冷たい水面が君を抱く

スフィーダ

第一話 水光の邂逅

京都、北区。古い寺社と新興住宅地が混在するエリアに、古びた公共スポーツセンターがある。


大学生の河野洋平は、ここでアルバイトを始めて二度目の夏を迎えていた。

プールの監視、清掃、受付。

塩素の匂いが染み付いたポロシャツは彼の生活そのものだ。

両親に捨てられ、親戚の家を転々とした過去を持つ彼にとって、生活費と学費を稼ぐこの仕事は辞めるわけにはいかなかった。

プールで仲睦まじくはしゃぐ家族連れを見るたび、古傷が疼くことも度々あった。


「河野くん、次、受付代わって」

「はい」


先輩の声に促され、洋平はカウンターに座った。

自動ドアが開くたびに外の熱気が入り込み、扇風機がぬるい風をかき回す。


その時だった。

自動ドアが静かに開き、一人の女性が足を踏み入れた。

その瞬間、洋平の視界から色が消え、彼女だけにスポットライトが当たったかのような錯覚に陥った。

白のノースリーブワンピース。歩くたびに風をはらんで揺れる裾。

手入れされた黒髪が夏の陽光を撥ね返して輝いている。


「……あの、利用したいのですが」


彼女の声は、チェロの弦のように心地よく響いた。


「あ、はい。初めてのご利用ですか?」


洋平は声が上ずるのを感じた。心臓が警鐘のように脈打つ。

彼女が利用申込書に記した名前は『九条尚美』。住所は北白川。

古くからの名家が立ち並ぶエリアだ。

築四十年の壁の薄いアパートに住む自分を思い出し、一瞬だけ胸が疼いた。

彼女が記した文字は、驚くほど美しかった。


(綺麗な人は文字までも綺麗なんだな)


それに引き換え、自分の指先はどうだ。

親戚の家を転々とさせられるたび、重い荷物を握りしめてきた手。

結局どこにも居場所はなく、最後に行き着いたのは施設の冷たいベッドだった。

書き方さえ誰にも教わらなかった自分の名前。

凛とした彼女の文字を見つめていると、自分の過去まで不格好に思えて、洋平は小さく拳を握り込んだ。



「プールをご利用ですか?」

「はい。……体力をつけたいんです。私、あまり外に出ることがなくて」


彼女は少し困ったように微笑んだ。その微笑みには、壊れ物を扱うような危うさがあった。



それから尚美は週に三回、必ず現れるようになった。

二人の会話は最初は些細なものだったが、次第に互いへの関心が滲み出るようになった。


洋平が夜学のために働く苦学生であることを隠さず話すと、尚美はそれを異世界の物語を聞くような、純粋な驚きと憧れを持って聞いてくれた。


「コンビニのおにぎりが、そんなに種類があるなんて知りませんでした」

「食べたことないんですか?今度こっそり買ってきますよ。人気のツナマヨを」


洋平が冗談めかすと、尚美はいたずらが見つかった子供のように笑った。


しかし、彼女を迎えに来る黒塗りの車がロータリーに現れると、魔法は解ける。

尚美の瞳から親愛の色が消え、名家の娘としての仮面が貼り付く。

彼女は一度も振り返ることなく、重厚なドアの向こう側へと吸い込まれていく。

その境界線があまりに強固で、洋平は自分がプールの底に取り残されたような、言いようのない孤独感に襲われるのだった。


彼女の態度から透けて見えるのは、何不自由ないが、一歩も外へ出られないような厳格な家という名の鳥籠だった。

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