第6話 開戦、その瞬間
第6話 開戦、その瞬間
夜明け前の空は、濁った灰色だった。
城壁の向こうから、低く、腹の底に響く音がする。
太鼓。
それも一つではない。
重なり合い、波のように迫ってくる。
「……始まったわね」
リディアは、窓辺に立っていた。
冷たい石壁に指先を当てると、夜の名残がまだ残っている。
「軍が動いています」
ローデリヒの声が、抑えきれずに震えた。
「国境線、全域。
“公爵令嬢への侮辱に対する自衛行動”だそうです」
「自衛」
リディアは、静かにその言葉を繰り返した。
「便利な言葉ね」
遠くで、角笛が鳴る。
鉄がぶつかる音。
馬のいななき。
戦争の匂いが、風に乗って届いた。
「姫様……」
イレーネが、息を詰める。
「本当に、始めてしまった」
「ええ」
リディアは、振り返らなかった。
「だから、今です」
机の上には、封をされた文書の束。
封蝋は、すでに割られている。
「ヘンリク」
「はい」
「各国大使館へ」
「すでに、使者は走らせました」
彼の声は、異様なほど落ち着いていた。
「同盟国、中立国、宗主国――
すべて、同時に」
「……時間差は?」
「ありません」
リディアは、小さく頷いた。
「それでいい」
隣国宮廷では、歓声が上がっていた。
「ついに動いたぞ!」
「これで奴らは――」
だが、その声は、長くは続かなかった。
「宰相!」
扉が乱暴に開く。
「各国から、照会が……!」
「何?」
カレル宰相の顔色が、一瞬で変わる。
「なぜ、もう?」
「文書が……同時に……!」
同じ頃。
遠く離れた王国の大使館。
「……これは」
白い手袋をした外交官が、文書に目を走らせる。
「隣国の提出した“国境条約違反の証拠”――」
頁をめくる音。
「……偽造だ」
別の国でも。
「この署名、年代が合わない」
「インクの成分が、新しすぎる」
さらに。
「軍事行動開始前に、
“婚姻を口実とした介入計画”が立案されている」
沈黙。
「……侵略だ」
城内の一室。
リディアは、椅子に腰掛けたまま、報告を聞いていた。
「第一報です」
サムエルが、息を切らして言う。
「国際会議が、緊急招集されました」
「早いですね」
「各国とも、待っていたようです」
イレーネが、呟く。
「……血を流さずに済む理由を」
リディアは、目を閉じた。
「“公爵令嬢への侮辱”」
小さく、繰り返す。
「彼らは、その言葉で、全てを正当化できると思った」
窓の外。
遠くで、砲声が響いた。
「でも」
目を開く。
「その瞬間――
条約は、目を覚ます」
ヘンリクが、低く言った。
「婚姻条約第五条。
“故意に戦争を誘発した場合、
その責任は当該国が全て負う”」
「ええ」
リディアは、頷いた。
「今、この瞬間から」
指先を、机に置く。
「これは、防衛戦争ではない」
一拍。
「侵略戦争です」
隣国宰相カレルは、叫んでいた。
「なぜだ!
なぜ、こんなに早く――!」
「宰相……」
側近が、震える声で言う。
「国際声明が……」
「読め!」
「……“隣国の軍事行動は、
正当防衛の要件を満たさず、
計画的侵略と認定される”」
言葉が、宰相の胸に突き刺さる。
「……花嫁一人、だろう……!」
城の客室。
リディアは、静かに立ち上がった。
「これで、終わりではありません」
誰も、口を挟まない。
「でも」
彼女は、確かに言った。
「勝敗は、今、決まりました」
ローデリヒが、深く息を吐く。
「剣を振らずに……」
「血も流さずに」
イレーネが、続ける。
リディアは、窓の外を見た。
空は、すでに朝に変わっていた。
灰色の雲の向こうに、淡い光。
「戦争は、始まりました」
静かな声。
「でも――
彼らは、始めた瞬間に負けた」
彼女は、泣かない。
叫ばない。
ただ、文書が世界を巡る音を、
静かに聞いていた。
それは、剣よりも重く、
砲声よりも確かな――
敗北の音だった。
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