第4話 隣国の“戦えない理由”
第4話 隣国の“戦えない理由”
最初に気づいたのは、匂いだった。
甘くもなく、腐ってもいない。
ただ――空腹の匂い。
城下の市場を歩くと、埃が靴にまとわりつく。
乾いた風が吹き抜け、並ぶ籠の底が透けて見えた。
「……少ないですね」
イレーネが、小さく呟く。
「ええ」
リディアは答えた。
「売り声が、弱い」
魚屋の男が、こちらをちらりと見て、すぐに目を逸らす。
籠には、昨日のものらしい魚が数尾。
銀貨の音がしない。
「穀物は?」
「奥です」
サムエルが顎で示す。
倉庫の前には、人だかりができていた。
怒鳴り声。
子どもの泣き声。
「まだか!」
「昨日もそう言っただろう!」
門番が、必死に腕を広げる。
「本日は配給はありません!」
その瞬間、空気が凍った。
「……ない?」
イレーネが、唇を噛む。
「飢饉寸前です」
誰にも聞こえない声で言った。
「でも、公式には“豊作”のはず」
リディアは、頷いた。
「帳簿は、嘘をつく。でも、腹はつく」
その日の午後。
城内の応接室は、重苦しかった。
「我が国の現状を、詮索する必要はない」
宰相カレルが、低く言った。
甘い香のする酒が、机に置かれている。
「和平の象徴として、姫君は安らかに過ごしていただければ」
「安らかに?」
リディアは、杯に口をつけなかった。
「兵が動き、倉が空になり、
民が食べ物を探している国で?」
宰相の眉が、わずかに動く。
「姫君、言葉を慎みなさい」
「慎むべきは、事実ではなく、虚飾です」
部屋の空気が、ぴんと張り詰める。
「……第二王子殿下は?」
リディアは、視線を巡らせた。
「名目上の将軍、なのでしょう」
沈黙。
やがて、扉が開く。
「遅れてすまない」
王子ユリウスが現れた。
鎧は新しいが、歩き方が硬い。
「軍の視察で……」
「兵站は、どうでしたか」
リディアは、静かに問う。
ユリウスは、一瞬、言葉に詰まった。
「……問題は、ない」
「本当に?」
彼女は、王子をまっすぐ見た。
「荷車が足りない。
補給路が細い。
野営地に、医師がいない」
王子の喉が、動く。
「……誰から」
「民から」
リディアは、穏やかに言った。
「市場で、聞きました」
ユリウスは、視線を逸らした。
「……宰相が、全て管理している」
その言葉で、すべてが繋がった。
夜。
随行員たちは、小さな部屋に集まった。
地図が広げられる。
蝋燭の火が、揺れる。
「補給線、細すぎます」
ローデリヒが、指でなぞる。
「ここが切れたら、三日で終わる」
「資金も同じです」
ヘンリクが、帳簿を開く。
「短期決戦しか、想定していない」
「長引いたら?」
イレーネが問う。
「民が先に倒れる」
サムエルが、静かに言った。
「貴族も、揉めてますよ」
彼は、紙片を差し出す。
「領地配分で、内輪喧嘩」
リディアは、深く息を吸った。
蝋燭の匂い。
紙の音。
遠くで、犬が吠える。
「……つまり」
ゆっくりと言う。
「この国は――
長く戦えない」
誰も、否定しなかった。
「短期で勝つか、
短期で終わるか」
彼女は、目を閉じる。
「だから、急いだ」
宰相の顔が、脳裏に浮かぶ。
「婚姻を口実に」
王子ユリウスの、迷う目。
「女一人に、全てを背負わせて」
拳を、そっと握る。
「……でも」
リディアは、目を開いた。
「それは、弱点です」
皆が、顔を上げる。
「長く戦えない国は、
長く疑われることにも耐えられない」
ヘンリクが、息を呑む。
「つまり……」
「時間を、こちらが握る」
リディアは、静かに微笑んだ。
「戦争は、まだ始まっていません」
窓の外。
夜風が、城壁を撫でる。
「始まる前に――」
彼女は、言った。
「終わらせる理由を、揃えましょう」
誰も笑わなかった。
だが、恐れもなかった。
隣国は、強そうに見える。
けれど、その足元は、すでに崩れている。
リディアは、確信した。
――この国は、
勝てない戦争を、始めてしまったのだ。
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