第4話
口笛を吹きながらラムセスはメリクの手を握りつつ、夜空の下のセフィラ草原に戻って来た。
遠くに天宮の巨大な影が見えている。
なだらかな草の丘を、のんびりとした足取りで。
ラムセスの口笛に、きゅいきゅい、と帽子の中の赤蝙蝠が合わせるように歌っている。
……不思議な男だ。
例えばこんな男が生前、メリクの生きた時代にいたなら、何もかもが変わっていたのではないかと思った。
思えばあの時代のサンゴール王国は、何かが全ておかしく歪んでいた。
「歪んでいる?」
「サンゴール王国の玉座にはアミアカルバ様が座っていました。
あの方は魔統にはない、アリステア王国の方です。
娘は、王位継承権のない王女だけ。
唯一の継承者だった第二王子は魔眼の所有者で、
玉座を継ぐには危険な精神状態にあり……」
「そして王家には、王家の血を引かない、優れた魔術の才を持つ平民がいて?」
光が瞬く。
ラムセスが笑っている。
もしくは、面白いと思っている。
「……いえ。俺はただ、貴方があの時代にいれば、間違ってそこにあるものに気付いたのかもしれないなと」
「まあなー。気づいたかもは知れんな。
だが正しいものを正しい所に戻したかは分からん。そういう国のゴタゴタは、俺は煩わしく思って生きて来た」
風が吹き下ろして来る。
【天界セフィラ】では夜にも聖なる鐘が鳴る。
「だけどな、メリク。
全てが間違っているように見えることなんざ、人の世じゃさして珍しいことでもない。
歪んでいるように見えても、そう見えるだけかもしれん。
女王アミアカルバは確かに自ら魔力に見放されているが、だがあいつの纏めた魔術書である【黄金の書】の出来は上々だ。
魔術師でないあいつに、あれだけの魔術観の系統化が出来たとは思えん。
【知恵の塔】の魔術師たちや――恐らく件の第二王子も編纂には助言で関わったはずだ。
あいつは自らが魔術師でないから、魔術師の知識に敬意を払ったし、
魔術師ではないからと魔術の価値を下には見なかった。
そして、その娘である王位継承権のない王女は、国にいても大した意味はなかったが、見事にそこから抜け出して、お前の許に辿り着いた。
完全じゃあないかもしれんが、お前の孤独を少しも拭おうと、そう思う人間がいることをお前に伝えたはずだ。
王女としては大したことが無くても、お前と不死者封印の旅をして、多くの人間を救ったんだろ。なら成果はある。
誰にも愛されず王宮の中で過ごした第二王子は、側に寄り付いた平民の子供に日々イラつきながらも、見事そいつを不慮の事故で爆死させることもなく成人するまで存命させ、そして自分は国の最大の危機で、生まれ持った力を使い国の為に戦い、その貢献を国の者に感謝して、最後には愛された。本望だったはずだと、お前の養母が言ってたぞ」
「セス」
「ん?」
「……リュティス様のことです。
貴方は誰にも愛されずに王宮の中で過ごしたと言いました。
それはサンゴール王国の者達の総意だと思います。
アミア様でさえ、そう思っているでしょう。
でも違います。
たった一人、彼を心から愛する人がいた」
「お前か?」
メリクは小さく微笑んで、首を振る。
「兄君です」
「兄?」
「アミア様のご夫君になります。リュティス殿下には実兄で、グインエル王子といいます。
彼はリュティスさまのような攻撃的な竜紋はなく、ただ、竜の血の業が病弱な体として生み出した……そういう方でした。
美しい、母上によく似ておいでだったらしく、サンゴール王国では【光の王】と謳われて、民にも愛された方です。
お父上のメルドラン王も、ご自分とは似た所のない【魔眼】を持たず生まれたこのご長男をそれは大切に想い愛されたとか。
早世なされたので、実際に会うことはありませんでしたが、絵でお姿を拝見したことがあります。……非常に美しい方でした」
なんとなくメリクの話し方が変だとラムセスは思った。
(怖がってるみたいだ)
グインエル王子を話すメリクの言葉には、深い畏れが感じとれた。
「あまりに光と闇のように違うご兄弟だったので、不仲だと思われていることも多いですが、グインエル王子はリュティス王子を、それは可愛がっておられたようです。
ああいう方なので……無邪気な弟は演じられなかったと思いますが、
リュティス殿下も兄上のことは、慕っていらっしゃいました。
それは死後でさえ、その優しい魂があの人の孤独を救うくらいに」
「……。」
「……ミルグレンのことを、リュティス殿下が重んじられるのも、その為です。
彼女はあの人にとって、この世でたった一つの尊いものだった。
レインが俺を慕っている姿は、快く思えなかったと思います」
「ふーん……。」
「だから人にはあの人が全ての人を憎み、誰にも愛されず、そういう人間に見えたでしょうがそれは違います。あの人は兄上には深く愛されて大切にされた。
だから国への愛を、殺さずに済んだのだと思います。
アミア様とも、協調関係を取れた」
「どうして他の誰も気づけない、そのことがメリクには分かったんだ?
