世界一まずいお茶をドブ川で飲むメリークリスマス

ナキヒコ

第1話

 ペットボトルを握ると、山羊の腹だと思った。

 薄皮に宿る温もりに頬を寄せ、「待っててね、フクちゃん」と呟く。

 飲めば三日は寝込むまずいお茶。二人きりのイブのラストピース。

 ついに手に入れた。世界一不味いと評判のお茶だ。自販機のボタンには、売り切れが点灯している。とっくに生産停止で、これが世界で最後の一本かもしれない。

 新庄マリアは、黄色いボトルに頬ずりをする。

 これは愛する親友、フクちゃんへのクリスマスプレゼント。イブの今日まで探し回り、やっと見つけたところ。これで、今年も特別な日になりそう。

 子供の頃からずっと一緒のフクちゃん。彼女の、いつもの遠い目をした笑顔が脳裏に浮かぶ。待ち合わせの五時まであと四十分。走れば、まだ間に合う。

「それを譲ってくれ!」若い男の声は、背後からだ。

 振り向くと、血走った目と出会う。声のとおり若い男だった。安全第一と記されたヘルメットは黄色。ジャンパーは青を身に纏う。

 ネックストラップの胸元で、社員証が西日を反射した。『片平浩二』

「嫌よ」マリアは即答で首を振る。

 この間フクちゃんは、これを飲んで三日寝込み、六キロ痩せたと言っていた。

 一週間経つが、彼女の頬はまた前のようにぽっちゃりだ。つつくと、「マリアちゃん! やめて!」と激高し、白いほっぺが瞬時に染まる。

 リバウンドに苦しむフクちゃんは、「日中は飲み物しか摂取しない」と宣言して、今も苦行に励む。高校生活最後のイブだ。親友として、このお茶を贈るのは当然のこと。

「私たちにとって、とても大切なものなのよ」

「女子高生の分際で、足下を見やがって」

 言われて、つい目が下を向く。黒いスニーカーが分厚く見えた。かなりの上げ底だ。

 何かが破れるような音が響く。

 思わず、肩に掛けたバッグの底を撫でてしまう。

 今朝河原で拾った二十キロの岩石が入っているが、無事だった。たまに鞄を破くことがある。

 片平の手の中で、黒のアディダスのマジックテープ財布が空気を引き裂く。

 中からセピア色の紙が現れた。

「くれてやる。さあそのドブ茶をよこせ」

 片平の差し出すお札は、手先でへなりと垂れ下がった。

 一瞬、福沢諭吉をお金だと気付かなかった。横たわる諭吉の目をじっと見つめる。

 マリアの財布にはもう百円しか入っていない。

 パパは誕生日プレゼントならフェラーリでも買ってくれるが、毎月のお小遣いは厳しい制限を課す。「金銭感覚を養うのも、学業のうちだよ」

 パパの言うことは正しい。でも、月五千円は厳しすぎる。二年ぶりに見た一万円札から目が離せない。

「でも、一万円じゃディオールのリップが二個は買えない」

 自分の分も、もちろん必要だ。

 黄色いひさしの下で、片平の顔が赤くなる。こめかみに青筋が浮かんだ。

「その腐れ水で、家でも建てるつもりか」

「いい考えね」

 将来フクちゃんと一緒に暮らした。できれば、今日のイブをその第一歩にする。

 赤いストライプ入りのアディダスが、バリバリ雄叫びをあげ、またしても福沢諭吉が顔を出す。

