第二話 飛べない鳥の羽音

七月の終わり。京都特有の蒸し暑い熱気が、最高潮に達した夜だった。


閉館間際、激しい夕立がスポーツセンターを襲った。

ロビーで途方に暮れる尚美に、洋平が声をかける。


「尚美さん、お迎えは……」

「来いへんのです。何度掛けても、誰も出てくれへんくて……」


いつもなら閉館と同時に滑り込んでくる黒塗りの車は、雨の中にその影もない。

心細そうに肩をすくめる彼女の姿に、洋平は意を決した。


「……送っていきますよ。自転車ですけど」


洋平の背中に、尚美の細い腕が回された。

雨に濡れて肌に張り付いたワンピース越しに、彼女の体温がダイレクトに伝わってくる。

それは冷たい雨の夜には不釣り合いなほど、生きている証としての熱を帯びていた。

ペダルを漕ぎながら、洋平は生まれて初めて、この時間が永遠に続けばいいと願った。


「洋平さん、ここで止めてください」


石垣に囲まれた、寺院のような屋敷の前で自転車を止めた。


「私、こんなにドキドキしたん、生まれて初めてです」


雨に濡れて潤む瞳を見つめた瞬間、洋平の感情が堰を切った。


「尚美さん。……僕じゃ、ダメですか。何も持っていない学生やけど、あなたを外の世界へ連れ出したい」


尚美は驚いたように目を見開き、やがてその頬を赤く染めて洋平の胸に顔を埋めた。


「私も……ずっと待ってたんかもしれへん。あなたが、籠の扉を開けてくれはるのを」



二人の交際は、常に細い糸の上を歩くような危うさを孕んでいた。

デートの場所は、九条家の目が届かない場所だけを選んだ。

壁の薄い洋平のアパートの一室、あるいは郊外の古びた喫茶店の隅。

彼女が望んだのは宝石でもドレスでもなく、自販機の缶コーヒーの熱さや、商店街に漂う夕飯の支度の香りだった。

洋平が教える”普通の世界”を、尚美は宝物のように慈しんだ。


しかし、二人が幸福の熱に浮かされるほどに、背後に伸びる影は色濃く、冷徹になっていく。



ある日、デートの別れ際に尚美が洋平をじっと見つめた。

その瞳には、悲壮なまでの決意が宿っていた。


「洋平さん、私、この家を出たい。あなたと一緒に、どこか遠くへ行きたいの」


その言葉に、洋平はただ歓喜した。彼女を縛る鎖が、今にも断ち切られようとしているのだと。

だが、二人の背後には、雨に濡れたアスファルトを静かに噛むタイヤの音があった。


家を出たいと願う彼女の決意を嘲笑うかのように、九条家の影は常に足元に伸びていた。


アパートの軒下、古本屋の角。

至る所に潜む『番人』の視線に、盲目となった二人はまだ気づけない。

自由への渇望が強まるほどに、彼女を縛る鎖はその冷徹な重みを増していく。


幸福の絶頂にいた二人の頭上で、逃げ場のない絶望の幕が、音もなく下りようとしていた。

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2025年12月23日 21:05
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冷たい水面が君を抱く スフィーダ @sfida_wazu

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