第3話
ダビデの星がフロントガラスを叩き、数珠がルームミラーを擦る。
正体を知っているから、もう不思議な音じゃない。いま分からないのは、自分がどうしたいかだ。あのとき、フクちゃんの前でお茶を飲めば、許してもらえたんだろうか。逃げたのは正解だったのか。じゃあ、これからどうする。
「どこに行けばいい?」市長の低い声。
「とりあえず、流してよ」
悩みながら歩くうちに雪がちらつき、目の前でドアが開いた千葉のメルセデスに乗り込んでしまっていた。温かいところで、少し考えたかった。
「ひどい顔だな。言っただろう、そんなドブ水を喜ぶ人間はいないってな。後でいただくぞ」
「考えておくわ」頭の中は別のことで一杯だ。
窓の外を駅前のロータリーが流れていく。外灯、フェンス、人、目に見えるすべてのものがデコレートされている。電飾された松の古木のシルエットが、チカチカと目の奥に残る。
「あなたは、イブを一緒に過ごす人がいないの」ぼんやり聞く。
「まだ決まっていないな」
かすかに歌声が聞こえる。徐々に大きくなり、歩道の赤い服の群れを追い越した。
覚えのある顔だ。去年の中年サンタ合唱団だろう。彼らの歌声と入れ替わりにパトカーのサイレンが迫る。すれ違うツートンの脇腹に『千葉県警』
「あなたは、千葉から通っているのよね」
市内に住まない彼は、外国人市長とも揶揄されている。
「ルーツがあちらでな」
「日本では、あんまり聞かない言葉だわ」
「母の墓がある」
横顔をうかがうが、言葉を続けるつもりはなさそうだった。
「私と同じね」
母はこの国の土に還った。
物心ついた頃には、もう病床にあった。あちらにいるときから、楽しく、ときに厳しく、母は祖国について色々なことを教えてくれた。それがマリアの原点だ。
母の願いで家族三人、マリアが六歳になるのを待って、この国に来た。
小学校一年生の新学期から登校できた。自己紹介は緊張したが、母に教わった言葉はよく通じた。遠巻きだったクラスメイトたちも、話しかけてくれるようになる。母の枕元で、今日の出来事を話すのが日課になった。
「隣の席の子、黒い髪がすごくが綺麗なの。お話してみたいけどきっかけがなくて」
母は微笑み、こう言ってくれた。
「向こうも、きっとそう思っている。こんな綺麗な髪なんだから……」
そして、病床から髪の毛をセットしてくれる。美容師だった母以外に、マリアは髪を触らせたことはない。
入学してからちょうど一週間がたった頃。
「新庄さん、名前が変」
級長の女の子に、面と向かって言われた。
マリアはどう答えていいか分からなかった。反射的に立ち上がるのが精一杯。
終わりの会のあと、日直のマリアは学級日誌をつけた。
教師の言ったことを、きちんと書けたと思う。自信を持って級長に提出した。
相手は日記を開くなり表情を曇らせた。嫌な予感がした。
でも、まさか名前にクレームがつくとは思わない。この国では珍しいかもしれないが、母にもらった大切な名前だ。
「ド、どこがヘンなの!」それだけは言い返せた。
教室が静まり返り、同時にチャイムが鳴ったのを今も覚えている。
「だって日誌も読めないし。書き直して」
チャイムが終わると同時に、級長は日誌をマリアの机に投げるように置いた。ぷいとあちらを向き、走り去る。教室にまた喧噪が戻る。
歯を食いしばった。でも、開いたページに一つ、二つと涙の染みが広がる。
『新莊瑪利亞
平成貳拾伍年 肆月七日 第伍囘終會。新學期開始ヨリ僅カ七日。早クモ規律弛緩ノ兆候アリ。教室ノ清掃、雜ナリ。注力セヨ』
日本語は難しい。一生懸命勉強したけど、通用しなかった。自分は日本人でもヨーロッパ人でもない、変な生き物なんだと思い知る。
「新庄さん?」
喧噪の中にすっと通る涼やかな声は、隣の席からだった。それまで口をきけなかった少女。こんな声なんだ、と思ったら涙が止まった。
