第5話 公爵令嬢、条約を読み直す
第5話 公爵令嬢、条約を読み直す
夜は、静かだった。
城の客室。
分厚いカーテンの向こうで、風が城壁を擦る音がする。
蝋燭の炎が、紙の縁を舐めるように揺れ、インクの匂いが部屋に満ちていた。
「……ここも違う」
リディアは、ゆっくりと頁をめくる。
紙が擦れる、乾いた音。
「国境条約、第三版。
署名は三十年前。条文は……」
「曖昧ですね」
ヘンリクが、覗き込む。
「“善意に基づく管理”だなんて」
「戦争の前触れは、いつも曖昧な言葉から始まるの」
リディアは答えた。
指先が、文字の上をなぞる。
インクが、わずかに盛り上がっている。
「こちらは?」
イレーネが、別の束を差し出す。
「婚姻条約です。最新版」
封蝋を割る音が、小さく響く。
赤い蝋が、欠片になって転がった。
「……重いですね」
ローデリヒが言う。
「紙の重さは、責任の重さ」
リディアは、息を吸った。
冷たい夜気が、肺に入る。
「読みます」
声は、落ち着いていた。
「第一条――婚姻の成立をもって、両国は恒久的な和平を確認する」
「……恒久的、ね」
サムエルが、鼻で笑う。
「第二条――相互不可侵」
ページが、めくられる。
「第三条――国境地帯の一時的共同管理」
「……ここまでは、想定内」
リディアは、目を細めた。
「問題は――」
さらに、めくる。
紙の音。
炎が、ぱち、と鳴る。
「……あ」
誰かが、小さく声を漏らした。
「どうしました」
ヘンリクが、顔を上げる。
「……この条」
リディアは、指を止めた。
文字の列が、急に輪郭を持つ。
「第五条、附則――」
一瞬、言葉を切る。
「“婚姻関係にある当事国が、
故意または計画的に戦争を誘発した場合”」
部屋の空気が、変わる。
「“その責任は、当該国が全て負う”」
沈黙。
蝋燭の炎が、揺れた。
「……そんな条文」
ローデリヒが、息を呑む。
「聞いたことがない」
「でしょうね」
リディアは、静かに言った。
「誰も、読まないから」
指先が、文字を押さえる。
紙が、わずかに軋んだ。
「“婚姻相手が侮辱されたと主張する場合も含む”」
イレーネが、目を見開く。
「つまり……」
「難癖は、通らない」
リディアは、微笑んだ。
「侮辱を理由に軍を動かせば、
それは“故意に戦争を誘発した”ことになる」
ヘンリクが、帳簿を閉じる。
「……賠償。
国際的責任。
同盟国からの非難」
サムエルが、低く言った。
「終わりですね」
リディアは、椅子にもたれた。
背中に、冷たい木の感触。
胸の奥で、何かがほどける。
「……勝てる」
その言葉は、独り言のようだった。
「でも」
ローデリヒが、眉を寄せる。
「相手は、この条文を――」
「知っています」
リディアは、即答した。
「だからこそ、急いだ」
蝋燭の光が、彼女の目に映る。
「短期決戦。
事実が揃う前に、押し切る」
イレーネが、唇を噛む。
「……では」
「ええ」
リディアは、条文の頁を閉じた。
「時間を、稼ぎます」
「どうやって?」
ヘンリクが問う。
リディアは、静かに立ち上がった。
ドレスの裾が、床を滑る。
「私が、花嫁だから」
一同が、彼女を見る。
「婚姻が成立している限り、
この条文は、生きている」
窓の外で、風が強まる。
「彼らは、私を口実に軍を動かした」
彼女は、指を一本立てた。
「それを――
証明するだけです」
サムエルが、ふっと笑う。
「女一人で?」
「いいえ」
リディアも、微笑んだ。
「条約と、証拠と、時間で」
ローデリヒが、深く息を吐く。
「……戦争は、ここで終わるかもしれませんね」
「ええ」
リディアは、蝋燭の火を見つめた。
「始まる前に」
その夜。
彼女は、久しぶりに、深く眠った。
夢も、悪夢も、なかった。
ただ、静かな確信だけが、胸に残っていた。
――勝てる。
剣を振らずとも。
血を流さずとも。
文字は、戦争よりも強い。
リディアは、それを知っていた。
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