愛の御業か?」
メリクは笑った。本当に鋭い人だ。
言葉の一つ一つの意味を、一瞬で深く読み解く。
「一度だけ、幼い頃……兄上の画を見上げていらっしゃるあの人を見たことがあります。
見てはいけないものだったんでしょうが、見てしまったんです。
兄上への深い想いを感じられる姿でした。
あの人のああいう姿を見たのは、あれが最初で最後だったから。
誰かを深く愛せる人なのだと、それで分かった」
「ふぅん……そうなのか。
――メリク、何で俺に今、その兄弟のことを話した?」
「いえ別に……何となく……。
……貴方は鋭い人なので、そのうち誰にも愛されず育った第二王子が何故そんなにも国の為に沈黙を守ったのか、理由が見つからないことに違和感を感じられると思ったので」
「なるほどな。それは確かにある」
「先ほど途中になりましたが、あの時代【竜の墓場】は本当の、サンゴール王族の神儀の場所になっていました。
アミア様が負えない、魔術的な部分をリュティス王子が負っておられた。
女王と王弟は、あの時代そういう協調関係で玉座を統治していました。
【知恵の塔】を本拠地とする宮廷魔術師団は、沈黙の第三勢力と呼ばれ、望んで第二王子の指揮下に入っていました。
あの人が、国で最もと謳われる魔術師だったからです。
誰も敵わなかった。
だから、あの人は国の災いになるようなものを【竜の墓場】に引き込んで、そこで始末していたのです。
側近のごく少人数の宮廷魔術師たちだけが、そういうことを知っていました」
「それは初耳だ。俺の時代の王族は、しなかった働きだな。
あの出不精のサンゴール王族が、自らの手でそんなことをするなんて俺には信じられん。
あいつらリンゴの皮も自分で剥けんような奴らばかりだったぞ」
メリクは笑う。
「リュティス殿下も表向きは、そういう姿を国の者には見せていました。
多分、あまり自分の攻撃的な力が表立つと、アミア様の立場が脅かされると危惧を抱く者も多いと考えられていたのでしょう。
あの人は王族としては、凄まじい行動力を持つひとですよ」
ザザザ…………
風が優しく草原を撫でて行く。
「国中の者が知らない、そういうことをお前が知っていることを、
あいつは知ってるのか?」
ザザザ……
メリクの緑の術衣の裾が大きく揺れた。
「……。さぁ、どうでしょうか……。多分知っていたとは思いますが」
「お前、さっきあの王子の人間嫌いは誰に対してもだが、自分に対してのそれは特別な気がしたとか言ってたな?」
「優れた魔術師は、相手の表に出さない感情や思考も鋭く感じ取ることがあると言います。
そして、あの人はサンゴールで最も優れた魔術師だった。
俺がサンゴールの者ではない平民でありながら王宮にいたこと、
アミア様に庇護を受け続けたこと、
ミルグレンに慕われていること、
成り行きにせよ表面的にせよ、自分と魔術の師弟と呼ばれることになったこと、
全てが目障りなもののように感じられたのかもしれません。
不気味な歪みとして。
そういう人間が、自分を慕ったような顔でついて来ることが、死ぬほど彼は許せず嫌悪したのかも」
「だとしたら、あの王子はとっくにお前の思慕に気付いてるということになる。
潜在的にしろ、何にせよ。
自分に相手が惚れているのなら、別に排撃せんでも放っとけばいいだろう。
憎んでいるなら警戒するかもしれんが、お前は近づいてくるなと一言言えば近づかなかったはずだ」