先のちびた鉛筆が、太い文字を日誌に走らせていく。
『新莊瑪利亞』の隣に『新庄マリア』と、書き終えた黒髪の少女は、眩しそうな目で笑う。「これでいいと思うよ。一緒に書き直そう、ね」
それが、フクちゃんだった。
母に、生まれて初めて「友達ができた」と言えた。
あれから、髪の手入れも、話を聞いてくれるのも、フクちゃんが引き継いでくれた。イブもずっと一緒だった。
キンと澄んだ音が響いた。シートベルトが胸に食い込む。ごろりと転ぶ鞄をとっさに押さえた。目の前を何かが横切る。
「死にたいのか?」言った声は静かだが、市長はクラクションを叩く。
車道に飛び出した自転車は、対向車線の真ん中で止まっている。黄色いヘルメットが見えた。多分、片平だ。
「早く出して。女子高生を乗せてるなんて知れたら、あなた、まずいんじゃない」
メルセデスは、勢い良くスタートする。ドアミラーで黄色いヘルメットが揺れている。追って来るようだ。
膝の上で鞄の岩石が動く。これは、自分へのクリスマスプレゼントだ。
毎年、フクちゃんの顔に似た岩石を削りだし、磨いては部屋に飾ってきた。これで十一個目になる。母の死後は、この子たちに今日の出来事を報告している。
このまま、一人で岩を磨くイブになるかもしれない。フクちゃんはきっと、明日にはいつもどおり笑ってくれる、はず。でも、曖昧な関係のまま過ごしてきた、二人の高校生活最後のイブを、別々に過ごすのは、取り返しのつかないことに思える。
息苦しさが繰り返し胸を襲う。明日、あの子の顔が、知らない誰かに変わっていそうな、そんな不安がちらつく。
その時、赤いマフラーを巻く女子高生の姿が視界をよぎった。
背の高い詰め襟の少年と手を繋いでいる。ボタンを連打するが、窓は開かない。冷たいガラスに顔を貼り付け、目をこらす。フクちゃんじゃなかった。
ため息で、ガラスが曇る。背中が冷たい。わずか三秒で汗をかいた。
来年の今ごろには、フクちゃんは彼氏と、あんな幸せそうな顔で歩いているかもしれない。そのとき自分がどうしているか、暗闇が広がるのみでイメージが湧かない。
フクちゃんは美容師の専門学校に進学する。進路は別々だ。近隣の大学にはすべて合格しておいたが、一緒に住むわけではない。どうなるか、分からない。
ルームミラーの若いカップルは、たちまち黒い点になり消える。
お茶のペットボトルを握りしめる。バコっと音がした。
「許せない。そんな運命は」
でも、フクちゃんにはなんとか許してもらおう。少し手を考えたが、多分成功すると思う。今日はクリスマスイブ。人類が最も嘘をつく日だ。許される。
「川へ行って」
「どこの川だ?」
「あなたが水を飲んだあのドブ川よ、急いで。暗くなるわ」
お茶の黄色いパッケージが膝の上を転がる。結局、これを飲むしかない。
白々と輝く丸石の絨毯をローファーで行く。川面まであと十メートル。
「どこまで行くんだ?」
マリアは振り返った。市長の白い歯が薄闇に映えている。
「ここでいいわ」鞄を放る。
「そのお茶をもらえるかな?」
青のスクールバッグが、河原に重い音を響かせた。市長の目が一瞬そちらを向く。
ペットボトルを後ろに隠した。渡すつもりはない。
「こんな腐れ水を、好きになった理由は?」
「ものの好き嫌いに理由がいるかな」言いながら、一歩近寄ってくる。
川を指差す。「あの水を飲んだのが、きっかけじゃないの」
「あれは、パフォーマンスだったよ。まあ、確かに不味かったがな」
市長の表情は変わらないが、視線は川に吸い付いている。
マリアは胸ポケットからスマホを抜く。
「私は、このお茶を飲むライブ配信をするの。欲しければ奪うしかないわよ」
車を降りる前に、アンテナが立つのを確かめてあった。
「で、俺にはあちらを試せと?」
