第8話 王子の裏切り
第8話 王子の裏切り
夜更けの回廊は、冷えていた。
石壁が昼の熱を失い、靴底からじわじわと冷たさが上がってくる。
王子ユリウスは、外套の前を強く掴みながら歩いていた。
――間違えた。
その思いが、胸の奥で何度も反響する。
「殿下」
低い声が、背後からかかった。
「……誰だ」
振り向くと、陰から一人の兵が現れる。
リディアの随行員だった。
「公爵令嬢がお待ちです」
一瞬、迷いが走る。
だが、足は止まらなかった。
小さな客室。
蝋燭は一本だけ。
炎が、壁に揺れる影を落としている。
「……夜分に、申し訳ありません」
ユリウスは、帽子を外した。
その手が、わずかに震えている。
「いいえ」
リディアは、椅子から立ち上がらなかった。
「殿下が来ると思っていましたから」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「……なぜ」
「戦争が、想定より長引いている」
彼女は、指先で机を叩く。
「そして、殿下は“将軍”なのに、
何一つ決められていない」
ユリウスは、唇を噛んだ。
「……宰相が」
「ええ」
リディアは、頷く。
「すべて、宰相カレルの判断です」
沈黙。
蝋燭が、ぱち、と音を立てる。
「……僕は」
ユリウスは、声を絞り出した。
「名ばかりだった」
拳が、ぎゅっと握られる。
「軍の配置も、補給も、
開戦の理由さえ……」
顔を上げる。
「僕は、署名しただけだ」
その声は、震えていた。
「それで?」
リディアは、目を逸らさない。
「あなたは、何をしに来たのですか」
一瞬、沈黙。
やがて、ユリウスは、深く頭を下げた。
「……この戦争を、止めたい」
息が、止まったような感覚。
「止めたい?」
リディアは、静かに繰り返す。
「今さら?」
「分かっている!」
ユリウスは、声を荒げた。
「遅いことも、
自分が臆病だったことも!」
外套の影で、肩が震える。
「でも……」
声が、低くなる。
「兵が、餓えている」
「民が、苦しんでいる」
「そして……」
言葉が、途切れる。
「僕は、
自分が始めた戦争を、
自分で終わらせる力すらない」
部屋に、静寂が落ちる。
「……殿下」
リディアは、ようやく立ち上がった。
「それは、“裏切り”ではありません」
ユリウスが、顔を上げる。
「“遅すぎた自覚”です」
その言葉は、優しくも、容赦がなかった。
「……それでも」
彼は、縋るように言った。
「力を、貸してほしい」
リディアは、机の上の書類に手を置いた。
紙の感触が、指先に伝わる。
「条件があります」
ユリウスの喉が、鳴る。
「……何でも」
「いいえ」
彼女は、首を振った。
「三つだけ」
蝋燭の光が、彼女の瞳に映る。
「一つ」
指を立てる。
「宰相カレルの失脚」
ユリウスの目が、見開かれる。
「……彼は」
「戦争の設計者です」
リディアは、淡々と言った。
「責任を取らせなければ、
この国は、同じことを繰り返す」
「二つ目」
指をもう一本。
「戦争責任の明文化」
「誰が、
何を理由に、
誰の命を使ったのか」
ユリウスは、顔を歪めた。
「それは……
国の恥になる」
「ええ」
リディアは、即答した。
「でも、隠せば“犯罪”になります」
沈黙。
「そして――」
三本目の指。
「婚姻の無効化」
ユリウスは、息を呑んだ。
「……君は」
「花嫁ではありません」
リディアは、はっきり言った。
「私は、口実として使われた」
「それを、帳消しにします」
ユリウスの肩が、大きく揺れた。
「……それは」
声が、かすれる。
「僕が、
王家を裏切るということだ」
「いいえ」
リディアは、静かに言った。
「王家を、生かす選択です」
長い沈黙。
蝋燭が、短くなっている。
やがて、ユリウスは、深く息を吸った。
「……分かった」
声は、震えていた。
「同意する」
拳が、膝の上で握りしめられる。
「宰相を、切る」
「戦争責任を、記す」
「婚姻は、無効にする」
顔を上げる。
「……これで、本当に止まるのか」
リディアは、微笑んだ。
それは、勝者の笑みではなかった。
「止まります」
静かな声。
「でも――」
一拍。
「あなたは、
“英雄”にはなりません」
ユリウスは、苦く笑った。
「……それでいい」
立ち上がり、深く頭を下げる。
「僕は、
英雄になる資格はない」
扉に手をかける前、振り返る。
「……君は」
言葉を探す。
「恐ろしく、冷静だ」
リディアは、答えなかった。
ただ、蝋燭の火を見つめていた。
扉が閉まる。
静寂。
「……始まりましたね」
イレーネが、陰から姿を現す。
「ええ」
リディアは、椅子に戻った。
「戦争の、終わりが」
彼女は、もう一度、書類に目を落とす。
裏切りではない。
これは、責任の移動だ。
そして――
国が、逃げられなくなる瞬間だった。
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