第2話
誰かが窓をノックしていると思った。
後ろの座席、車の周囲にもそんな人は居ない。この音はなんだろう。
車内にコツコツと断続的に音が響く。
「進まんな」運転席の市長がため息まじりに言う。
やっと橋の半ばまで進んだところだった。渋滞に巻き込まれている。
市長の向こう、窓の外の反対車線も車で一杯だ。
右ハンドルのメルセデスに乗ると、いつも居心地の悪さを覚える。畳の上をスリッパで歩くような感覚だ。膝がむずむずする。車内に漂う不思議な香りも一因だろうか。ここで車を降り、あとは走ろう。そう何度も決心するが、そのつど車が進む。そして、すぐ止まる。
またコツン。音の正体にやっと気づいた。ルームミラーに掛かる数珠が、フロントガラスを叩いていた。先にぶさ下がるダビデの星が、くるくる回っている。
「辛抱、できないな」
声が近い。いつの間にか市長の身体がこちらに寄っている。アンビエントライトで顔の右半分が白く光っている。伸びてきた手を、強く払いのけた。シートベルトを解除する。
「最初から、これが目的だったのね」
市長は悪びれる風もなく、叩かれた手の甲をさする。「そうだ」ぱっちりとした目がさらに見開かれる。
「そのお茶をよこせ。俺に飲ませろ!」
「嫌よ! これは大事な人への贈り物。クリスマスプレゼントなの」
「そんな腐れ水を、喜ぶ人間がいるものか」
アンビエントライトの色が変わり、市長の冷笑が黄色く彩られる。
「そういうあなたは、なぜこんなものを欲しがるの?」
相手は突然目をつぶる。眉間に皺が寄った。
「渇くんだ……」
囁くような声とともに、さりげなくシートベルトを外すのを見逃さない。
「最初は興味本位の一本。気がついたら毎日飲んでいた。収まらないんだよ」
彼のポケットから、マネークリップで束ねた札が現れる。
「ただでとは言わない。十万円でどうだ」
瞬時に世界から、音も色も失せた。静謐の中で十人の渋沢と対峙する。
三人寄らば文殊の知恵と聞く。十人なら如来。渋沢の丸顔に後光が差し、アステカの太陽に変化する。
卒業旅行。
十万円あれば、フクちゃんとどこかに行ける。そういえば、この国に来てまだ初日の出を拝んでいない。房総半島の先っぽ、あの辺りがいいと聞く。一つのマフラーを分け合って頬を寄せ、一緒に太陽を拝む。渋沢の助けを得れば、それが可能だ。
「房総半島の先っぽ……なんていったかしら、確か、ノジマ? 初日の出にいい」
「コジマでもキタムラでもいいさ。千葉の地名なんて誰も覚えてくれないんだ」
市長の目はどこか寂しげだ。この車のナンバーも千葉っぽかった気がする。名前は思い出せないが。市長の舌が唇を舐め、言葉が続く。
「旅行は結構だが、年末は天気が悪くなる。おそらく初日の出は拝めない」
突然世界が色を取り戻す。けたたましいクラクションの音が鳴り響いていた。
「どうだ?」市長は音に動じる様子もない。
マリアは十人の渋沢を見ながら、その数字に因縁を感じている。
文化祭の役作りで、フクちゃんを太らせたのは丁度十キロだ。目の前に十万円。
十戒の十番にも言う。「隣人をむさぼるな」
自分の欲に負けてはならない。聖夜はフクちゃんに捧げるべきだった。
後ろ手にドアロックを触る。メルセデスには慣れていた。見なくても操作できる。
市長は察知したらしい。ためらうように手を泳がせ、向こうのドアに顔を向けた。
チャイルドロックをするつもりだ。
「ごめんなさい。さよなら!」
間一髪だった。頬に外の冷気を感じ、足の裏が固いアスファルトを打つ。無理に飛び出したせいで、重い鞄に身体を振られた。たたらを踏み、ついた膝で地面を滑る。
振り向くと、市長は助手席に身を乗り出して来ていた。胸に抱くペットボトルに熱を感じるほどの眼光だ。後続車のクラクションが鳴り止まない。ドアが閉じ白いメルセデスがスタートした。車を捨ててまでは追ってこなかった。
ひとつ息をつき、思い出したようにうずき始める膝に触れた。指先に血がつく。ハンカチで拭うが、そのたびに血が滲む。
