第3話 断罪のクリスマス・イブ
十二月二十四日。 街は残酷なほどに、祝福の光で溢れていた。 名古屋駅前の巨大なクリスマスツリーが、数千、数万のLEDに彩られ、冷たい夜気を色鮮やかに染め上げている。
私は震える手でマフラーを巻き直し、定治との待ち合わせ場所へ向かっていた。 今日は、定治が名古屋に越してきてから初めて迎える聖夜だ。 本来なら、一年のうちで最も心躍る瞬間のはず。けれど、私の足取りは鉛のように重く、心臓は肋骨の裏側を、まるで逃げ場を求める獣のように激しく叩いていた。
——雅美、イブの夜は、駅の金時計の前で。 そう言った定治の声が、今も耳の奥で、静かな宣告のように響いている。
あの引っ越しの日以来、定治の優しさは増すばかりだった。 毎朝のコーヒー。 「寒いから」と渡された、新しいカシミアの手袋。 けれど、彼と目が合うたびに、私は自分の輪郭が溶けていくような感覚に陥る。 私は彼を裏切った。 中途採用で入ってきた、あの軽薄で残酷な男——佐伯と。 職場の打ち上げで泥酔したあの夜、私は寂しさを言い訳に、佐伯の誘いに乗った。 一度きりの間違いなら、まだ許されたのかもしれない。 けれど、佐伯の「本気だから」という嘘の囁きに、私は縋(すが)ってしまった。 遠距離恋愛という、物理的な距離に負けたのではない。私は、自分の心の空洞を埋めるために、定治の信頼を、一番汚いやり方で売り飛ばしたのだ。
人混みをかき分け、金時計の前に辿り着くと、定治はすでにそこに立っていた。 彼はいつもより少しだけ、余所行き(よそいき)の顔をしていた。 黒のロングコートに、落ち着いたグレーのタートルネック。 その姿は、周囲の浮かれたカップルたちの中でも、ひときわ凛として見えた。
「雅美」
彼が私を見つけ、小さく手を挙げる。 その表情は、出会った頃と同じ、穏やかなものだった。 けれど、その瞳の奥には、どこか底知れない「闇」のようなものが沈殿しているのを、私は見逃せなかった。
「……待たせてごめん、定治」 「いいんだ。俺も今来たところだから。……さあ、行こうか。予約している店があるんだ」
彼は私の手を握った。 その手は驚くほど冷たく、けれど握力は異様なほどに強かった。 逃がさない。 そんな無言の意志が、皮膚を通じて伝わってくるようだった。
*
案内されたのは、駅ビルの高層階にあるフレンチレストランだった。 大きなガラス窓の向こうには、名古屋の夜景が宝石を散りばめたように広がっている。 流れているのは、ストリングスでアレンジされた『白い恋人達』の旋律。 美しく、切なく、そしてどこまでも孤独な音色。
食事が運ばれてきても、私は一口も喉を通らなかった。 フォークを持つ手が微かに震える。 定治はそんな私を咎めることもなく、淡々と赤ワインを口に含んだ。
「雅美」 「……え、何?」 「この一ヶ月、名古屋での生活はどうだった? 俺が来てから、少しは楽になったかな」
彼の質問は、あまりにも唐突だった。
「ええ……。定治がいてくれて、本当に助かってる。私、一人だとダメだから」 「そうだね。雅美は、寂しがり屋だから。……だから、誰にでも縋ってしまうんだよね」
カラン、と。 私の手からフォークが滑り落ち、白い皿の上で虚しい音を立てた。
「定治……? 何を……」 「佐伯っていう男、海外に行ったみたいだね。会社を辞めて、新しい夢を追いかけるんだって。……雅美のことは、もう忘れたみたいだよ」
心臓が、一瞬止まった。 脳内の血液がすべて凍りつき、思考が停止する。 なぜ。どうしてその名前を知っている。 どうして、彼が会社を辞めたことまで。
定治は、ジャケットの内ポケットから、一通の茶封筒を取り出した。 それは、先日、私が部屋で見つけたものと同じ質感の封筒だった。
「……見て」
彼がテーブルの上に広げたのは、数枚の写真だった。 そこには、私がもっとも隠したかった「汚れ」が、鮮明に、残酷に写し出されていた。 佐伯と腕を組み、背徳感に頬を赤らめてホテルへ入る私。 街角で、彼に身を委ね、貪るように唇を重ねる私。 そして——。 定治が再生したスマートフォンのボイスメモからは、佐伯の、あの人を小馬鹿にしたような笑い声が漏れてきた。
『雅美? ああ、あの女、チョロいよ。遠距離の彼氏が可哀想になるくらい、すぐ落ちた。……まあ、いい暇つぶしになったわ』
「ああ……っ」
私は声を上げようとした。 違う、と言い訳をしたかった。 寂しかったから。彼が強引だったから。 でも、どんな言葉も、喉の奥で泥のように固まって、外には出てこない。 事実は、あまりにも重く、醜い。 私は、私を心から愛してくれていた定治を裏切り、自分を「ゲームの駒」としか思っていない男に、その身を捧げていたのだ。
周囲の喧騒が、遠のいていく。 レストランの優雅なBGMも、クリスマスの華やかな空気も、すべてが私を嘲笑っているかのように感じられた。
私は、顔を上げることができなかった。 テーブルに視線を落としたまま、ただ声を殺して、震えることしかできなかった。 目からは熱い涙が溢れ、膝の上に置いた自分の拳を濡らしていく。 殺して。 いっそ、ここで私を罵倒して、殺してほしい。 定治の優しさを踏みにじったこの体を、彼の手で終わらせてほしい。
別れを告げられる。 そう、確信した。 彼はこのために名古屋へ来たのだ。 私の不貞をすべて調べ上げ、逃げ場を失わせたところで、一番残酷なやり方で私を捨てるために。
静寂が、私たちの間を支配した。 どれだけの時間が過ぎたのか。 定治がゆっくりと、椅子から立ち上がる気配がした。
「雅美」
冷たい、最後通牒を覚悟した。 けれど、私の頭上で響いたのは、凍りつくような冷淡な声ではなく、あまりにも深く、淀んだ、けれど確かな温かさを湛(たた)えた声だった。
「……雅美、結婚しよう」
「…………え?」
涙で滲んだ視界の中で、定治を見上げた。 彼は笑っていなかった。 けれど、泣いてもいなかった。 ただ、狂おしいほどの情念をその瞳に宿し、私を射抜いていた。
「もう、どこにも行かせない。もう、誰にも触れさせない。……俺が一生、お前を縛り付けておくから。もう一人になんて、させない」
それは、プロポーズという名の「終身刑」の宣告だった。 私を許したのではない。 彼は、私の「罪」ごと、私という存在を完全に所有することに決めたのだ。
外では雪が降り続いていた。 私たちのすべてを覆い隠し、永遠に閉じ込めるように。
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