「……。そうですね。では単に、言葉を交わすことも疎ましいと思うほどに存在自体を嫌っていたんでしょう。
本当は殺したくて堪らなかったのに、ミルグレンの為にそう出来なかった。
だから余計憎んだのかも」
ラムセスが笑った。
「お前と話してると、
あの王子に嫌われたいのか好かれたいのか、分からなくなって来るな」
「…………そうですね。俺も時々、分からなくなることがありますよ。
好きな相手だと思えば愛されたかったですが、
そんなに憎いなら、さっさと殺してくれと思うこともありました。
でもあの人は殺してもくれないんです。
サンゴール王国を出る直前、初めてあの人に話しに行ったことがあります。
あの人に聞いたんです。
自分は、貴方にとって何かと」
「ロクな言葉じゃなさそうだ。俺は聞きたくない」
ため息交じりに聞こえたラムセスの声に苦笑して、ずけずけと聞いて来るお返しのつもりでメリクは言ってやった。
「『何の意味もないもの』」
ラムセスはがっくりとその場にしゃがみ込み、肩を落とした。
赤毛をわしわしと大きく掻き混ぜる。
「あの【魔眼の王子】、一回ぶん殴ってもいいかな?」
やめてくださいよとメリクは笑った。
なんでそこで、笑えるのかは分からなかったが。
「でも納得出来ました。
確かにそれなら愛する理由も、殺す理由も、特にないなと。
突然訪ねた非礼を詫び、その日の夜中に国を出ました。
……だから後悔はありません。国を出たことに関しては。
何度あの場面になっても、俺は出て行ったでしょうから」
「お前はあいつのために、
死ぬほど悩んで、想って、色んなことを耐えたのに、
そんな一言で終わったんだな。
お前とあいつの関係は」
「そうですね」
小さく笑う。
「でも、元々あって無かったようなものですから」
「一つ聞いてもいいか?」
「一番最初に聞きたかった言葉ですけど、いいですよ」
「お前はどうして一人でアフレイムに向かったんだ?
国を出たこと、
第二王子との因縁が終わったこと、お前は納得し後悔はないと言った」
なのにメリクは【次元の狭間】の側で死んでいる。
その矛盾がラムセスは気になった。
しばらく、沈黙が落ちる。
「……答えないでもいいですか?」
ラムセスは立ち上がり、メリクの頭を子供のように撫でて来た。
「いいぞ。じゃあそうしよう」
笑いながら、歩き出す。
遠ざかって行く。
「セス」
遠ざかる足音が止まった。
「ん?」
一瞬沈黙が落ちる。
ラムセスは吹き出した。
「なんで呼んだお前がそんなびっくりした顔をするんだよ」
「あ、いえ……。そうじゃなくて……すみません、全然話が変わるんですけど。
貴方に聞きたいことが」
「なんだ? 珍しいな。お前の方が俺に興味持つなんて」
そうでもないですよと軽く笑って誤魔化しながら、メリクは続ける。
「昼間――魔物と戦った時、貴方が最後に使った魔法……不思議な呪印に見えましたが、あれはなんの魔法ですか?」
「ああ。あれは【
「【ファナフレム】? でも……」
「というかメリク目が見えないのに何で俺の描いた『呪印』が見えるんだ?」
「それは……あの……」
「?」
「あの、答えないでもいいですか?」
ラムセスは腕を組む。
「これは駄目だ。魔術のことなんだから。洗いざらい話さないと許さん」
子供が拗ねたみたいな言い方に笑ってしまった。