パパは、愛情は与えるだけ帰ってくると、言い聞かせてくれる。
この気持ちは、渋沢にも諭吉にも負けなかった。茶のボトルに二回目のキスをする。このお茶を飲めば、きっとフクちゃんは寝込む。いつまででも、看病してみせる。二人きりのクリスマスイブはきっと幸せな夜になるはず。目頭が熱くなった。
視線の先に、白い掌が差し伸べられた。
「大丈夫?」優しい声を頭上に聞く。
マリアは涙を拭い顔を上げた。「ええ、大丈夫。悲しいんじゃないの……」
黄色のヘルメットに安全第一。片平だった。
「さあ、そのお茶をよこしてもらおう」
膝に手をつき、マリアは振り返る。
もう片平の姿はない。振り切ったようだ。頭の中にあの足音が残響している。
首元の汗を拭い、咳き込んだ。首にへばりつく髪を引き抜きたい気分。でも我慢。
口も喉もカラカラで唾も出なかった。息を整えている間に、視界が徐々に明るさを取り戻す。
そこは、ちょうどブティックの前だった。ウィンドウの向こうに、赤い帽子のマネキンが気取った様子で佇む。傍らに小柄なクリスマスツリーがちょこんとある。
ガラスに映る前髪を直した。ハンカチでそっとTゾーンをおさえる。
中の店員と目が合い、微笑みを交わした。映り込む人の足取りが軽く見える。
イブの、そわそわした町の雰囲気は、いくつになっても好きでいられそう。
どこかから流れてくる『赤鼻のトナカイ』に、つい声を合わせてしまう。「真っ赤なお鼻の……」ウィンドウが震えるほどの大音量。行き交う人が足を止めた。マリアの歌声ではない。振り返ると、交差点の向こうから、赤一色に染まるアドトラックが曲がって来る。歩道から子供たちが手を振り、大人はスマホを向ける。
液晶パネルのサンタさんは、コカコーラを手に微笑んでいた。赤鼻のトナカイの姿はどこにもなかった。動物はコーラを飲まない。それが更迭の理由だろうか。
喉が鳴った。手元のお茶に自然と視線が移る。これは飲めない。また喉が鳴る。
顔を上げると、白のメルセデスが目に入った。千葉っぽいナンバーだ。
脇の細い路地にとっさに飛び込む。入った途端視界が明るんだ。
人感センサー式の自販機が点灯していた。財布の中には百円玉が一つあるきりだ。
もう何も買えない。脇に挟むお茶のボトルが水音を響かせる。
ちょっとだけなら、というサタンの囁きを聞く。慌てて首を振ると、九十円という赤い文字が視界をかすめた。
「水道水、五百ミリリットル……九十円」
市長は川の水を安全と言い切り、さらにそれを水源にする水道水を、ボトルに詰めて売り出している。「パフォーマンス」「誰が買うんだ」とSNSで今も叩かれる。
でもいまは、地獄に仏だった。
ものの十秒でペットボトルは空になった。ありふれた水道水が今は甘露だ。
空の容器を押してみる。お茶とは違い固いパッケージだ。
水道水と書かれた下で、水晶のドクロが自撮り角度で「ウマイ!」と叫んでいる。
見た目にも心地よい清涼感だった。嘘のように汗が引いていく。
あの市長は時間と命をくれた。確かに、サンタクロースの名に恥じない。
「でも票は入れない」
ゴミ箱に叩き込んだ。橋が直るまで許さない。
もう待ち合わせの時間を五分過ぎている。
でも、もうすぐそこだ。両足に力がみなぎる。
潤った鼻にフクちゃんの甘い香りが忍び込んでくる気がした。
フクちゃんと会うときは風下から近寄るのがいい。
それだけ長く香りを楽しめるからだ。
北風を鼻に感じながら、待ち合わせの児童公園に入る。
黒い人影が、ぽつんとベンチの上で膝を抱いていた。
色白の横顔が学校指定のダッフルコートに埋もれている。黒髪が風にそよぐ。
思わず足が早くなる。
「ごめん、遅れちゃった」
頬を赤くしたフクちゃんは、いつもどおり、はにかむような笑顔で迎えてくれた。
「血が出てるよ」
言われて、擦りむいた膝の熱を感じる。「ちょっと転んだだけなの」
「そのままじゃだめだよ」黒いタイツの足が伸び、フクちゃんはベンチを立つ。
よちよち歩み寄る身体が、普段より一回り大きく見えた。着ぶくれだろう。
