第2話 沈黙の移住、あるいは真綿の監獄

 名古屋駅のコンコース。  師走の冷たい風が吹き抜ける中、人混みの中に立つ定治の姿を見つけた瞬間、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。  以前と変わらぬ、陽だまりのような穏やかな笑み。ネイビーのコートの襟を立て、彼は私に気づくと、大きく手を振った。


「雅美!」


 その声に、私は反射的に笑顔を作った。仮面のような、歪な笑顔を。  けれど、彼が再会の挨拶もそこそこに口にした言葉は、私の想定を、そして平穏な未来への期待を、跡形もなく粉砕した。


「会社、辞めてきたよ。来週から、こっちの物流会社で働くことになったんだ」


 耳を疑った。  定治は東京のIT企業で、次期プロジェクトリーダーとして将来を嘱望されていたはずだった。彼が積み上げてきたキャリア、深夜まで及ぶ激務の末に掴み取った信頼。それをすべて捨てて、なぜ。  喉の奥がカラカラに乾き、声がうまく出ない。


「どうして……そんな、相談もなしに。あなたの仕事、あんなに順調だったじゃない」 「雅美が寂しがってると思って。……それに、離れていると『悪い虫』がつくかもしれないだろ?」


 定治が冗談めかして笑う。  ドクン、と心臓が跳ね、全身の血が指先から引いていく感覚に襲われた。  その言葉の裏に、何か別の意味が込められているのではないか。私の不貞を、あの淫らな夜の数々を、彼は透視しているのではないか。  冷や汗が背中を伝い、コートの下で肌着がじっとりと張り付く。


 しかし、定治はそれ以上追及することなく、私の足元にあった重い仕事鞄をひょいと肩に担いだ。 「さあ、帰ろう。これからは毎日、一緒にいられるんだから」  その手つきはどこまでも優しく、献身的で、それゆえに毒のように私の精神を侵食していった。


 *


 それからの一週間は、泥沼の中を這いずり回るような心地だった。  定治は、私の狭いワンルームマンションに転がり込む形で、名古屋での生活を始めた。  二十平米に満たない空間に、男物の大きなスニーカーと、使い慣れないシェービングフォームの香りが増える。  本来なら、それは「遠距離恋愛のゴール」であり、至福の同棲生活であるはずだった。  けれど、私は定治の視線を感じるたびに、内側からボロボロと砂の城が崩れていくような、耐え難い恐怖に陥っていた。


 職場である広告代理店のオフィスは、さらに過酷な場所へと変わっていた。  佐伯がいなくなった後のデスク。  彼が他の社員にバレないよう、机の下で私の膝を撫で回した感触。  給湯室で背後から抱きしめられ、「お前の彼氏、今頃東京で間抜けに仕事してんだろうな」と耳元で囁かれたあの蔑むような笑い声。    佐伯は、先輩が海外で起業するという話に乗って、あっさりと会社を辞めていった。  彼にとって、私を落とすことは仕事の合間の「スコア稼ぎ」に過ぎなかったのだ。  転職までの暇つぶしに、遠距離恋愛中の女を寝取り、その背徳に震える様を見て愉悦に浸る。  佐伯の去り際の言葉が、今も耳の奥で呪詛のように繰り返される。 『雅美、お前みたいな”隙だらけの女”は、どこに行っても食い物にされるよ。……まあ、いい遊び相手だったよ。じゃあな』


 逃げるように退勤し、定治の待つ部屋へ帰る。  けれど、その部屋こそが、今の私にとって最も息苦しい檻だった。


「おかえり。今日は雅美の好きな煮込みハンバーグだよ」


 玄関を開けると、エプロン姿の定治がキッチンから顔を出した。  湯気の向こう側で微笑む彼は、あまりにも「理想の恋人」だった。  私が佐伯とホテルに入っていく時、彼は東京で私のために貯金をしていた。  私が佐伯の胸に顔を埋めていた時、彼は私の好物を思い出してレシピを検索していた。  その残酷な対比が、私を内側から焼き尽くす。


「……ありがとう。ごめんね、いつも用意してもらって」 「いいんだよ。雅美は営業で疲れてるんだから。俺が好きでやってることだからさ」


 定治は私の汚れきった過去を知らない。  佐伯とこの部屋のソファで過ごした、あの卑湿な夜も。  定治との電話を切り、「ごめん、愛してる」と嘘を吐いた直後に、佐伯に唇を許していた、あの卑劣な裏切りも。


 定治の優しさは、一本一本の鋭い針となって、私の皮膚を容赦なく突き刺す。  いっそ、彼が浮気の証拠を叩きつけ、私を罵り、部屋から叩き出してくれたなら、どれほど楽だっただろう。  無言の、あまりにも純粋な愛を向けられることは、どんな拷問よりも苛烈だった。


 食事中、定治がふと箸を止め、じっと私の顔を覗き込んだ。  その瞳は、深淵のように静かで、何もかもを見透かしているかのように澄んでいた。


「雅美。最近、少し痩せたかな。顔色も悪いよ」 「え……そうかな? 年末で、ちょっとバタバタしてて」 「そう。……何か、隠し事でもしてる?」


 心臓が止まるかと思った。  口に含んだハンバーグが、まるで粘土のような味に変わる。  嚥下できず、喉の奥が引き攣る。


「な、何言ってるの。そんなわけないじゃない」 「そう。それならいいんだけど。……俺たちはもう、離れちゃいけないんだから。ね?」


 定治は再び、穏やかな笑みを浮かべて食事を再開した。  その瞬間、私は見てしまった。  彼が私のスマートフォンを置いている場所を。  私が風呂に入っている間、あるいは眠っている間。彼は私の端末をチェックしているのではないか。  消去したはずの佐伯とのやり取り。  けれど、デジタルデータの残滓は、消そうと思えばいくらでも復元できるのかもしれない。


 夜。  隣で眠る定治の等間隔の寝息を聞きながら、私は天井を仰いでいた。  窓の外では、また雪が降り始めていた。  桑田佳祐の『白い恋人達』が、どこの部屋からか微かに漏れ聞こえてくる。    ——夜に向かって雪が降り積もると。  ——悲しみがそっと胸にこみ上げる。


 歌詞の一節が、鋭いナイフとなって胸を抉る。  私は、定治の愛を受ける資格など一分(いちぶ)も残っていない。  いつかこの嘘が、このあまりにも醜悪な裏切りが白日の下にさらされる。  その時は、潔く消えよう。彼にこれ以上の絶望を与えないために。  そう決めていた。


 けれど、この時の私はまだ、何も分かっていなかったのだ。  定治が名古屋に持ってきた引っ越し段ボールの、その一番底に隠されていた、真実の重さを。


 そこには、一冊の分厚い茶封筒があった。  中身は、私と佐伯が腕を組んでラブホテルへ入っていく後ろ姿。  路地裏の車の中で、私が恍惚とした表情で佐伯に縋り付いている写真。  そして、佐伯が居酒屋で「あの女、チョロすぎて笑えるわ」と友人に吹聴している、生々しい音声データ。


 定治は、すべてを知っている。  私が彼に「仕事が長引くから」と嘘を吐き、別の男の腕に抱かれていた、その一分一秒のすべてを。  知った上で、彼は職を捨て、キャリアを捨て、私を逃がさないためにこの部屋へやってきたのだ。


 外の雪は激しさを増していく。  すべてを白く、美しく覆い隠すように。  その下で、真っ黒な絶望が凍りついていくことも知らずに。


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