「……あなたの気配が追いやすい、という話はしたと思いますが」
「ああ、言ってたな」
「……貴方は多分、精霊に好かれていますよセス」
「好かれてる?」
「変な言い方なのは承知なんですけど、他に表現が出来ないんです。
纏っているというような、そんな感じではないんですけど、
視力が失われて魔力の気配だけ追ってると、気づいたんです。
貴方の周囲には魔術を行使しなくても精霊の気配がある。
でも留まっているんじゃない。
なんていうか……風の通り道になっているような、そんな感覚です。
あなた、バットにも妙に好かれてるじゃないですか。
丁度あんな感じです。
面白いものが見れるから集まっている、野次馬みたいな」
「面白いものが見れるから集まっているって……人を珍獣みたいに言う奴だな」
「難しいんですよ、表現が」
「それで?」
「呪印が精霊の動きで、光のように感じ取れたんです。
視覚で見たと思えるほど、はっきりとした感覚でした。
貴方の描いた呪印を、精霊が正確になぞったから」
ああ……、とラムセスは頷いたようだ。
立ち上がり、メリクの手を取る。
「?」
ラムセスはメリクの手の平に呪印を指先で描いてみせた。
「これが、俺の【
「はい……」
随分違う。
優れた魔術師は詠唱や呪印を簡略化出来るのは知っているが、
ラムセスの描いた呪印は簡略化されたものではあったが、全く原形の違うものだった。
「俺は魔術研究に常に時間を割いているが、割きに割いてある時気づいたことがある。
正式に定められた魔術印でなくとも、精霊が反応する呪印というやつがあるんだよ」
「そうなのですか?」
「うん。これでも炎の精霊が集まった。だから面白くなって何回もやってるうちに、【
正直、理屈はまだ分からん。
よく分からんが精霊が好むカタチらしい。
面白いよなー 色んな呪印描いてたら気づいたんだよ。
他にもあるぞ。
今のところ分かってるのは、従来の魔術印よりもずっと簡単な呪印であること。
この世で俺だけがこの呪印で【
どうだカッコいいだろ。憧れていいぞ」
メリクは声を出して笑った。
「そうだったんですか……ファナフレムだとは思ったんですが、呪印が初めて見るものだったので、なにかな、と……。
そういえばほんの少しだけ、印象も違いました。
魔術の最後に、雷の精霊が走った気がします。
俺があの前に魔術を唱えていたので、何かそのせいかと思っていたけど。
普通の【
「あの時すぐ聞けばよかったのに」
「あ……。」
ラムセスは気づいた。
「また言葉を切った。――なるほどな。まあ確かに『精霊に好かれてる』なんて表現はきちんとした学府で学ぶ魔術師には、小馬鹿にされる表現かもしれん。
俺に言ったらどこぞの第二王子みたいにぶっ飛ばされると思ったのか?」
大笑いされて、メリクは苦笑した。
確かに魔術に関して、師の前で一切余計なことを口にしなくなったのは、痛いのが嫌だったからだ。
「でも俺は好きな表現だな。
俺たち魔術師は精霊法と、魔術観と、魔算術を用いて魔術を厳格に行使する。
精霊にとっちゃ、魔術師に呼び出されるのは規律の厳しい学校に呼び出されるようなもんかもしれん」
聞いたこともない例えに、メリクは笑ってしまう。
「けどな。例え義務的な習わしによって呼び出されても、その学び舎に面白い講師がいたら、お前その授業だけは受けたくなるだろ?
