第5話 聖夜の奇跡、あるいは永遠の監獄
あれから、一年が過ぎた。
窓の外では、今年もまた白く冷たい結晶が空を舞っている。 名古屋の街を優しく、そして冷酷に覆い隠す雪。 テレビからは、聞き慣れた桑田佳祐の歌声が流れていた。
——奇跡を待つ人込みに、背を向けながら。
その旋律を聞きながら、私はリビングのソファで、腕の中の小さな命を静かに揺らしていた。 春に生まれたその赤ん坊は、今は私の胸の中で、安らかな寝息を立てている。 透き通るような白い肌。まだ柔らかい産毛。 その顔立ちは、成長するにつれて、かつて私を地獄へ突き落としたあの男——佐伯の面影を微かに、けれど確実に宿し始めていた。
鏡を見るたびに、そしてこの子の寝顔を見るたびに、あの夜の背徳が、泥のような記憶が蘇る。 けれど、今の私にそれを拒絶する権利はない。 私はあの日、定治の「愛」という名の判決を受け入れ、一生をかけてこの罪を背負うと決めたのだ。
カチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。 冷たい外気を纏って、定治が帰宅した。 手には、有名なパティスリーの箱と、小さな、けれどセンスの良い花束。
「ただいま、雅美。……勇(ゆう)くんは、もう寝たかな?」
定治はコートを脱ぐのももどかしそうに、真っ先に私と赤ん坊の元へ歩み寄った。 彼は膝をつき、赤ん坊の小さな頬に、慈しむように指先で触れた。 その眼差しは、どこまでも深く、濁りのない愛情に満ちている。
「ああ、可愛いな。本当に、俺たちの宝物だ」
その言葉を聞くたび、私の心臓はキュッと締め付けられる。 定治は知っているはずだ。 この子の血の中に、自分との繋がりが一切ないことを。 それなのに、彼は一度も疑う素振りを見せず、それどころか自分の実の子以上にこの子を愛し、慈しんでいる。
それは、究極の献身なのか。 あるいは、私に対する最も残酷な「復讐」なのだろうか。
私を裏切った男の子供を、自分という「正義」の手で育てる。 私がその子の顔を見るたびに罪悪感に苛まれるのを、彼は「優しさ」という名の檻で優しく見守っている。 私が、もう二度と、彼という光なしでは生きていけないように。
「雅美、これ。クリスマスプレゼント」
定治が差し出したのは、小さな青い小箱だった。 開けると、そこには繊細な輝きを放つダイヤのネックレスが入っていた。
「これからも、ずっと一緒にいよう。……もう、どこにも行かせないから。約束しただろ?」
定治が私の首元にネックレスをかけてくれる。 その時、私の左手の薬指に嵌められた結婚指輪が、部屋の明かりを反射してキラリと輝いた。 ——ああ、私はなんて幸せなのだろう。
そう思う。心の底から、そう思う。 私を裏切った男は、今頃どこかで空虚な野心に追われているだろう。 けれど、私はここにいる。 自分を裏切った女を、その過ちごと丸ごと飲み込み、一生をかけて守り抜くと誓った、強すぎるほどの愛を持つ男の傍らに。
これは、歪な愛だ。 一般的には、決して正しいとは言われない形の幸福かもしれない。 けれど、凍てつくような孤独の中で、泥にまみれていた私を救い上げてくれたのは、定治のこの「狂気」に近い執着だった。
私は定治の肩に頭を預け、再び赤ん坊の寝顔を見つめた。 かつての痛みは、もうない。 あるのは、ただ静かな、冬の夜のような諦念と、温かな絶望だけだ。
「……ありがとう、定治。私、本当に幸せよ」
私の言葉に、定治は満足そうに微笑んだ。 その微笑みは、聖夜の光に照らされて、どんな奇跡よりも美しく、そして深く私を繋ぎ止めていた。
外では雪が降り積もり、すべてを覆い隠していく。 私たちの罪も、秘密も、そして過去の汚れも。 真っ白な世界の中で、私たちは三人、永遠に覚めることのない夢を見続ける。
メリー・クリスマス。 愛という名の監獄で、私は今日も、微笑み続ける。
Completed for now
追伸
エピローグ有るんですが
文字オーバーの為掲載取りやめました。
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