第4話 受難の果実、あるいは共犯者の聖母

「結婚しよう」という言葉が、あんなにも恐ろしく響くものだとは知らなかった。  あの日、駅ビルのレストランからどうやって帰ったのか、記憶は曖昧だ。ただ覚えているのは、降りしきる雪の中で、定治が私の震える肩を抱き、一度もその手を離さなかったこと。その手の温かさが、私を赦す慈愛ではなく、獲物を逃がさない鎖のように感じられたことだけだ。


 入籍の手続きは、驚くほど速やかに進んだ。  定治は私の職場近くに新居を構え、以前のワンルームマンションにあった私の荷物を、まるで「汚れた過去」を焼き払うかのように新しく買い替えていった。  私の指には、彼が選んだプラチナの指輪が嵌められた。  それは愛の証というよりは、私が彼の所有物であることを示す、外れない枷(かせ)のように思えた。


 *


 新しい生活が始まって一ヶ月。  私の心は、常に深い霧の中にあった。  定治は完璧な夫だった。家事を分担し、私の仕事の悩みを聞き、夜は優しく私を抱いた。  けれど、彼に触れられるたび、私の脳裏にはあの不快な記憶が蘇る。  佐伯の、あの人を食ったような笑い声。  「俺は本気だから」と囁きながら私を蹂躙した、あの手の感触。  定治と愛し合えば合うほど、私は自分が一つの器に二つの異なる水を注がれたような、不純で醜い生き物に思えて仕方がなかった。


 そんな折、体に異変が起きた。  激しい倦怠感と、朝食の匂いに胸がむかつくような感覚。  最初は、急激な環境の変化とストレスのせいだと思っていた。  けれど、予定日を過ぎても一向に来ない「月」の知らせに、私は凍りつくような予感に襲われた。


 ——まさか。


 私は定治に内緒で、近所の産婦人科の門を叩いた。  消毒液の匂いが鼻をつく待合室で、私は自分の名前が呼ばれるのを、処刑を待つ囚人のような心地で待っていた。


「雅美さん、おめでとうございます。妊娠八週目ですね」


 医師の淡々とした言葉が、落雷のように私の意識を焦がした。  八週。  頭の中で、必死にカレンダーを逆算する。  定治が名古屋にやってきたのは一ヶ月前。  その前、彼が東京にいた間、私を抱いていたのは——。


 足の先から、血の気が引いていくのが分かった。  このお腹の中に宿っているのは、定治の子ではない。  私を「チョロいゲームの駒」と呼び、使い捨てて去っていった、あの男の種だ。   「……あの、先生」 「はい、何でしょう?」 「その……おろすことは、できますか」


 自分でも驚くほど冷淡な声が出た。  医師は眼鏡の奥の瞳を僅かに細め、カルテに視線を落とした。


「今の段階なら可能ですが、あなたの現在の体調、そして子宮の状態を鑑みると、中絶手術にはかなりのリスクが伴います。最悪の場合、今後二度と子供を授かれない体になる可能性も否定できません。慎重に判断されたほうがいいでしょう」


 病院を出た私の視界は、冬の夕暮れの中に溶けて消えそうだった。  絶望。  それ以外の言葉が見つからなかった。  定治を裏切り、その不倫相手の子を宿し、しかもそれを消すことさえ許されない。  神様は、どこまで私に残酷な罰を与えるつもりなのだろう。


 ふらつく足取りで帰宅すると、リビングには定治が座っていた。  彼は電気も点けず、薄暗闇の中で、私がテーブルに置き忘れていた産婦人科の領収書をじっと見つめていた。


「……定治」 「雅美。どこへ行ってたんだい?」


 彼の声は、凪いだ海のように静かだった。  私はもう、隠し通す気力さえ残っていなかった。  床に崩れ落ち、嗚咽を漏らしながら、すべてを告白した。  この子がおそらく彼の子ではないこと。  おろそうとしたけれど、危険だと言われたこと。  私を殺して。もうこんな自分に耐えられない。


 定治はゆっくりと立ち上がり、私の元へ歩み寄った。  罵倒を待った。あるいは、離縁の宣告を。  けれど、彼は膝をついて私を優しく抱きしめ、その耳元で、この世で最も甘美で恐ろしい言葉を囁いた。


「いいんだよ、雅美。……全部、俺の子だ」


「……え?」


「お前のお腹にいるのは、俺の子だよ。世間も、役所も、そして何より俺が、そう決めたんだ。だから、何も心配しなくていい」


 定治の腕の力が強まる。  彼は、私が別の男に汚されたことも、その男の子供を宿したことも、すべてを飲み込んで「自分の物語」に書き換えてしまった。  それは赦しではなかった。  彼は、私の絶望さえも糧にして、私を一生逃げられない「共犯者」の椅子に縛り付けたのだ。


「明日からは、もっと栄養のあるものを食べよう。……俺たちが、この子を幸せにするんだ」


 定治の瞳には、狂気にも似た深い愛が、暗い光を放っていた。  私は彼の胸の中で、ただ震え続けた。  外ではまた、雪が音もなく降り積もっていく。  すべての罪を白く塗り潰し、誰も知らない深い闇の底へと沈めていくように。








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