精霊ってのは偏屈もいるが、大半は素直だ。
あいつらは魔術に触れれば、触れるほど、そういう相手を信用するところがある。
高名な魔術師は確かに、精霊に好かれていると言えんこともないだろ。
側が心地いいんだ。
山ほど魔術師がいる。同じような知識を知り、同じ魔術を操れる。
その中に一人、いつ行っても、有意義な話や面白い話を聞かせてくれる奴がいたら、精霊だってそいつに懐くさ」
魔術学院では聞いたこともない話だ。
でも確かに、そんな気もする。
「魔術学院の秀才君には、不満な説明かな?」
「いえ……」
くすくすと笑いながら、メリクは風の吹き下ろして行く方を見た。
「額面通りの学びをした魔術師と、本当に魔術観に惹かれ、楽しみながら学び続ける魔術師が、力量において同じものになるはずがない。
精霊もそれを感じ取ったとして不思議ではない気がします」
「……どうしてだろうな」
ラムセスの声が響いた。
いつもはしゃいだ光のような精霊の気配がない。
星のように世界の奥に沈み、密やかに光を放っている。
「どうしてお前の師匠は、お前のこと、一度も誉めてやらなかったんだろうな」
彼はもう一度、そう言った。
学び続ければいつか、リュティスに魔術のことだけは、誉めて貰えるんじゃないかと思って懸命に学んでいた少年を、メリクは思い出していた。
……答えは分からないし、もう出ても仕方のないことだ。
「お前なら、恋だとか愛だとかそんなもん以前に、魔術のことで師匠に聞きたいこと、本当は山ほどあったんだろうな」
メリクは唇だけで微笑った。
「……。いいんですよ。自分で調べて学べば、同じことは出来た」
リュティスにとって、魔術は自分の身体に勝手に刻まれた業に繋がっている。
楽しいものなどであるはずがない。
目を輝かせて問いかけるなんて、間違っているのだ。
「一回くらい盛大に文句を言ってやれよ」
ラムセスは呆れたように言った。
メリク様ー、と丁度元気よく聞こえて来た。
「二匹の弟子がお迎えだ。
お前は師匠にはロクな扱われ方して来なかったようだが、
弟子にはよく慕われてる師匠だな。
いい師匠の才能あるぞ」
ラムセスがもう一度くしゃくしゃとメリクの栗色の髪を撫でてから、歩き出す。
「ラムセス! あんたこんな時間までメリク様を連れ回すんじゃないわよ!」
「こんな時間までいっぱい色んなもの採集して、とても楽しかった! 俺は疲れたから、これはお前らが持ってこい! すごい貴重な数多のものが入ってるから落とすなよ」
「わーっ! そう思うなら乱暴にこっちに投げないで! あぶないあぶない!」
「メリクさま!」
「レイン。おはよう」
夜空の下で、メリクは駆けて来て胸に飛び込んで来たミルグレンを笑いながら受け止め、優しくそう言った。
「大丈夫でしたか? あっ! こんなに裾が泥に汚れて! あいつー! また結界の外にメリク様を連れ出したんでしょ!」
「メリク、おかえりなさい」
エドアルトもやって来る。
「どうしたの二人そろって」
「ラムセスさんの部屋にいたあの白いバット、またいなくなっちゃったんです。ここら一帯探したんだけど、見つからなくて……」
「気にしないでいいんじゃないかな。あの白いのはやたらあの人に懐いてるから、多分彼が部屋に戻れば勝手に帰って来ると思う」
「よかったー! 怒られるかなと思っちゃった。俺、この荷物運んで来ますね」
「うん。ミルグレン、最近地上にいたと思うけど、みんなは? アミア様たちはお元気かな?」
「元気ですよ。お母さまはキースとオルハの家の子になる! とか言って相変わらず五月蝿いし、リュティス叔父様は優雅に一日中お茶飲みながら難しい本読んでますし。
私オルハには、最近お菓子作りとお料理教えてもらってるんです。
まだあんまり上手くないけど……でも上手くなりたいから頑張ります。
クッキー焼いて来たんですよ。
温かい紅茶淹れますから、部屋に戻りましょうメリク様!
エヴァリス伯母様に味もチェックしてもらって来たから、これは美味しく出来てるんです」
一生懸命喋りながら、自分の手を引いて歩き出すミルグレンを優しい表情でメリクは見た。
少しずつだが、普通の生活が過ごせるようになっているようだ。
楽しそうな様子が伝わって来る。
「……メリクさま」
ミルグレンが不意に立ち止まった。
彼女は振り返る。
「本当は私、ラムセスがこうやって貴方を勝手に連れ回すの、無茶苦茶腹立ってるんですけど……羨ましいし……。
でもよく考えたら、生前リュティス叔父様は全然丁寧にメリク様に魔術のこと教えてあげてなかったし、だからメリク様がああやって魔術のこと話せる人といるの、楽しく思う気持ちすごく分かるの」
メリクは微笑んだ。
「うん……彼は魔術師としてはすごいからね」
「やっぱりメリク様から見てもそうなんだ……」
ミルグレンは呟いた。
「ん~~~~~~~~、じゃあもう仕方ないです!