「……三万円だ」

 突然何も聞こえなくなる。音のない世界で三体の諭吉と向き合う。彼らのセピア色の静かな目には、こちらの欲望などお見通しだ。

 心臓が早鐘を打つ。鼓動のリズムに合わせ、頭の中を「マキタのグラインダー」がリフレインする。年末に向け、岩石削りにどうしても欲しい。

「これ以上は出せないぞ!」

 片平の叫びで、我に返る。

 彼の顔は汗にまみれ、荒い息をついていた。目は変わらず充血している。

 この男はなぜ、この不味いお茶を欲しがるんだろう。もしかしたら。

「片平さん。あなたも、このお茶を誰か大切な人に届けたいの?」

「俺が飲むんだ。そうすることが皆のためになる。ええい、もういい! よこせ」

 片平の手が伸びてくる。それを払いのけ、後ずさった。

 自販機にカバンが当たり、バンと鳴り響いた。金属がたわむ感触が肩に伝わる。

 ガシャガシャと後ろから音がする。衝撃で飲み物が出てしまった。音から、いろはす三本と察する。お金がないとき、他人が買って飲むのを観察している。間違いはないはずだ。喉が鳴った。でも、これは窃盗になるから拾えない。

 片平の安全第一が迫る。「俺には、それがどうしても必要なんだ」

 身を翻し、黄色い頭の突進を避けた。重い音と、カバンに何かが当たった衝撃。五歩走り、振り返る。

 片平はずれたヘルメットを戻しながら、「そのカバンはなんだ……恐ろしく固い」と呟く。

「ごめんなさい、片平さん。痛かった?」

 相手は安全第一をすっとなぞる。「ウチの工場に嘘はない」

「これは売れない。お金にはかえられないわ。大切な人へのプレゼントなの」

 マリアは走り出す。フクちゃんとの待ち合わせまで、あと三十五分。

 五分も、イブの時間が減った。

 考えてみれば、ディオールのリップでもマキタのグラインダーでもフクちゃんは痩せない。あの子が太ったのには、マリアにも責任がある。しかし、まずは諭吉の誘惑に負けなかった自分を褒めたい。

 後ろから甲高い足音が聞こえた。肩越しに振り向くと、片平の青い影が目に入る。

 馬が逆立ちして走っているような足音が、なかなか振り切れない。

 首にまとわりつく長い髪を鬱陶しく感じる。早く切ってしまいたい。


 黄色のヘルメットを被る男が、詫びるように頭を下げている。

 通行禁止の看板だ。夕日に赤く染まっていた。

「困るわ」

 マリアはお茶のペットボトルを胸に抱く。まだ温かい。

 橋には規制線が張られていた。対岸がフクちゃんの待つ隣町だ。

「今朝、夜明け前に地震があっただろう? 傾いちまったんだ」

 本物の警備員が言う。彼のヘルメットは白い。

 確かに、今朝の地震は大きかった。

 丁度そのとき、マリアはこの下の河原で岩を物色していた。

 岩壁にマトックを突き立てた瞬間、手に異様な振動が伝わる。ドラゴンか何かの怒りを連想する。岩からどす黒い血が噴き出しそうに感じた。次の瞬間、地鳴りと震動が長靴の底を突き上げる。遠目に、暗い橋の影がたわむのが見えた。一気に街路が消えた。竜の逆鱗に触れたと思った。アジア的に言えば竜脈か。気づけば、指が勝手に、フクちゃんの連絡先をコールしていた。

