの「休め」コール。

 エレオノーラは呆気にとられたように瞬きをして――やがて、肩の力がふっと抜けた。

 張り詰めていた糸が、優しく解けたような顔だった。


「……ふふ。参りましたわ」


 彼女は困ったように、でも嬉しそうに微笑んだ。


「異世界というのは、ずいぶんと……お人好しが多いのですわね」


 エレオノーラは背筋を伸ばし、清々しい声で告げる。


「わかりましたわ。ではお言葉に甘えて……少しの間、心と身体を休ませていただきます」


「うん! それがいいよ!」


 悠真がパッと花が咲いたような笑顔を見せる。

 僕も深く頷いた。


 場の空気が、温かい安堵に包まれる。

 これで一件落着――そう思った時だった。


「……それと、ひとつだけ……お願いがありますの」


 エレオノーラが、少しだけ照れくさそうに切り出した。


「お願い?」


 悠真が首を傾げる。

 彼女は、かつての「公爵令嬢」という重い肩書きを脱ぎ捨てるように、ふわりと笑った。


「これからは……『エレナ』と呼んでくださいませ」


 一瞬だけ、場に静けさが落ちた。

 拒まれるかもしれない――そんな不安が、ほんのわずかに彼女の表情をかすめる。


 けれど。


「うん。わかったよ、エレナさん」


 悠真が、当たり前みたいに頷いた。


 その一言で、張り詰めていた空気が、すっとほどける。

 名前を呼ばれただけなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 エレナはにこっと笑って、軽く胸を張った。


「はい、今日からはわたくしは『エレナ』ですわ。新しい生活ですもの」


 いい話っぽい。

 いい話っぽいんだけど――僕の心は別の意味でざわついていた。


 すると悠真が、ぽん、と手を打った。


「じゃあさ。せっかくだし呼び方、そろえない?

 これから一緒に暮らすんだし」


 桜が待ってましたと言わんばかりに頷く。


「賛成。エレナさんは『エレナ』で、私は『桜』でいいよね。

 おにいちゃんは――『悠真』ね」


「そうだね」


 素直に頷く悠真。かわいい。最高。


 じいやも深々と頭を下げた。


「承知いたしました。では皆さま、下のお名前でお呼びする形にいたしましょう」


 場が一気に決まりそうで、僕は慌てて口を挟んだ。


「ま、待って。僕は名字でいいよ。ほら、僕ってそういう――」


「じゃあ、”隼人”」


 悠真が、さらっと言った。


 ……は?


「え、いま……」


「隼人。呼びにくい?」


 軽い。軽すぎる。

 なのに破壊力が高すぎる。


 下の名前で呼ばれたぞ? 悠真に!


「……ゆ……」


 呼ばれて照れてる場合じゃない。僕が、悠真を呼ぶんだ。


「……ゆ、ゆーま……」


「なんでUMAになってるんだよ」


「ぼっちゃま、それでは未確認動物UMAでございます」


 じいやが真顔で刺す。

 ……だめだ。笑うと余計に落ち着かない。

 僕は一度だけ息を吸って――


「……悠真」


 言えた。


 悠真が少し驚いて、それから笑う。


「うん」


 その一言で、僕は終わった。


(今日はもう、まともに生きられない)


 ――共同生活、開幕。





――――――――――――――――


お読みいただきありがとうございます、久澄くずみゆうです。


エレオノーラではなく、「エレナ」としての一歩。

ここから少しずつ、安心できる日常にしていきます。


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次回も、よろしくお願いします。

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世界一の御曹司な僕、意中の彼を落とすために乙女ゲーを作ったら、なぜか悪役令嬢が現実世界に転移してきて同居することになった。 久澄ゆう @sandh2o

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