私もエドも魔術のことは、全然メリク様と楽しく話せるような領域に無いですし……。
もうラムセスとメリク様が一緒にいるところを邪魔するのはやめにします……嫌な顔をするのも。
わたし……メリク様が側にいないと、またいなくなっちゃうんじゃないかって不安に思って側に張り付いてたけど……そんなことしなくてもメリク様が私の美味しい料理食べたいなぁと思って戻って来てくれるようにお料理今のうちに頑張って覚えておきますね」
ミルグレンの中には生前から一度たりとも、
自分のことを忘れて見捨てて、違う人間と生きていくという発想がない。
「……ありがとう。レイン」
ミルグレンの、メリクの手を握り締める力が強くなった。
「あのね……メリク様……覚えてる?
私がメリク様の所に行った時、私に幸せになって欲しいって、そう言ってくれたこと」
「うん」
朧げだが。
「幸せに思えないことがあったら、必ず正直に言って欲しいって」
少し思い出したような気がする。
「わたし、メリク様に絶対そうするって約束したでしょ。
だから私は今もここにいるの」
ふとメリクはミルグレンの声のする方を見た。
やはり、ラムセスほど彼女の気配は追えない。
ただ何かをミルグレンが感じ取っているのは分かった。不安に思う何かを。
そしてそれを自分が取り除いてやれないこともメリクは理解した。
多分その原因が自分だからだ。
自分が遠くない未来、消えゆく方向に向かってることを彼女は感じ取っているのかもしれない。
「貴方の側にいるのよ。それは忘れないで」
光の血脈の優しい波動が、伝わって来る。
本当はしがみついていたいのだろうが、ミルグレンは側を離れてくれた。
その優しさに、メリクは深く感謝する。
自分は多分彼女をまた置いて行くと思うけど……せめて幸せを願っていたいとは思う。
「メリクさまが例え、私に……」
「レイン?」
「…………私に、全てを与えてくれなくても、…………わたしは……、それでいい。
……国を出て、貴方に会った時、……怒られて、国に帰れって言われたらどうしようって本当に怖かった……。
でも、貴方は怒らないでくれて、優しく受け入れてくれた。
サンゴールにいたとき、あんな風に受け入れてもらったことは私は誰にも、一度もなかったの……だから……」
泣いている彼女に近づいて、そっと抱きしめる。
「メリク様がどんなにわたしのこと、大切に想ってくれたか、私は分かってる……。
分かってるから……」
「レイン」
「メリクさまも、他人のことばかり守って、考えて、優しくしようとしないで、ちゃんと自分にも優しくしてあげて……。
もう、貴方が誰かの犠牲になるなんて嫌だ。
誰かの為に消えてしまうなんて。
メリクさまもこれからは好きなことをして、自分の望みを叶えて。
メリクさま……
だいすき。大好きです」
多分もう止められない、死の運命のようなものが自分を包み込んでいる。
自分の魂は、覚醒した瞬間から傷みだしている。
それでもミルグレンの言葉は、穴の開いた胸にも響いた。
ふとミルグレンはどんな顔をしていただろうかとメリクは思った。
忘れているわけではないけれど、鮮烈に、彼女の顔を覚えているという気がしない。
エドアルトもそうだ。
明るい瞳の少年だったと思うが、はっきりしない。
もう一度見てみたかったなと思っている自分に気付いた。
見れないのだから仕方ないとすぐ諦める気持ちは変わらないけど。
気になるのだ。
他にも気になることがある。
ラムセスというあの男は、どういう顔をしているんだろう。
どんな瞳で、ああいう話をするのか。
【天界セフィラ】の高い星。
天界の魚の泳ぐ湖は、どんな色をしているのだろう?
ラムセスは望めば明日、瞳は開くかもしれないと言った。
もし本当にそうだとしたら、
そう運命に言われたら、
自分はもう一度瞳を開きたいと願っただろうか?
……そう願えただろうか?
天を見上げかけたメリクは俯いた。
冷たい双眸がはっきりと、自分の魂の奥底を見据えて来る。
(見たくない)
結局、光を求める渇望に、闇の心地良さが勝ってしまう。
(俺は心底【闇の術師】なんだな)
風は、地の底に吹き込んでいた。
【終】
その翡翠き彷徨い【第85話 変わらないもの】 七海ポルカ @reeeeeen13
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