第7話 兵糧が尽きる日
第7話 兵糧が尽きる日
最初に崩れたのは、音だった。
朝霧の向こう、国境沿いの野営地。
いつもなら、鍋を叩く音、笑い声、馬の鼻息が混じる時間帯。
だが今朝は、風の音しかない。
「……静かすぎる」
ローデリヒが、低く言った。
「ええ」
リディアは、城壁の上から見下ろしていた。
土の匂いが、鼻に残る。湿っていない。乾ききっている。
「鍋が鳴らない朝は、長く続きません」
戦争は、始まった。
だが、終わらなかった。
「三日で決着をつけるはずだった」
隣国の将校の声が、遠くで荒れている。
「補給が……遅れている!」
「まだ来ないのか!」
怒鳴り声の裏に、焦りが滲む。
「……来ません」
部下が、俯いて答える。
「道が、使えなくなっています」
城内の一室。
リディアは、机に地図を広げていた。
「こちらは?」
「予定通りです」
ヘンリクが、帳簿を閉じる。
「倉庫から倉庫へ。
港から陸路へ。
すべて、婚姻随行の名目で整えた網の中」
「隣国側は?」
「……届いていません」
イレーネが、静かに言った。
「負傷兵の治療が滞り始めています。
栄養失調も、出ています」
リディアは、指先で地図をなぞった。
道。橋。川。
「ローデリヒ」
「はい」
「崩れているのは?」
「橋脚です。
補修されていない」
「壊したの?」
「いいえ」
彼は、首を振った。
「元から、壊れかけていた」
沈黙。
「……彼らは、短期決戦しか想定していなかった」
リディアが、呟く。
「長く続けば、
自分たちの国が先に餓える」
昼。
城下町の一角。
「……パンだ」
小さな声。
「本物の、パンだ……」
兵士が、震える手で受け取る。
「こちらは?」
「エルツハイム公爵家の紋章……?」
配給の袋には、はっきりと刻まれていた。
「……俺たちの分は?」
別の兵が、呻く。
「ない。
隣国軍には、支給はないそうだ」
怒りが、渦を巻く。
「なぜだ!」
「同じ戦場にいるのに!」
配給係は、淡々と言った。
「これは、婚姻条約に基づく物資です」
「婚姻……?」
「花嫁の随行として、合法的に運ばれたもの」
兵士たちは、顔を見合わせた。
城内。
報告が、次々に届く。
「隣国軍、脱走者が増えています」
「野営地で、争いが」
「貴族部隊と平民兵の間で、衝突が」
イレーネが、息を吸う。
「……空腹は、思想を剥がします」
「ええ」
リディアは、頷いた。
「忠誠も、正義も、
腹が満ちていてこそ」
夕刻。
城壁の上。
「……ひどいですね」
サムエルが、遠くを見る。
「兵が、鍋を奪い合っている」
「想定通りです」
リディアは、静かに答えた。
「でも」
サムエルが、彼女を見る。
「自国軍にだけ、供給するのは……」
「残酷ですか?」
一瞬、沈黙。
「いいえ」
彼は、首を振った。
「正確です」
リディアは、目を閉じた。
パンの匂い。
煮込みの湯気。
温かい食事の記憶。
「戦争は、剣で始まります」
目を開く。
「でも、終わるのは――」
「空腹ですね」
ヘンリクが、低く言った。
夜。
隣国軍の野営地。
「……もう、無理だ」
兵士が、地面に座り込む。
「三日だ。
何も食ってない」
「俺は……帰る」
「帰れるか?」
笑い声は、なかった。
その頃。
城の厨房。
「もう一釜、お願いします」
リディアは、袖をまくっていた。
「姫様!?」
イレーネが、驚く。
「……匂いを、覚えておきたいの」
湯気が立ち上る。
肉と野菜の香り。
「戦争の向こう側には、
必ず生活がある」
彼女は、静かに言った。
「それを、忘れた国から――」
鍋の蓋を、閉める。
「先に、崩れます」
翌朝。
報告は、決定的だった。
「隣国軍、士気崩壊」
「補給線、事実上の断絶」
「内部から、撤退の声が」
誰も、歓声を上げなかった。
ただ、深い息が落ちる。
「……血は、ほとんど流れていません」
イレーネが、呟く。
「ええ」
リディアは、窓の外を見る。
薄曇りの空。
遠くで、鍋の音が鳴る。
「それでいい」
彼女は、静かに言った。
「兵糧が尽きる日は、
戦争が終わる日です」
剣よりも、
砲よりも、
確実な敗北が、
今、静かに広がっていた。
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