「絆創膏、はっておくから」
「……うん。ありがとう」
見上げてくる切れ長の目と目が合う。「痛くない?」涼しげな目元に泣きぼくろ。
いますぐ、この可愛い生き物を持ち去りたい。
「もう、血は止まってるね。大丈夫そう。マリアちゃん、また私のために無茶した? 今年はもう、普通のクリスマスでいいよ」
声とともに彼女の息が膝に触れる。心臓が跳ねた。
立ち上がったフクちゃんの手が伸び、マリアの髪に触れる。
手ぐしですかれ、「伸びたね、マリアちゃん。楽しみだね」と耳元で囁かれる。
フクちゃんは、卒業後は美容師の専門学校へ進学する。マリアは、いつも彼女に髪を切ってもらっていた。イブの夜にばっさりいくのが、毎年の習慣。
「ん? 何か匂うね?」
マリアははっとして飛びすさった。「ごめん、汗かいたから!」
「そういうのでも、ないような……。まあ、いいけど」
フクちゃんは微笑むと、身を翻した。黒い背中がゆっくり遠ざかり、夕日を背に白い顔だけが向く。「どうしたの? おいで、マリアちゃん」
「プレゼント……クリスマスプレゼントが、ある」少し咳き込んでしまう。
今度はフクちゃんの肩が跳ねた。背伸びして周囲を見回し始める。
「あ、あのおじさんたちが、去年のアレが……どこかに隠れてるとか。ないよね? ないって言って」
小ぶりの可愛い唇が震えている。そこを目がけてゆっくり歩く。
「今年は二人きりよ」
お茶のボトルを、よく見えるように掲げた。
フクちゃんの動作が止まった。瞳孔が開いている。口も開く。
そこから、茶色の液体がほとばしった。
たちまち、二人の間に半径五十センチほどの水たまりが広がる。
「それ……トラウマだから……」
咳の合間の途切れ途切れに、フクちゃんの嗄れた声が聞こえた。
目頭が熱くなる。
「フクちゃん、綺麗……」
ひょうたんのような形の水たまりに、固形物はない。
日中はお茶しか飲まないという宣言を、フクちゃんは守っている。
ゲロは嘘をつかない。
ポケットからハンカチを出すが、それは血に染まっていた。これじゃ口を拭ってあげられない。
「マリアちゃん! いっつもそう!」
強い声に驚かされた。フクちゃんの顔が真っ赤だ。
「去年も一昨年も、ずっとこんなんじゃん! 子供の頃から、もうバッタの汁とか、泥とか!」
幼い頃の遠い記憶。お腹が空いたと泣くフクちゃんに、甘いバッタ汁を飲ませた。
日焼け止めを忘れたと泣けば、顔に泥を塗った。他にも色々あったが、いつもフクちゃんは遠い目をして笑っていた。
もしかして、嫌だったんだろうか。
茶色のひょうたん池を映していた視界が、突然灰色になる。膝が震えだした。
「ごめん。私、分かってなかったかも、しれない」
「……飲んでよ」
灰色の景色の中で、フクちゃんの顔色だけは鮮やかだ。彼女は口を袖で拭い、一つ涙をこぼした。そして鼻をすする。
「飲んだら、私の気持ちが分かるよ。マリアちゃん」
飲めない。それは裏切りになる。
昼休みにじっとお茶だけで耐えるフクちゃんに付き合い、マリアも昼の弁当は抜いていた。しかし、こっそりトイレで毎日カレーパンを食べている。
今日も三個が胃に収まっていた。
吐けば、親友の裏切りをフクちゃんに突き付けることになる。きっと傷つく。
「ごめん、フクちゃん。私は、いいプレゼントになると思った。それは本当なの」
「飲まないの?」
マリアは鞄のジッパーを開く。
中の柔らかい繊維に手が触れた。二人で一つ、その夢のために編んだ赤いマフラーだ。
「ほんとは、これがプレゼント。お茶、買えるかわからなかったから」
取り出すときに、かすかに岩石に引っかかる。多分ほつれた。
二人を隔てる水たまりの向こうへ、マフラーを投げる。
フクちゃんは慌てた様子で、舞い上がる赤い布をキャッチした。
「ごめんね」
マリアは身を翻し、走り出す。
「あ、マリアちゃん。待って……」
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