「地震よ! すぐに避難して! 乾パンとあめ玉は用意してるわよね? クロゼットの奥にアタッシュケースがあるから、それを持って出てね。拳銃を入れてある」

「マリアちゃん。まだ朝の四時前なの。寝かせてよ……え、拳銃?」

「大丈夫、擲弾筒も入ってる」

 電話から、フクちゃんのふーという吐息が耳をくすぐる。何かサプライズを届けると、決まって幼馴染は甘いため息を漏らす。

「……マリアちゃん。今日の夕方、ちょっと外で会おう?」

「やっとイブの約束をしてもらえた」

「そんなこと言って……今年もするんでしょう?」


 マリアは時計を見る。午後五時の待ち合わせの時間まで、あと十五分。そして、半日以上フクちゃんの声を聞いていないことに気付く。今日は学校で口をきいてくれなかった。

「そういうわけで、下流の橋を通ってくれ」

 警備員のおじさんが指す橋は、白く濁る川を下った二キロは先に見える。鉄のアーチが架かる頑丈な造りだ。行き交う車が、キラキラと夕日を反射していた。

「あれは隣町が掛けた橋でな。こっちのオンボロとは、比べものにならんよ」

「走ったんじゃ、間に合わないわ」肩に食い込む岩石の重みが存在感を増している。

 足下がぐらりと揺れる。「余震だ。大きいな」警備員がヘルメットをおさえた。

 重い鞄が揺れて脇腹を打つ。マリアはうっと息を詰まらせながら、これで橋が逆に傾くような奇跡が起こらないかと一瞬、期待する。

「こりゃだめだな。河原も立ち入り禁止になりそうだ」

 橋はますます傾いていた。そう簡単に、サンタさんは来ない。

 スマホを取り出すが、地震の影響らしく圏外表示だ。遅れると伝えることもできない。フクちゃんはいつも、十五分だけ待ってくれる。それを越すと、二日は口をきいてくれない。

「市長は何でも放置さ。橋もとっくにかけ直しておくべきだったんだ。この川の汚染もそのままだ。市長はこの川の水を飲んで、安全だとパフォーマンスをしたが、何も解決していない。まったくひどいもんさ。なあマリアちゃん?」

「あ、あなたは、去年の?」

 白いヘルメットの下の、優しそうな顔に見覚えがあると思っていた。

 丁度一年前。去年のクリスマスイブに、フクちゃんの家の周りで賛美歌を歌ってもらった、五十代男性三十人の内の一人だ。

 遠い目で微笑むフクちゃんと、駆け付けた警察官も一緒に、みんなで記念撮影をした。子供の頃から毎年一緒にお祝いをしてきたが、去年は特にいいイブだった。

 インスタライブは大炎上して、アーカイブを許されなかったが。

「覚えていてくれてうれしいよ。今夜もあの独身五十代男性三十人で集まる予定さ」

 おじさんの唇の端が歪む。「クリスマスは、なにしろ、賑やかじゃないとな?」

 マリアは、はっとして時計を見た。もう、立ち話に三分も費やしている。

「通れないのか?」

 声に振り向くと、白いメルセデスが横付けされていた。EVだろうか。エンジン音を聞かなかった。

 窓から中年の男が色黒の顔を出している。これもどこかで見た顔だと思う。

「通れませんよ。市長」警備員のトゲのある声で思い出す。

 メルセデスの運転席から覗く精悍な顔は、アニメの一休さんを六十歳にしたらそうなるだろうなという風貌だ。スキンヘッドの頭を太い首が支える。耳にダイアのピアスが輝き、首元にはクリスタルの数珠。真冬だというのに、アロハシャツの胸が大胆にはだけている。秀でた額が動く度に夕日を鈍く照り返す。

 ポスターなどで見る市長の顔に、マリアはいつも言語化できない「何か」を感じていた。実物を前にして、それを今掴めた。

 サンタクロースが日本人なら、きっとこんな姿だ。

 幼い頃に来日して、最初に抱いたのは「ここにサンタさんは来てくれるの?」という不安だった。パパは「来るよ」と諭してくれたが、フクちゃんは「来ない」と断言した。「うちはずっと、イブにアマゾンの商品券もらってるから、見たことがない」

 それを聞いて、泣いてしまったのを覚えている。

 記憶の闇の向こう。泣いているあの頃の自分に、「来なかったけど、居た」と、今伝えてあげられた気がする。市長の浅黒い顔を見ながら、胸の奥にじわりと、温かいものが広がっていく。

 市長も目を細めてこちらを見ている。カールした長い睫毛がマスカラを塗ったように艶やかで、遠目にもファラオみたい。黒い睫毛には憧れがあった。

「君はハーフかい? すごく綺麗だ」

「知ってるわ」

 返事が他人の声に聞こえた。睫毛に少し見とれてしまった。

「橋を渡りたいんだな。乗っていくか? 遠いからな」

 胸元に視線を感じる。抱いていたボトルを背中に隠す。サンタ同士のプレゼント交換はなし。市長の濡れたような目が一瞬泳ぐ。「どうする?」

「ありがとう。乗せて貰うわ」

 これで、フクちゃんとの待ち合わせに間に合うかもしれない。クリスマスイブは、二人には特別な日。今年は、遅刻したくない。

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