市長の長い睫毛に雪がひとひら乗っている。彼は瞬きもせず川を見ていた。
唇が歪み、肩が揺れる。笑い声のあと「きっと、お前もそのお茶をやめられなくなる」目を合わせて言う。近寄って来る。少し身構えるが、相手はあっさり横を抜けた。見送る背中が一度立ち止まる。
「ドライブ、楽しかったよ、お嬢さん。お茶は元々期待していなかったよ」
離れていく背中に、「新庄マリアよ」と名乗るが、返事はない。
彼は最後は小走りに川辺に進み、うずくまった。ほどなく、「悪くない」という声が耳に届く。
マリアはスマホに目を落とした。
ライブ配信はSNSで予告済みだ。イブ配信は毎年恒例。去年はかなり炎上した。
もう夕闇が迫っていた。顔を直す時間はない。かじかむ指先に息を吹きかけ、画面をスクロールする。まばらな雪が水滴になり、指を滑らせた。少し苦労して配信開始の赤ボタンに辿り着く。左腕を伸ばし、自撮りの角度でタップした。
「メリークリスマス」上を向くと鼻先に雪を感じた。
あっという間にコメントが流れていく。友達はいないが、フォロワーは多い。
「映らないと思うけど、雪降ってます! 今年は、このホワイトクリスマスに、川原で、世界一不味いお茶を飲みます。色々考えたけど、これがいいと思ったの」
この配信はきっとフクちゃんも見ている。ほとんど彼女へ向けての言葉だ。
<メリクリー><またなんかやってる><いつものヤベーヤツ><残念な美人>
コメントの流れが速く、あまり読めないが、褒められていないのは分かる。所詮、どこにも属せない変わり者だ。道化の自覚はある。
「飲むのか?」静かな声だった。
いつの間にか、片平が目の前に立っている。
返事を堪えた。考えながら、歯でボトルのキャップを外す。この黄色いヘルメットと一緒にいる所を、フクちゃんに見せていいんだろうか。赤いマフラーのカップルの姿が脳裏に蘇り、胸が沸き立つ。万一でも、こんな思いをさせたくない。無視することに決めた。
ワイヤレスイヤホンを差し込み、声が入り込まないようにする。無意識に二歩下がるが、相手は着いてはこない。邪魔をするつもりはないようだ。
画面に向け、明るい声を出す。
「このお茶ダイエットにいいそうなの。だから、イブのプレゼントにぴったり」
ほぼフクちゃんへの釈明だ。見てくれていることを祈る。
<痩せてるじゃん><ダイエットいるように見えないけど><何がぴったり?>
コメントはいつもどおりな感じ。ただ、今日は目の前で感想を言う人間がいる。
「お前がそうして飲むなら、それでいい。俺は見守る」
片平は腕を組み仁王立ちしていた。そしてまた静かな声で語り始める。
「少し、長くなるが聞け。俺はそのお茶を作った会社の跡取りだ。ウチは、この川の水で代々清涼飲料水を作ってきた……。それがごらんの有様だ。環境破壊の実態を世間に知らしめるために、そのドブ川茶を世に出した」
「そうそう、このお茶はバズって売り切れ続出。株価も上がったんだって。たぶん、これが世界で最後の一本。不味いらしいのにね」
<はよ飲め><もう別行っていい?><一回飲んだけど吐いちゃったよ>
「結局、不味いお茶はエンタメとして消費されて終わった。業界では掟破りの炎上商法として叩かれたよ。売れればなんでもいいのかってな。だから生産停止だ。誰も俺の本意に気付かない。俺は、最後の一本を飲み、今お前がやっていることをしようとした。それでまあ、派手に倒れるなりなんなり。世間に訴えるつもりだった」
「吐いたらごめんね」飲み口に唇を寄せる。
<バンされるんじゃね><やめとけよ><はよ飲め>
「できれば派手に倒れて欲しい。それが世間のためになる」
片平の淡々とした声は、本気に思えた。相変わらず目が血走っている。
さすがに失神はしないと思う。吐くかもしれないが、アカウントを停止されても平気だ。帰る場所が一つあればそれでいい。
「マリアちゃん! やめて!」耳の中に、突然フクちゃんの声が響いた。
彼女からのメッセージの着信音だ。声の主は嫌がっていて、変更を要求してくるが、どうしても変えられない。飲み口をくわえながらメッセージを開く。
『ケーキもあるよ』
写真が添付されていた。その中で、フクちゃんは赤いマフラーを頭に巻き、モップのようなつけ髭で口元を覆っている。サンタクロースの真似だろう。
見慣れたあの子の部屋のちゃぶ台に、ろうそくのまだ灯らないケーキ。そして、剥き身のマキタのグラインダーがある。プレゼントまで用意してくれていた。
いつもの優しい目だ。フクちゃんは、こうして、なし崩しに許してくれてきた。ただ、今日はいつもどおりではだめだ。あの子の言うことを聞いて、一歩踏み込みたい。何より、ここで吐いておけば、カレーパンの裏切りが露見しない。
「高校最後のイブだし。これまでとは違う、何かへ一歩踏み出すために飲みます」
顎を目一杯上げた。首とボトルが直線になると見栄えがいい。
まず喉に冷たさを感じる。続いて匂いが鼻を抜けた。味は最後に来た。
大きなゲップを吐く。唇を離し、中身が半分減ったボトルを見る。
「美味しいんだけど。なんで?」
「馬鹿な」声は間近だった。
あっと思うと、もうボトルを奪われていた。よろめいてスマホを取り落とす。銃声のような乾いた音が響き、ガラスの破片が散る。ワイヤレスイヤホンの接続が途絶えた。
片平も空を仰ぎ、ボトルを傾けた。すぐ飲み終えた彼は、しばらくペットボトルを見つめ、やがて口を開く。
「なぜだ。まるで普通のお茶じゃないか。むしろ美味い……」
後ろから笑い声が響いた。
泥だらけの市長の顔が、こちらを見て笑っている。
「お前ら、どうかしているぞ! こんなに臭くてまずい水は他にはない。臭い水マニアの俺が断言してやろう。この川の水は、最悪だ!」
ぶつぶつと、何か声のような呻きのようなものが耳に入ってくる。片平が口を動かしながらヘルメットに手をやっている。
「……そうか。この水道水を毎日飲む俺たちは、もう、慣れてしまっているんだ」
ペットボトルが河原に落ち、軽い音をたてる。すぐ横に、黄色のヘルメットが転がる。ダチョウの卵のような、つるりとした頭を露わにして片平は靴を脱ぐ。
「壊れているのは、俺たちの方だ」
彼はそのまま川へ歩いて行く。
マリアは口元に手を当て、自分の息を嗅いでみた。わざとゲップをしてみる。もうカレーパンの匂いは感じない。吐くまでもなかった。ドブ臭いお茶を飲んで正解だ。
これで、あの子の近くに唇を寄せてもばれない。
しゃがんでペットボトルに手を伸ばす。片平が強く握ったらしく、パッケージフィルムに皺が寄っていた。手に取ろうとした瞬間、隣のヘルメットが目に入る。
安全第一と書かれた黄色のボウル。こちらの方がいいだろう。
不思議に思っていた。自分はいくら食べても太らない。多分この水も理由のひとつだ。フクちゃんは三日で六キロも痩せたんだから。
あの子も、慣れればきっと平気。これに一杯汲んでいこう。
立ち上がろうとしたとき、「マリアちゃん! やめて!」と後ろから聞こえた。
すっかり暗くなった川原に、スマホが白く点灯している。まだ生きているようだ。
蜘蛛の巣が貼ったような画面を触ると、指先がひりついた。
『もう何もいらないから! はやくおいで。髪の毛、ボサボサだったよ。切ってあげるから』
添付されている画像の中で、ちゃぶ台にはカレーパンが一個と、昨年マリアが贈ったハサミが置いてある。フクちゃんには全てお見通しだ。
マリアは少し迷ったが、ヘルメットを被って走り出した。
世界一まずいお茶をドブ川で飲むメリークリスマス ナキヒコ @Nakihiko
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